ー甲斐健の旅日記ー

岐阜城/織田信長の天下統一事業の拠点となった城

 岐阜城は、岐阜市金華山(稲葉山)山頂にあった城です。戦国時代、美濃国を治めた斎藤道三の居城でしたが、永禄10年(1567)、織田信長が道三の孫の龍興を攻めてこの城を奪取し、天下布武(てんかふぶ)を押しすすめるための拠点としたことで有名です。標高329mの高さに設けられた山城です。

 岐阜城は、鎌倉時代初期、二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされます。二階堂行政は、鎌倉幕府の政所別当(一般政務・財政を司る長)として、初期鎌倉政権を支えた実務官僚の一人と伝えられます。戦国期になると、美濃守護代の斎藤氏がこの城を修復して居城としました。そして、天文2年(1533)、斎藤道三が城主となります。道三の父・長井新左衛門(斎藤氏の家臣)らが謀反を起こして斎藤氏を乗っ取り、その子・道三が斎藤氏を名乗って城主となったという説が有力といわれています。守護代となった道三は、稲葉山山頂に城を築き(これが岐阜城のもととなりました)、守護の土岐頼芸(とき よりのり)を追放して、戦国大名として名乗りを挙げました。

 しかし、道三が権勢を誇った期間は意外に短く、弘治2年(1556)に嫡子の義龍に長良川で討ち取られ、亡くなってしまいます。一方、当時清州城主だった織田信長は、天下布武の拠点とするため、美濃を奪取したいと考えていました。再三稲葉山城を攻めるもなかなか落ちません。しかし、永禄10年(1567)、美濃斎藤氏の重臣たち(西美濃三人衆)を調略した信長は、一気に稲葉山城下に攻め入り、斎藤道三の孫・龍興を追い出して城を占拠しました。信長はこの地を「岐阜」と改め、稲葉山城も岐阜城と改名しました。信長が「天下布武」の朱印を用い始めたのはこのころからといわれます。信長の天下統一事業はこの時から本格化していくことになります。

 天正4年(1576)、信長は安土城の築城を開始し、岐阜城の城主は嫡男の信忠となりました。天正10年(1582)、本能寺の変で信長・信忠父子が倒れた後は、信長の三男・信孝が岐阜城城主となり、まだ幼い信忠の嫡子・三法師の後見となります。翌天正11年、羽柴秀吉と対立していた信孝は、柴田勝家、滝川一益らと手を組んで挙兵し秀吉と相対しましたが、武運つたなく敗れ切腹して果てました。その後は、池田元助(池田恒興の長男、輝政の兄)➪池田輝政➪豊臣秀勝➪織田秀信(信忠の嫡子、幼名三法師)と城主は入れ替わりました。そして慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いで西軍についた織田秀信が敗退すると、徳川家康は、岐阜城の廃城を決めました。家康が、かつて信長が天下取りを狙って命名した「岐阜」という地名を忌み嫌ったからだともいわれます。岐阜城の天守、矢倉、石垣などは加納城(「岐阜」の地名は家康によって「加納」と改められ、岐阜城の代わりに加納城が築城されました)に、御殿は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたといいます。

 明治43年(1910)、金華山頂に岐阜城天守閣が再建されました。これは、木造トタン葺で、三層三階の建物でした。しかし、昭和に入って失火のために焼失してしまいます。現在ある建物は、昭和31年(1956)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造りで三層四階となっています。

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 岐阜城へのアクセスは、まず岐阜駅から岐阜バスに乗って岐阜公園に向かいます。JR岐阜駅バスターミナルの12番または13番乗り場発着のバスに乗って、「岐阜公園・歴史博物館前」で下車します(所要約15分:2017年4月現在)。岐阜公園内からは、金華山山頂までロープウェイが運行しています。平日は15分間隔(土日祝日は10分間隔)で運行しています。ロープウェイ山頂駅から岐阜城までは、徒歩10分足らずです。足に自信がある人ならば、ロープウェイを使わず登山道を上っていくこともできます。いくつかルートがあるようですが、一般的なのは大手道を上る「七曲り登山道」です。所要時間は約60分だそうです。

 岐阜城天守閣展望台からの眺望は、見ごたえがあります。眼下に長良川が流れ、乗鞍・日本アルプスや木曽御岳山などの宏大なパノラマを満喫できます。また、ロープウェイ山頂駅から岐阜城までの道の傍らには、非常時の貯水施設として造られたと考えられる井戸の跡や、戦国期に戦で亡くなった人々の霊を慰める題目塚、千成瓢箪発祥の地などがあります。さらに、岐阜城天守閣のすぐ東には、岐阜城関連の資料を陳列した岐阜城資料館があります。

 また、岐阜公園のあたりは、、信長時代の「政庁」と呼ばれる公的施設があった地域と考えられていて、ロープウェイの乗り場近くの高台には城主(信長)の居館があったといわれます。現在建物は残っていませんが、巨石列の区画の跡や、庭園にひかれたと見られる水路や石垣の跡を見ることができます(2017年4月に訪れたときは、発掘調査の最中でシートで覆われていました)。

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