ー甲斐健の旅日記ー

本能寺の変はなぜ起きたのか

 天正10年(1582)6月2日早暁、歴史を揺るがす大事件が起こりました。明智光秀率いる大軍勢が、京都の本能寺を襲撃し、稀代の英雄・織田信長を殺害したのです。本能寺は猛火に包まれ、信長の遺骸は見つかりませんでした。勢いに乗った光秀軍は、信長の嫡男・信忠が立てこもる二条御所を取り囲み、信忠も自害に追い込みました。これにより、あと一歩のところまで来ていた信長父子の天下統一の夢は潰えました。そして、本能寺の変から12日後、山崎の戦で明智光秀軍を撃破した羽柴秀吉が、その夢を継ぐことになったのです。

 明智光秀は、羽柴秀吉と並び信長に最も信頼された家臣の一人だったといわれます。その光秀が、なぜ信長に反逆し、謀反を起こしたのでしょうか。歴史上最大のミステリーの一つとして、数多くの説が発表されています。それらを検証して、本能寺の変の真相に迫ってみたいと思います。まずその前に、本能寺の変直前の信長と光秀の動きについて振り返ってみます。

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 天正8年(1580:本能寺の変の2年前)8月、11年にわたって織田信長と戦い続けた石山本願寺が降伏し、近畿周辺はほぼ信長が平定した形となりました。信長周辺にも、つかの間の平和ムードが漂っていたと思われます。翌年の正月15日(本能寺の変の1年5か月前)、信長は左義長(さぎちょう)という行事を安土城下で盛大に行いました。これは、派手な衣装を身にまとった信長や家臣たちが、馬に乗って爆竹を鳴らしながら走り回るというもので、見物に来た多くの群衆を驚かせたといいます。さらに信長は、京都でも馬揃え(うまぞろえ)の行事を行うことを決め、光秀にその準備をするよう命じました。統括責任者として光秀を指名したということです。馬揃えとは、武将たちが駿馬に乗って行進するという、いわば軍事パレードのようなものです。この馬揃えは、同年2月28日、内裏の東側に造られた馬場(幅109m、長さ872m)で行われました。正親町(おおぎまち)天皇はじめ公家や女官たち、さらに京の町衆もつめかけ、見物人は20万人にも上ったと伝えられます。あまりにも評判が良かったため、3月5日にも二回目の馬揃えが行われたほどです。この馬揃えは、安土での左義長の噂を聞いた天皇が、「まろもみたい」と言い出して実現したといわれます。しかし一方では、信長側にも政治的意図があったという説もあります。当時信長と正親町天皇は、譲位問題で対立していました。信長は、正親町天皇を退位させ、若き誠仁親王(さねひとしんのう)を新天皇とすることにより、朝廷への影響力を高めようと画策していたというのです。信長は、馬揃えで信長軍の威容を見せつけ、軍事的圧力によって天皇の譲位を迫ったという見方です。しかしそれでも、正親町天皇の譲位拒否の姿勢は変わりませんでした。

 さて、近畿を平定した信長の次の標的は、甲斐の武田勝頼でした。信玄の死(天正元年:1575年)や長篠の戦(天正5年:1575年)での大敗によってその力は衰えていましたが、いまだ強敵であることに変わりはありません。天正10年(1582)正月(本能寺の変の5か月前)、信玄の娘婿・木曽義昌が信長方に寝返ったことをきっかけにして、信長軍と勝頼軍が激突することになりました。木曽義昌の寝返りに怒った勝頼軍が義昌討伐のため信濃に侵攻しました。これに対して、義昌の援軍要請にこたえた信長は、協力関係にあった大名にも声をかけ、武田領に攻め入りました。伊那口からは嫡男信忠、駿河口からは徳川家康、関東口からは北条氏政(小田原城主)、飛騨口からは金森長近(柴田勝家配下)が、信長の号令のもと、一斉に侵攻していきました。さらに同年2月、武田一族の穴山梅雪が家康に降ると、武田勢は一気に瓦解し、勝頼は居城の新府城(山梨県韮崎市)を捨て、籠城戦覚悟で岩殿山城(山梨県大月市)に向かいました。しかし、勝頼を見限り離反した小山田信茂に行く手を阻まれ、追っ手につかまり自害して果てました。享年37歳でした。信長は、大勢がほぼ判明した3月5日に、光秀、細川藤高、筒井順慶らを引き連れて安土城を出て甲州に向かいました。甲州に入った信長は、武田氏の滅亡を見届けると、その場で論功行賞を行ったといいます。帰路は、駿河に出て富士山見物としゃれこみ、遠江、三河を通り、途中家康の本拠地・浜松城に宿泊して安土に帰りました。とっころで、この甲州攻めにおいて、光秀にとってはショッキングな事件があったといいます。伊那口より侵攻した信忠が、武田氏の菩提寺である恵林寺(えりんじ)を焼き討ちし、僧侶ら150人余りを焼き殺したのです。このとき焼け死んだ快川(かいせん)和尚が発したとされる辞世の言葉、「心頭滅却すれば火も亦た涼し」は、あまりにも有名です。快川は、正親町天皇から大通智勝国師の称号を受けた高僧でした。美濃出身で土岐一族の出とされ、光秀とは同族であり、光秀がこの事件に大変な衝撃を受けたとする見方もあります。

 同年5月15日(本能寺の変の16日前)、今度は徳川家康が穴山梅雪を連れて、安土城の信長のもとに御礼言上にやってきました。武田を裏切って家康についた穴山梅雪を信長が赦したことへの御礼でした。信長はこの接待役に光秀を指名しました。信長にとって家康は、永禄5年(1562)の清須同盟以来20年間苦労を共にしてきた同盟相手であり、その接待役に光秀を指名したということは、信長の光秀への信頼がこの時点でもゆるぎないものだったとみることができます。ところが、例えば『川角太閤記』(江戸時代初期に書かれた書籍)などには、「光秀の接待に不手際があり、信長が立腹して光秀の接待役を解任した。面目をつぶされた光秀は、料理を調理道具ごとお城の堀に投げ捨ててしまった。」とあり、この恨みが光秀謀反の一因となったといわれます(光秀怨恨説)。しかし、信長の重臣として天下統一の事業を支えてきた光秀が、もし信長の叱責があったとしても、このような幼稚なふるまいをするでしょうか。この話は創作以外の何物でもないと思われます。

 さて、武田氏が滅亡した後、信長は、大きな戦功をあげた滝川一益に上野国を任せ、また河尻秀隆を甲斐府中城の城主として、東の守りを固めさせました。また、越後の上杉氏は、謙信の死後やや勢力が衰えており、越前北庄城主・柴田勝家が対上杉の防衛ラインをガッチリ固めていました。後顧の憂いがなくなった信長は、いよいよ本格的に西に目を向けていきます。まず、中国地方平定の先陣として、羽柴秀吉が備中高松城(現・岡山市)に侵攻しました(4月14日)。高松城は周囲を沼で囲まれ、難攻不落といわれていましたが、秀吉は軍監・黒田官兵衛の提案を受け入れ、高松城を水攻めにしました。つまり、城の周囲に広大な堤防を築き、付近を流れる足守川をせき止めて水を注ぎこんで城の周りを湖水として、兵糧攻めにしようとしたのです。この工事には、付近の住民を駆りだして(相当の金子をばらまいて)13日で完成させたといわれています。一方、高松城を死守したいと考えた毛利輝元は、叔父の吉川春元・小早川隆景の部隊を救援に向かわせ、秀吉軍と対峙しました。これに対して秀吉は、信長に援軍の派遣を要請します。信長にその報が届いたのは、まさに安土城で家康を接待していた時でした(5月17日)。これを受けて信長は、自ら出陣する意志を固め、その先陣として光秀にも秀吉の援軍として出陣するよう命じました。『明智軍記』(江戸時代中期の軍記物)によれば、中国出陣準備のため、家康の接待役を中断して居城に戻った光秀のもとに信長の使い(青山与三)が来て、「丹波と近江の所領は召し上げる。その代り、出雲・石見の二国を与える」という信長の命令を伝えたといいます。この時点で出雲・石見は毛利氏の所領でしたので、「自分で奪い取ったらお前の所領として認める」という極めて冷たい指令だったと思われます。この仕打ちに対する恨みも、光秀の謀反の一因だったとされます(光秀怨恨説)。もしこれが、本当の話だったらですが……。

 同じ時期に信長がとったもう一つの策は、四国征伐でした。土佐国を支配していた長宗我部氏は、一時期信長と同盟関係を結んでいました。この仲立ちをしたのが光秀だといわれます。その後も、信長と長宗我部との関係維持に光秀は腐心たといいます。しかし、長宗我部氏が勢いを増し、四国全土の統一への動きを見せ始めたため、信長はこれを阻止すべく四国征伐を決意しました。三男の信孝を総司令官とし、副将として丹羽長秀や織田信澄(信長の弟信行の嫡男、光秀の娘婿)らが選ばれました。征伐軍は総勢14,000名で、摂津国(大阪)住吉に着陣し、6月3日には200艘の船で四国(淡路)に渡海する予定でした。しかし、その前日に本能寺の変が勃発したため、征伐軍の兵らは動揺して次々と脱走してしまい、四国征伐は実行されませんでした。長宗我部氏は、ギリギリのところで命拾いしたことになります。この3年後、長宗我部氏は念願の四国統一を達成することになるわけです。

 ところで、光秀の重臣に斎藤利三という男がいました。長宗我部元親の側近が書いた『元親記』では、利三は元親の正室の義理の兄だったとされています。この深い姻戚関係から、利三が長宗我部氏を護るために、主の光秀に謀反を強く働きかけたという説があります。光秀自身も、長宗我部氏と信長との関係を取り持つなど、元親とは浅からぬ関係だったとすれば、あながちあり得ない話でもないかもしれません。

 さて、中国遠征を決意した信長は、わずかの伴を従えて安土城をたち、5月29日(本能寺の変の2日前:この年は5月は29日まで)に上洛して本能寺に入りました。そして6月1日、信長は本能寺の書院で茶会を開催しました。信長は、安土から秘蔵の名物茶器を多数持ち込んでいました。それらを、博多の豪商・島井宗室や京の公家衆に披露したといいます。信長が、中国攻めの軍勢が整う前に、なぜ少人数で上洛したのか…。そのわけは、「この茶会が目的だったのではないか。とすれば、この茶会をエサに何者かが信長を京におびき出したのではないか…」という説もあります。茶会の後の酒宴も終わり、嫡男・信忠は宿所の妙覚寺に戻り、信長は床につきました。

 一方光秀は、6月1日夕方、居城の亀山城を出発し途中野条(京都府亀岡市)で休息していました。ここで光秀は、初めて重臣たちに謀反の決意を伝えたといいます。光秀軍は、その日の深夜、老ノ坂峠を上り沓掛(くつかけ)に到着しました。ここから西に下れば中国地方、東に行けば京です。まさにここが分水嶺でした。そして、ついにその時がやって来ました。光秀の号令のもと、13,000の軍勢は京の本能寺目指して進撃を開始したのです。京についた光秀軍は、6月2日の早暁本能寺を包囲し、一斉攻撃を仕掛けました。光秀軍の鬨の声に目を覚ました信長は、弓や槍で応戦しましたが、多勢に無勢、もはやこれまでと寺に火をかけさせ奥の間で切腹して果てました。享年49歳でした。本能寺は猛火に包まれ、信長の遺骸は判別不能で見つからなかったといいます。

 妙覚寺(本能寺から北北東約1㎞の距離)に宿泊していた信忠は、異変の知らせを受けて、手勢500を率いて本能寺へ向かおうとしましたが、すでに手遅れとなったとの報告を受け、やむなく二条御所に入って守りを固めました。信忠が二条御所に入ったという知らせを聞いた光秀軍は、本能寺の囲みを解いて二条御所を攻めたてました。信忠も奮戦しましたが、結局二条御所も落ち、信忠も自刃して果てました。天下統一へあと一歩のところまで来ていた信長父子の野望は、「忠臣」明智光秀の謀反により、あえなく潰えてしまったのです。

 以上が、本能寺の変に至る経緯です(定説)。

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 明智光秀は、信長に最も信頼された家臣の一人だったといわれます。その光秀が、なぜ信長に謀反の牙を向けたのでしょうか。大変に興味深いテーマであり、大きな謎でもあります。光秀の謀反の動機には、数多くの説が発表されています。まずは、それらの中で代表的なものを挙げてみます。

怨恨説…実力派武将として信長に重用されていたとみられる光秀ですが、実は、信長にはあまりよく思われていなかったため、パワー・ハラスメントを受けていたとする説です。例えば、甲斐の武田勝頼を滅ぼした戦勝報告の席で、光秀が「我らが骨を折った甲斐があった」といった時、信長は、「お前がいつ骨を折ったというのか」と怒り出し、衆目の中で光秀の額を欄干に打ち付け折檻し恥をかかせたことや、徳川家康を安土城に招待したとき、光秀の接待に不都合があったとして途中で接待役を解任させられ面目をつぶされたこととか、中国出陣のとき、丹波と近江の所領を召し上げられ、当時はまだ毛利氏の所領だった出雲・石見を「自分で奪い取ってくれば与えるヨ」といわれたとか、かなりのいじめに遭っていたというのです。それでも、我慢に我慢を重ねて信長につくそうとした光秀でしたが、さすがに堪忍袋の緒が切れて、謀反に至ったというわけです。しかし、これらの話は、羽柴秀吉が本能寺の変の4ヵ月後に家臣に書かせた『惟任退治記(これとうたいじき:惟任は光秀のこと)』や、江戸時代になって書かれた『川角(かわすみ)太閤記』『甫庵(ほあん)太閤記』『明智軍記』といった軍記物で創作された話だといわれています。実際、信長の重臣として天下統一事業を支えてきた光秀が、恨みつらみ(が本当にあったとしても)だけで謀反に至るとは考えにくいのです。もし発覚あるいは失敗すれば、一族郎党死罪となり、御家断絶は免れないわけですから、「主君への恨みつらみ」だけでは動機としてはかなり弱いと思います。しかし、物語としては面白いので、小説やテレビドラマなどでは、これらのいじめのシーンがよく使われてはいますが・・・。

野望説…これも、『惟任退治記』の中に書かれています。本能寺の変の3日前、光秀は、居城(丹後亀山=現・京都府亀岡市)の近くの愛宕山で連歌の会を開きました(愛宕百韻:あたごひゃくいん)。その時光秀が詠んだ発句が、

 「時は今雨が下しる 五月かな」

です。『惟任退治記』の筆者は、この句の中に、光秀の天下への野望が隠されているといいます。まず、「時は今」は「土岐は今」と解釈します。土岐氏は美濃国の守護を務めた名門で、光秀はその土岐氏出身だといいます。そして「雨が下しる」は「天が下知る」と解釈します。「土岐氏の末裔である自分が天下を治める季節(5月)になった」…つまり光秀の「天下取り宣言」だというのです。しかしこれも、こじつけのように思われます。大体、謀反の直前にこんな意味深な歌をうたい、事前に発覚したら元も子もないでしょう。これもまた創作ではないでしょうか。

黒幕説…光秀の謀反には、それをそそのかした黒幕がいたという説があります。黒幕の主は、①第15代将軍足利義昭②朝廷などです。いずれもありそうな話ではあります。

①足利義昭黒幕説…信長と対立して京都を追放された「元将軍」義昭は、この時、毛利氏の所領である備後国(広島県東部)の鞆(とも)に移り住んでいました。もちろん、信長への怒りの炎は激しかったと思われます。しかし、もし義昭が黒幕であれば、当然毛利氏にも話が通じていたと思われます。信長暗殺後、義昭が復権するためには、毛利の援助が必要だからっです。とすれば、秀吉が毛利との講和を素早く結んで京へ引き返すという芸当は出来なかったのではないでしょうか。むしろ、信長暗殺が成功したことが判れば、毛利軍は総力で秀吉を攻撃したはずです。信長はもういないのですから、講和を結ぶ必要はないのです。さらに、変後に光秀が、盟友細川藤高に協力を求めた書状に、「本能寺のことは義昭の意向である」旨の記述がないのも不自然です。細川藤高を説得するには、これが単なる謀反ではなく、「元将軍」の命によるものだと強調すべきでした。そうすれば、藤高も光秀に味方したかもしれません。以上の点を考えると、義昭黒幕説の可能性はかなり薄いといえます。

②朝廷黒幕説…この説は、信長と朝廷が深刻な対立関係にあったということが前提となります。信長は、正親町(おおぎまち)天皇を譲位させ、自分の息のかかった若き誠仁親王(さねひとしんのう)を即位させることにより、朝廷への影響力を強めようと狙っていたといいます。しかし正親町天皇は、その要求を断固退けていました。両者の関係はかなりの緊張関係にあったと思われます。このような状況下で、朝廷は信長に「三職推任」を伝えます。これは、三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)のどれでもお好みの職を与えますのでお選びください……というものでした。朝廷側は、これをエサにして、信長を京へおびき寄せ、光秀に討たせたというのです。変後に光秀が朝廷に銀五百貫を献上したのも、実は、自身の征夷大将軍就任のお礼だったといいます。光秀が土岐氏一族であるとすれば、土岐氏は清和天皇を祖とする清和源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流ですので、十分に征夷大将軍になる資格があったわけです。一見ありそうな話ですが、なぜ光秀が、主君・信長を裏切ってまで(朝廷の意を受けて)謀反に至ったか……その理由が判然としません。

主犯存在説…本能寺の変の主犯は光秀ではなかったという説です。①羽柴秀吉説②斎藤利三説などがあります。

①羽柴秀吉説…6月2日早暁、中国出陣を明後日に控えた主君・信長に結集するため京を目指していた光秀軍は、洛中の異変に気付き、急いで京に入り本能寺に到着しました。すると、本能寺はすでに灰燼に帰し、明智軍に似せた、にわか造りの桔梗の旗印や白紙の四手しないの馬印が散乱していました。明智軍を偽装した暗殺集団が、信長が泊まっていた本能寺と嫡男・信忠が異変に気付いて駆け込んだ二条御所を襲撃し、二人を殺して火をつけたのでした。その後忍びの者を放ち、「光秀謀反!」と市中に触れ回ったといいます。二人の遺骸は襲撃者によって持ち去られ処分されました。光秀軍がいくらさがしても、見つかるはずもありませんでした。この暗殺集団の首謀者こそ羽柴秀吉だというのです。もちろん、この筋書きが直接書かれた史料はありませんが、いくつかの歴史的事実が「秀吉主犯」を暗示しているといいます。

 本能寺の変の翌日(6月3日)の夜、秀吉は、光秀が放った毛利への使者が秀吉の陣に迷い込んだところをとらえ、信長父子の死を知ったとされています。ここから、一気に毛利との和睦交渉をすすめ、翌日(6月4日)には毛利と講和を結びます。講和の条件は、高松城主・清水宗治の切腹と備中・美作(みまさか)・伯耆(ほうき)の三か国(現在の岡山県から鳥取県あたり)の割譲でした。講和成立後ただちに、高松城主・清水宗治は、兄・月清入道と家臣二名とともに小舟に乗って高松城を出て秀吉の陣の目前まで漕ぎ出し、籠城兵5,000の命と引き換えに切腹して果てました。毛利側に信長の死が伝わったのが、この日(6月4日)の夕方といいますから、まさにぎりぎりのタイミングだったわけです。信長が本能寺で討たれたと知った毛利の吉川元春は、ただちに秀吉軍を追撃すべきだと訴えます。しかし、同じ毛利方の小早川隆景は、和睦の条件は守るべきだとして反対します。結局秀吉軍は、一日だけ毛利側の出方をうかがった後、一気に東に向かい、姫路城を経由して明智光秀が迎え撃つ京へ進撃しました(中国大返し)。

 この経過の中に、引っかかる点がいくつかあります。まず、毛利との和睦交渉がたった1日で成立することはあり得ませんので、京都で異変がある前から、秀吉と毛利方で交渉が進められていたことになります。ところが、信長にとって、毛利は許すことのできない相手だったはずです。石山本願寺との戦いが長引いて(11年間の長期にわたった)膠着状態になった最大の原因は、毛利が水軍を利用して本願寺に兵糧を運び続けたからです。たかが3~5か国の割譲だけで赦すとは到底思えないのです。とすれば、毛利との和睦交渉は、秀吉の一存で進められていたことになります。しかし、上司の命に逆らうことを徹底的にきらう信長ですから、下手をすれば首を切られるかもしれません。そんなリスクを冒してまで、毛利との和睦を独自に進めるわけがないのです。すなわち、秀吉は信長が高松城には来られないことを知っていたというのです。そして、信長が殺された後は速やかに毛利と和睦し、一気に京へ駆け上ろうと算段していたということになります。

 次に、不可解な行動をしているのが小早川隆景です。信長の死を知った時点で、毛利には千載一遇のチャンスが巡ってきました。秀吉軍を追撃してこれを討ち、その勢いで一気に上洛すれば、信長に代わる新しい権力者への道も見えてきます。あるいは、自領にかくまっている足利義昭をいただいて上洛すれば、副将軍への道も見えてくるかもしれません。それを阻んだのが、毛利一族きっての理論家といわれた小早川隆景でした。そこで、秀吉と隆景の間に何らかの裏取引があったのではないかという疑いが出てきます。実際、秀吉が天下を握った後、隆景は五大老の一人として破格の扱いを受けています。

 いずれにしても、秀吉は信長が京で殺されることを知っていた(あるいは自ら手を下した)という疑いが濃厚になってきました。そして秀吉は、信長暗殺後の戦略を十分に練って準備をしていたともいえます。その結果、本能寺の変のわずか12日後、山崎の戦で明智光秀を討ち、天下人への道を突き進んでいったのです。本能寺の変で最も得をした男…それが羽柴秀吉だったのです。

②斎藤利三主犯説…前述したように、信長は三男信孝と丹羽長秀に四国の長宗我部氏の討伐を命じました。本能寺の変が起きた翌日の6月3日には、14,000の討伐軍が摂津から四国へ渡海する予定でした。長宗我部氏の運命は、まさに風前の灯火だったのです。この状況下で、長宗我部正親の正室の義理の兄だった斎藤利三(明智光秀の重臣)は、信長の四国征伐を阻止しようとして本能寺を取り囲み、信長を討ちました。光秀はこの計画を知らされていませんでした。光秀が本能寺に駆け付けたときは、信長はすでに自害し寺は焼け落ちていました。予想外の事態に驚いた朝廷は、光秀に「禁裏を保護するように」と命じました。そのため京にとどまり駆け回っていたところ、「光秀軍の仕業だった」という噂が広まり、結局、光秀が主犯にされてしまったというのです。この説には別バージョンがあります。利三は主の光秀に「長宗我部氏を助けてほしい」と訴え、光秀もこれに同調し謀反に至ったというものです。これらの説も、あり得ない話ではないようですが、動機としてはかなり弱いように感じます。

突発説…本能寺の変によって信長父子を葬り、天下人(あるいはそれに準ずる立場)になろうとした光秀にとって、最大の誤算は、同盟者とみていた細川藤高・忠興父子や筒井順慶が味方になってくれなかったことでした。他にも、本能寺の変直後に安土城に向かった光秀軍でしたが、途中の瀬田橋を守る瀬田城主・山岡景隆を味方にすることができず、橋を焼き落きとされて3日間も足止めを食ってしまいました。このときの3日のロスは大きな痛手だったといいます。また景隆は、この後も光秀軍の様子を逐一秀吉に伝え、秀吉軍勝利に貢献したといわれます。いずれにしても、一世一代の大ばくちで謀反を決行した割には、成功のために必要な根回しや準備工作が不十分すぎる印象があります。光秀ほどの男なら、もっと慎重かつ徹底した準備がなされてしかるべきだと思います。その辺の疑問から、実は光秀の発作的な単独犯行ではないかとする説が生まれました。信長のもとで、忠誠を尽くして働くことに疑問の余地はなかったはずでした。しかし、ふとした時にとんでもないことに気づきます。信長の重臣たちは全員各地に散らばっていて、近畿周辺にいる有力武将は光秀だけでした(柴田勝家は越中で上杉軍と対峙、羽柴秀吉は備中高松城攻め、滝川一益は新領地の上野国の経営で手一杯)。しかも、こともあろうに信長は、中国遠征軍の準備が整っていないなか、少人数で名物茶器を携えて本能寺に宿泊していました。「いま、自分が決意して信長を討つのは簡単だ。そうすれば、天下が転がり込んでくるかもしれない。なんてこった……。こんなチャンスはもう二度とこないだろう。」一瞬にして舞い上がってしまった光秀は、後先のことを考える余裕もなく、謀反へと突っ走っていったというのです。本人ですら、思いもつかなかった行動に出たのですから、さすがの信長でも、その兆候をつかむことかできなかったのでしょう。すっかり安心しきって、「無防備」のまま本能寺に宿泊してしまったのです。証拠はどこにもないですが、あり得ない話ではないでしょう。

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 本能寺の変に関わる事実関係には、疑問に思われる点がいくつかあります。それらについて考えてみます。

①信長はなぜ少人数の無防備な状態で本能寺に入ったのか

 最も信頼できる史料とされる『信長公記(しんちょうこうき)』では、信長はお小姓衆2,30人のみを引き連れて上洛したとあります。本能寺の変の時、寺内にいた信長の家臣は、『当代記』(江戸時代初期に『信長公記』などの記録史料を再編したもの)で150人、公家の日記である『兼見卿記』『言経卿記(ときつねきょうき)』でも7,80人とされています。しかし、近畿地方をほぼ平定したとはいえ、反信長を唱える集団は、いたるところに潜んでいる可能性があります。信長にとっては、まだまだ警戒を怠ってはいけなかったはずです。信長が警戒を緩めてしまったのは、朝廷からの「三職推任」を受けて、喜び勇んで上洛してしまったためとか、京で公家衆を集めて茶会を開きたい一心で、名物茶器を携えて、中国征伐の準備が整わないのに少人数で上洛してしまったとかいわれていますが、信長ってそんな浅はかな人物だったのでしょうか。にわかには信じがたい話です。私は、信長はそれなりの防備体制を敷いていたと考えています。このとき、家康一行の京都・堺ツアーに同行していた嫡男・信忠は、急きょ予定を変更して、信長を出迎えるために上洛していました(信忠から森蘭丸への書状が残っています)。すなわち、信忠の手勢500名余り、さらには在京の信長の馬廻衆500~1,000名ほどが、この時、市中にいました。これらの兵が、信長上洛に対して対応しなかったはずはないでしょう。おそらく、信長の宿所周辺の警備をし、怪しい動きをする集団がいないかを探っていたものと思われます。この警備体制を短時間で打ち破るためには数千人規模の襲撃部隊が必要となりますが、そんな部隊を動かせるのは、京都周辺では明智軍か四国征伐直前の三男・信孝軍ぐらいでした。信長は、まさか光秀が謀反を起こすなど考えもしなかったのでしょう。それほど信頼していたのです。だから。前述の程度の防備があれば大丈夫だろうと思い上洛してしまったのです。しかし、予想外のことが起きてしまいました。信長にとっては、悔やんでも悔やみきれない事態となり、天下統一の夢が潰えてしまったのです。

②信長に重用されていた光秀が、なぜリスクを犯してまで謀反に至ったのか

 『信長公記』によれば、信長と光秀の主従関係は、変の直前までうまくいっていたといいます。それなのになぜ、光秀は信長を弑逆したのでしょうか。謀反は大罪であり、それが発覚しても失敗しても、本人はもちろん一族郎党死罪は免れません。よほどの動機がなければ踏み出すことは出来ないと思います。少なくとも上司への怨恨だけで踏み切ることは通常ありえないでしょう。とすれば、(光秀が主犯だったとすれば)その動機はどんなものだったのでしょうか。それが見えてきません。

③光秀主犯とすれば、なぜ光秀は事前準備を入念にしなかったのか

 たとえ信長父子を弑逆したとしても、光秀単独では信長に代わって天下を握るのは難しかったと思われます。細川藤高や筒井順慶、あるいは娘婿の織田信澄など、自分に近い武将に事前に声をかけ、いざとなったとき味方になるかどうか見定めておく必要があったのではないでしょうか。事前の根回しで、可能性が薄いと感じたら、この謀反はいったんあきらめ、次の機会を探るという手もあったはずです。しかし、事前の根回しの兆候は認められず、変後に慌てて味方になるよう懇願したが断られ、万事休すとなってしまいました。光秀ほどの人物が、このような大事を「無計画」に断行したのが不思議でなりません。

 以上の疑問点を突き詰めていくと、納得できる答えを示してくれるのは「光秀主犯・突発説」のように思えます。信長が「油断」したのは、「まさか光秀が、俺に歯向かうはずはない」という信頼感(安心感)からでした。その理由は、光秀は信長にとって一番の家臣であり、そのように待遇してきたという自信があったからだと思われます。しかし光秀は、ある日、「悪魔のささやき」に耳を奪われそのとりこになってしまいました。自分が「天下人」になれる千載一遇のチャンスが到来した……そう確信した光秀は、後先も顧みず「天下人」への栄光のゴール目指して突き進んでいったのです。ところが、周到な準備もなしに本能の赴くままに突き進んだ道の先には「栄光」ではなく「破滅」が待っていました。そして、変後430年以上たった現代においても、光秀は「裏切者」の代表格として嫌われ者になってしまいました。

 もう一つ、上記の疑問点を解消する説があります。秀吉主犯説の変形バージョンです。信長が中国に出陣する前に、京都に立ち寄るという情報をつかんだ秀吉は「信長暗殺部隊」をひそかに組織し、京へ向かわせました(総勢2~3,000名?)。これが可能だったのは、秀吉と毛利方の小早川隆景との間には、すでに「手を結ぶ」という密約ができており、毛利軍が一気に攻めてくることはないと秀吉が確信していたからです。暗殺部隊は、桔梗の旗印や白紙の四手しないの馬印を掲げ、明智軍であるかのように偽装していました。そして6月2日早暁、この偽装軍団が本能寺と二条御所を襲撃し、信長父子を弑逆してしまったのです。京にいる信長と迎合し、中国出陣まで信長警護の役目を負っていた光秀軍が、当日早朝本能寺に到着すると、すでにあたりは灰燼に帰し、信長の遺骸も見つかりませんでした。市中では秀吉が放った忍の者が「日向守様(光秀)謀反」とデマ宣伝を行っていました。一方光秀は、その日の午後に信長の居城だった安土城に入り、各方面からの情報収集や指示を行い事態収拾に動こうとしました。しかし途中の瀬田橋を守る山岡景隆により、橋が焼け落とされ三日間足止めを食ってしまいました。この間にも、「光秀謀反!」の噂はどんどん広まっていき、打ち消しようのない状態になってしまいました。

 信長父子暗殺成功の知らせを受けた秀吉は、小早川隆景と事前に打ち合わせた手はず通り、毛利と講和を結び、急ぎ京へ向かって進撃しました。毛利軍の追撃は隆景が押しとどめてくれるはずでした。また、本能寺の変の後の6月3日夜、光秀が毛利への書状を持たせた使者が誤って秀吉の陣へ迷い込んだため秀吉が信長の死を知ったという話(『川角太閤記』)もウソです。大体、こんな手紙を手に入れても、秀吉軍の動揺を誘い士気を低下させるための毛利の謀略ではないかと、まずは疑うでしょう。事実関係を確かめないうちは、うかつに動けないはずです。ところが秀吉は信長父子の死を確信し、翌日には毛利と講和を締結させ、城主の清水宗治の切腹を見届けながら撤退の準備を進めていきました。この電光石火の早業は、秀吉が信長父子の死を確信していた(自分が指示して殺させた)からこそできたことです。さらに秀吉は、撤退のさなか、摂津茨木城城主・中川清秀に、いわゆる「偽書状」を送っています。ここには、「上様(信長)ならびに殿様(信忠)は何の御別儀なく(支障なく)きりぬけなされ、世々が碕(大津氏膳所)へ退去なされてご無事であられる」と書かれています。これは、味方の動揺を抑えるためにした秀吉の配慮だというのが定説になっています。しかし、別の見方をすれば、「俺が京に戻るまでは、誰も信長追討の旗揚げをして欲しくない」という秀吉の焦りから出たウソという見方もできます。瀬田城主の山岡景隆が瀬田橋を焼き落として、光秀の安土城入城を阻止したのも、光秀主導による事態収集の動きを阻止しようとした秀吉の指示だったかもしれません。いずれにしても、重臣の一人であった秀吉が、暗殺部隊を送り込んで自分を弑逆しようとは、さすがの信長も考えもしなかったのでしょう。そして、信長亡き後、織田家再興のために動こうとした光秀も、突然の事態に周章狼狽し、的確な判断の基に行動することができなかったのかもしれません。疾風のごとく京に戻った秀吉軍は、山崎の戦で光秀軍を打ち破りました。後継者争いの主導権を握った秀吉は、本能寺の変の4か月後、家来の大村由已(ゆうこ)に『惟任退治記』を書かせ、信長父子弑逆事件は、明智光秀が信長への怨恨により起こした謀反であることを強く印象付けようとしたのです。こう考えてみると、秀吉主犯説も有力なものの一つと考えられます。

 いずれにしても、本能寺の変の真相については諸説が入り乱れていて、まだまだ闇の中です。これを解明するための、新しい事実(書状や日記など)が出てきてくれることを期待するばかりです。

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この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳・信長公記』(新人物文庫)
  • 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3』織田信長編(中公文庫)
  • 朝尾直弘著『日本の歴史8』天下一統(小学館ライブラリー)
  • 童門冬二著『織田信長に学ぶ』(新人物文庫)
  • 今谷明著『信長と天皇』(講談社現代新書)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史10』(小学館)
  • 桐野作人・立花京子ほか『真説本能寺の変』(集英社)
  • 井上慶雪著『本能寺の変88の謎』(祥伝社黄金文庫)
  • 明智憲三郎著『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫)
  • 小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)


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