ー甲斐健の旅日記ー

鹿王院/足利義満が、夢のお告げで建てた寺院

 鹿王院(ろくおういん)は京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系の単立寺院です。山号は覚雄山(かくゆうざん)といいます。開基は足利義満、開山は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)です。

 康歴元年(1379)、室町三代将軍足利義満は、ある夢をみます。それは、「今年必ず大病にかかる」というお告げでした。ただし、「一寺を建立すれば寿命は延びるだろう」というものでした。そこで義満は、祖父尊氏が帰依(きえ)していた夢窓疎石(むそうそせき)の法統を継ぐ春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を開山として、一寺を建立することにしました。この寺院は翌年完成し、興聖寺(こうしょうじ)と名付けられ、後に宝幢寺(ほうどうじ)と改称されました(1384年)。嘉慶元年(1387)には、開山春屋妙葩の寿塔(じゅとう:生前に建てておく墓)を守る塔頭(たっちゅう)が創建されました。この周りに野鹿が集まったことから、「鹿王院」と称したといいます。宝幢寺は隆盛を極め、京都五山十刹の中で禅林十刹の第五位に列せられ、寺領も加賀、但馬、土佐、摂津など各地に保有していたといいます。

 ところが、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱の戦火により寺は全焼してしまいます。その結果、宝幢寺は廃絶してしまいました。しかし鹿王院は、寛文年間(1661~73年)に、酒井忠知(徳川四天王の一人酒井忠次の子)によって再興され、忠知の子である虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山となりました。当初は天龍寺の塔頭でしたが、その後臨済宗の単立寺院となり現在に至っています。

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 鹿王院は、京福嵐山線の鹿王院駅のすぐ南側にあります。

 山門は、切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがらわぶき)で、南北朝時代(1336~92年)の建立とされます。山門にかかる扁額(「覚雄山」)は、足利義満24歳の時の筆といわれます。山門から中門を経て庫裏(くり)へと向かう参道には、楓や椿が生い茂り、石畳は中央に正方形の切り石を配置し、その両側に不揃いな敷石を並べたデザインになっています。清雅さを感じさせる参道です。庫裏の入り口から建物の中に入ると、まず客殿に出ます。現在の建物は、明治23年第24世峨山昌禎(がざんぜんじ)が再建したものです。「鹿王院」の扁額は足利義満の筆といわれます。客殿の裏には、茶席「芥室(かいしつ)」があります。昭和11年、時代劇スターだった大河内傳次郎が寄進したものとされます。

 客殿から舎利殿に至る瓦敷きの歩廊の中間に本堂開山堂)があります。延宝4年(1676)の建立とされ、方三間寄棟造(よせむねづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)裳階(もこし)が施されています。本尊の釈迦如来坐像、普明国師(ふみょうこくし:春屋妙葩)像、足利義満像、中興の祖である虎岑和尚像などが安置されています。

 本堂の先に舎利殿があります。宝暦13年(1763年)の再建とされます。方三間、宝形造(ほうぎょうづくり)桟瓦葺で、裳階が施されています。内陣中央の須弥壇(しゅみだん)上の厨子(ずし)には、銅製で金メッキの宝塔が安置されています。その宝塔の中には、鎌倉三代将軍源実朝が、中国の宋から招来したとされる仏牙舎利(ぶつげしゃり)が納められています。その四方には、仏法を護持するという四天王十六羅漢像が祀られています。この仏牙舎利が、日本の博多港に無事到着したのが10月15日だったことから、毎年その日を「舎利会(しゃりえ)」と定め、御開帳されるそうです。

 客殿前から舎利殿前まで枯山水の庭園が広がっています。遠くに臨む嵐山を借景(しゃっけい)とする苔庭です。樹齢400年というツバキ科の常緑樹である木斛(もっこく)の他に、松、楓、ヒバ、榊、ツツジ、沙羅双樹などの植栽があります。初夏のころに、青苔の上に沙羅双樹の白い花が散る様子が素晴らしいそうです。また、舎利殿の前には、三尊石(釈迦如来、文殊菩薩普賢菩薩)が配され、その手前に礼拝石(坐禅石)が据えられています。また、禅宗寺院に見られる、砂紋を描く白砂が敷かれていないのも特徴です。

 鹿王院は今は小さな寺院ですが、足利義満が夢のお告げで建立した寺院(の一部)であり、室町時代の面影を今に伝えてくれていると感じました。静かで落ち着いた、清雅な雰囲気のある寺院でした。



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