ー甲斐健の旅日記ー

龍安寺/究極の枯山水といわれる石庭のある寺院

 龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院です。妙心寺の山外塔頭(たっちゅう)寺院です。山号を大雲山と称します。本尊は釈迦如来、開基は細川勝元、開山は明恵(みょうえ)の弟子の義天玄承(ぎてんげんしょう)です。

 龍安寺は、室町幕府の管領(かんれい)で、後に応仁の乱で山名宋全(西軍総大将)と戦った東軍の総大将の細川勝元が、至徳2年(1450)に創建した禅寺です。衣笠山山麓にあるこの地は、もともと藤原北家の流れを汲む徳大寺家の山荘でした。それを勝元が譲り受け、妙心寺5世住持だった義天玄承を迎えて開いた寺院です。創建当初は広大な寺地を持ち、南は京福電鉄の線路のあるあたりまでが境内だったといいます。

 しかし、応仁の乱で焼亡してしまい、勝元自身も乱の終結を待たずに亡くなってしまいました。これを再興したのが、勝元の息子の政元と4世住持の特芳禅傑(どくほう ぜんけつ:中興開山)でした。応仁の乱終結から11年後の長享2年(1488)に、龍安寺は再興して生まれ変わりました。当時は塔頭寺院21を擁する大寺院でした。その後も、豊臣秀吉や江戸幕府の保護のもと、寺は隆盛を極めていきます。ところが、寛永9年(1797)の火災により、主要な伽藍(がらん)はことごとく焼亡してしまいました。その後、塔頭の一つである西源院(せいげんいん)の方丈を移築して本堂とし、庫裏(くり)も同時に再建されましたが、後が続かず、昭和56年に開山堂が建立されたのみで現在に至っています。境内塔頭も三院のみとなりました。

 有名な石庭については、作庭者も作庭時期も定かではありません。室町時代の相阿弥の作という説もあれば江戸時代の作庭とする説もあります。『都名所圖會(みやこめいしょずえ)』(安永9年;1780年刊行)によると、龍安寺の項では、石庭について全く触れていないといいます。だとすれば、相阿弥の作庭というのも、豊臣秀吉がこの庭を愛でたというのもウソということになります。一方、『都名所圖會』の著者である秋里離島(あきざと りとう)が寛政13年(1801)に著した『都林泉名所圖會』には、龍安寺方丈の庭は洛北随一の名庭とされ、相阿弥の作と記されています。この事から察すると、龍安寺の石庭は寛永の火災後に西源院の方丈を移築した時あたりに作庭されたということになります。そしてそのデザインは、相阿弥が過去に書き記したものを参考にしたということでしょうか。

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 龍安寺へは、京都駅からですと、まず京都市バス101または205系統に乗り「金閣寺道」で下車して、59系統に乗り換えて「龍安寺前」で降ります。

 バス停を下りると北側に山門が見えますが、実は龍安寺の総門はそこから少し南に下ったところにあります。山門は江戸時代中期に建立されました。宝暦5年(1755)の洪水により破損したため再建されたものです。山門をくぐると左手に鏡容池(きょうようち)があります。平安時代、この一帯に別荘を営んでいた徳大寺家が築いたものとされます。多くの公家衆が竜頭の船に乗り、歌舞音曲を楽しんでいたといいます。また当時はオシドリの名所として有名だったようです。鏡容池から北へ進むと、庫裏(くり)に至る参道に龍安寺垣があります。透かしの部分に割竹をひし形に使っているところが特徴です。庫裏の手前にある勅使門(ちょくしもん)は、寛政9年(1797)に火災で焼失したままになっていましたが、昭和50年、西源院の唐門を移築して現在の姿になっています。イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975)に来日されたときも、この門から入り龍安寺の石庭を見学されたそうです。

 庫裏は、寛政の火災で焼失後すぐに再建されました。ここから建物の中に入ります。方丈は、寛政の火災で焼失後に、塔頭西源院の方丈を移築し再建されました。もともとこの建物は、慶長2年(1606)織田信長の弟信包(のぶかね)によって建立されたものです。一重、入母屋造(いりもやづくり)杮葺き(こけらぶき)です。方丈は6間取りで、室中(しっちゅう)には弥勒菩薩像が安置されています。もともとは狩野派の襖絵が多数(71点)あったそうですが、明治期の廃仏毀釈の風潮の中で売却されてしまったといいます。現在は、皐月鶴翁(さつきかくおう)が昭和33年に描いた龍と北朝鮮の金剛山の襖絵があります。

 方丈の西には仏殿(非公開)があります。昭和56年(1981)に建立された、入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺(どうばんぶき)、5間四方の建物です。また、その北には開山堂(昭堂)があります。

 方丈庭園は、「龍安寺の石庭」と呼ばれ有名です。幅22m、奥行き10mの敷地に白砂を敷き詰め、水の流れを表す文様の上に、15個の石を5か所に分けて配した枯山水の庭園です。草木を一切使っていないのが特徴です。15個の石は、どこから眺めてもすべての石を見ることはできないとされます。東洋では、十五夜にあたる「15」という数字を完全なものとする見方があり、わざと不完全な姿を示しているのだという説があります。「物事は完成した時点から崩壊が始まる」という思想に基づいているというのです。ただし、部屋の中の一か所だけから(方丈の間の中心)15個の石がすべて見える場所があるともいわれています(真偽のほどはわかりません)。またこの庭は、別名「虎の子渡しの庭」とも呼ばれています。母虎が、一匹の豹(ひょう)と二匹の子虎を、豹が子虎を食べないように川を渡すという故事にちなんだ呼び名だそうです。この龍安寺の石庭は、1975年にエリザベス女王が来日した時、石庭の見学を希望され絶賛されたことにより、海外でも大変有名になったということです。

 方丈の北東に、水戸光圀寄進といわれる蹲踞(つくばい:茶室に入る前に手を清める手水鉢(ちょうずばち))があります。石造りで、「我唯足知(われ ただ たるをしる)」と刻まれています。永楽銭の銭型をしており、中央の「口」の部分が、四角い水溜め(水穴)になっています。その近くに侘助椿(わびすけつばき)があります。3月上旬~4月上旬に開化するそうです。侘助椿は、桃山時代に侘助という男が朝鮮から持ち帰ったことで、こう名付けられたといいます。侘び寂びの世界を連想させるということで、千利休等多くの茶人に愛された花だといわれます。龍安寺の侘助椿は、豊臣秀吉にも賞賛されたといわれ、日本最古のものだともいわれます。

 作庭者も作庭時期もわからない名庭が、現在まで守られ保存され、私たちの目の前にその姿を見せてくれています。その陰には、多くの人々の努力があったに違いありません。石庭を守り続けてくれた人々には感謝の念が絶えません。



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