ー甲斐健の旅日記ー

四天王寺/日本の古代の国のかたちをつくった聖徳太子が創建した寺院

 四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院です。山号は荒陵山(あらはかさん)と称します。本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)です。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょう してんのうだいごこくのてら)が正式名です。聖徳太子が創建した寺院で、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)に和宗総本山として独立しています。

 四天王寺は蘇我馬子が創建した法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものとされます。四天王寺の草創については、以下の様に伝えられています。

 欽明天皇13年(552)、遠くインドで釈尊が開いた仏教が、中国、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。しかし、異国の新しい宗教をめぐって、国内の意見は二分されていました。この新宗教を受容しようという崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏と、神の国に新しい宗教は不要とする排仏派の物部氏です。用明天皇2年(587)、両者はついに激突します。そして、蘇我馬子が、甥の子であり娘婿でもある厩戸皇子(うまやどのみこ:後の聖徳太子)と共に軍を起こし、物部守屋を打ち破りました。この時、物部勢を攻めあぐねていた蘇我勢にあって、厩戸皇子は霊木(白膠木:ぬるで)を取り出して四天王像を彫り、髪をたぐりあげて「もし我をして敵に勝しめたまわば、かならず護世四王のために寺を興こしましょう」という誓願をしたといいます。すると、味方の矢が敵将の物部守屋に命中し、物部勢は総崩れとなり、蘇我勢が勝利したのでした。(『日本書紀』より)。

 その6年後の推古天皇元年(593)、聖徳太子は約束通り、摂津難波の荒陵(あらはか)にて四天王寺の建立に取りかかりました。ちなみに蘇我馬子が創建した法興寺(飛鳥寺)は、この5年前の崇峻元年(588)に造営が始まっています。四天王寺の伽藍(がらん)配置は、中門、塔、金堂講堂が南から北へ一直線に並び、それを回廊が囲む形式で、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれています。日本で最も古い建築様式の一つで、推古天皇15年(607)に聖徳太子が創建した法隆寺の若草伽藍(7世紀後半焼失)も同じ形式であったといわれます。

 平安時代になると、四天王寺は太子信仰の聖地となりました。四天王寺の西門が西方極楽浄土の入り口(東門)だという信仰があり、浄土信仰の寺院の性格も備えていったといいます。平安時代末期には、上皇や法皇が度々四天王寺を訪れるなど、隆盛を極めたといいます。建武の新政を行った後醍醐天皇は、平安時代に書かれたとされる「四天王寺縁起(えんぎ:由緒や、功徳利益などの伝説)」を自筆で書写し巻末に手印まで捺していました。これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存(国宝)しています。また、平安から鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍なども、四天王寺に参篭(さんろう:こもって祈願すること)したと伝えられています。

 しかし四天王寺は、平安時代以降度重なる災害に遭い、流失や焼亡、再建を繰り返してきました。承和2年(836)の落雷や天徳4年(960)の火災では主要伽藍が失われました。時代は下って天正4年(1576)には、織田信長による石山本願寺攻めの兵火に巻き込まれ焼失しました。その後、豊臣秀吉によって再建されましたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣でまたまた焼失しました。これは、徳川幕府によって再建されましたが、幕末の享和元年(1801)に落雷がありまた焼失しその後再建されました。これは近代まで残っていたのですが、昭和9年(1934)の室戸台風の直撃を受け、五重塔と仁王門(中門)が倒壊し、金堂も大きく損傷しました。五重塔はこの5年後に再建されたのですが、昭和20年(1945)の米軍の大阪大空襲により、北側の六時堂や五智光院、本坊方丈などの一部を残し、灰燼に帰してしまいました。

 現在見る主要な建物は、昭和32~38年(1957~63年)に再建されたものです。鉄筋コンクリート造りですが、創建当時の様式を忠実に再現したものだそうです。なお四天王寺は、戦後間もなく天台宗から独立し、和宗を創立(総本山)しました。仏法興隆と太子精神の高揚を本願とする寺院に生まれ変わったということです。

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 四天王寺へは、大阪市営地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽丘駅を降りて、谷町筋を南に歩いて5分ほどです。境内北へは乾門から入ります。西側から入るには、石鳥居をくぐって、西大門(極楽門)から入ります。正門は南大門です。

 石鳥居は、四天王寺境内から少し西側にはなれたところにあります。永仁2年(1294)、忍性(にんしょう)上人(鎌倉時代の真言律宗の僧)が勅命により、それまであった木造の鳥居を石鳥居に改めたとされます。鳥居上部の扁額には、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」(釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入り口)と書かれています。神仏習合時代の名残とされますが、もともと鳥居は、古来インドにおいて「聖地結界の四門」とされていて、神社に限ったものではないようです。この鳥居をくぐって進むと、西大門があります。昭和37年(1962)、松下幸之助氏の寄贈により再建されました。極楽に通ずる門として、極楽門と呼ばれます。門柱に転法輪があり、参拝者はこれを回転させ、直接門に触れることにより、功徳を積むことが出来るといいます。この門をくぐって境内に入ると、中心伽藍の西重門(伽藍入口)は目の前です。

 南大門は、昭和60(1985)年に再建された三間一戸の楼門です。この南大門から境内に入ると、中心伽藍の中門(仁王門)が目に飛び込んできます。中心伽藍は、南から北に、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、中門の左右から講堂までを回廊でつなぐという、「四天王寺式伽藍配置」です。現在見る伽藍は、戦後の昭和38年(1963)に完成した鉄筋コンクリート造りですが、創建当時の様式を忠実に再現しているといいます。

 中門は、単層、入母屋造(いりもやづくり)で、屋根は段差をつけて本瓦を葺く錣屋根(しころやね)となっています。また、大棟の左右には鴟尾(しび)が乗っています。正面左右には、阿形(あぎょう:口をあけた姿)と吽形(うんぎょう:口を閉じた姿)の二体の金剛力士像が安置されています。この像の像高は5.3m、重さ約1tで、奈良東大寺の仁王像に次ぎ全国で2番目の大きさだそうです。

 回廊の中に建つ五重塔は、昭和34年(1959)の再建です。創建時から数えると、実に8代目となります。屋根は本瓦葺(ほんがわらぶき)です。塔の高さは39.2mですが、相輪(そうりん:上部の9個の輪の部分)が12.3mと長いのが特徴です。塔内には、釈迦三尊像(南)、弥勒三尊像(北)、薬師三尊像(東)、阿弥陀三尊像(西)の壁画が描かれています。四天王寺創建の時、聖徳太子が塔の礎石と芯柱の中に、仏舎利6粒と自分の髻(もとどり)六毛を納めたといわれます。これにより太子は、六道利救(ろくどうりぐ:六種の世界で生死を繰り返す迷いの世界からの脱却)を祈願しました。この故事により、この塔は「六道利救の塔」とよばれます。この五重塔は、階段を上って一番上まで行くことが出来ます。窓が小さいですが、大阪市内を一望できます。また、最上層部には舎利塔が奉安されています。

 金堂は昭和36年(1961)の再建です。入母屋造で、屋根は段差をつけて本瓦を葺く錣屋根(しころやね)となっています。また、大棟の左右には鴟尾(しび)が乗っています。裳階(もこし)はありません。堂内中央には四天王寺本尊の救世観音菩薩像(ぐぜかんのんぼさつぞう)が安置され、その向って左(西側)に舎利塔、右に(東側)六重塔が安置されています。また四方に四天王像が祀られています。救世観音像は、左脚を踏み下げて右足を左足の膝がしらに乗せて座す半跏像です。堂内周囲には、中村岳陵(がくりょう)筆の「仏伝図」(釈迦の誕生、出城、降魔成道(こうまじょうどう)、初転法輪(しょてんぽうりん)、涅槃(ねはん)などの図)の壁画があります。

 中心伽藍の北にある講堂は、経法を講義し、法会や儀式を行うお堂です。単層、入母屋造で、屋根は錣屋根です。夏堂(げどう:西側)と冬堂(とうどう:東側)に分かれています。夏堂には、来世に極楽に導いてくれるという阿弥陀如来坐像(像高約6m)が安置され、冬堂には、現世の人々の苦しみや悩みを救ってくれるという十一面観音立像が安置されています。つまり、現世と来世の二世に渡って、人々の苦しみを救い、その心を安らかにするという願いが込められているといいます。

 中心伽藍の東側の一角に、聖霊院(しょうりょういん)があります。別名太子堂といい、聖徳太子を祀っています。南側の虎の門から境内に入ると、太子殿があります。手前の細長い建物が前殿、奥の丸い建物が奥殿で、どちらも木造建築です。前殿は、昭和29年(1954)の建立で、入母屋造、本瓦葺で妻入りの建物です。聖徳太子孝養像(16歳の像:秘仏)が祀られています。奥殿は、昭和54年(1979)に建立されました。法隆寺の夢殿(八角形)とは違って円形の建物です。内部には、聖徳太子摂政像が祀られています。毎年2月22日の「太子二歳まいり」では、太子の知恵にあやかるべく、2歳前後の子供連れ家族がたくさんお参りに来るそうです。

 奥殿の北に、絵堂と経堂が並んで建っています。どちらも、昭和58年(1983)に再建されました。単層、切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺の建物です。絵堂には、西の間の第一面から東の間の第七面まで、聖徳太子の一生を時系列で描いた「聖徳太子絵伝壁画」(杉本健吉筆)があります。この絵殿は、毎月22日の聖徳太子の月命日である「太子会」の時に一般公開されます。また、2015年4/16~4/30には、「聖徳太子千四百年御聖忌記念事業」として特別開扉があり、僧侶による絵解き講和が行われました。

 中心伽藍の講堂の北に位置する六時堂(六時礼讃堂)は、元和9年(1623)の建立とされます。入母屋造、本瓦葺の建物です。一日6回、礼讃(らいさん:仏・法・僧の三宝を礼拝し、その功徳をたたえること)をすることから、この名がついたといいます。堂内には、薬師如来坐像と四天王像が安置されています。また、堂の入り口には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めています。建物の手前(南側)の「亀の池」の中央にある石舞台は、日本三舞台の一つといわれます(他の二つは、住吉大社の石舞台と厳島神社の平舞台)。毎年4月22日の聖徳太子命日の法要(聖霊会)の日には、最古の様式をもつとされる四天王寺雅楽が、終日披露されるそうです。

 境内の北東には、本坊や庭園(極楽浄土の庭)のある一角があります。六時堂から北に少し行ったところの右手に入口があります。入り口を入ると左手に五智光院が見えます。五智光院は、元和元年(1623)、徳川二代将軍秀忠によって再建されました。もともとは西大門にあったものを、明治34年(1901)に現在の場所に移築したといいます。単層、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面に向拝(こうはい)が施されています。建物内には、大日如来を中心として五智如来(ごとにょらい)が安置されています。また、徳川家代々の位牌が納められており、御霊舎(みたまや)とも呼ばれていました。

 五智光院と本坊の間を通って庭園に出ると、右手に客殿と方丈が見えます。方丈は、元和9年(1623)、徳川秀忠によって再建されました。別名「湯屋(ゆや)方丈」(湯屋とはお風呂の事)と呼ばれます。徳川家康に仕えた天海大僧正が四天王寺執務の時に、ここに住んでいたといいます。本坊前に広がる庭園は、「極楽浄土の庭」と呼ばれます。「瑠璃光の池」と「極楽の池」の二つの池を配し、白砂の廻遊路(「白道」)施した池泉回遊式庭園です。阿弥陀仏が住んでいるという極楽浄土を思い浮かべるにふさわしい庭園だといいます。庭園の一角にある青い八角形の建物は、八角亭といい、明治36年(1903)に天王寺公園で開催された博覧会の建物を移築したものです。ギリシャ風の建築物で、窓に三色の板ガラスが使われています。明治時代の貴重な洋風建築物です。他に庭内には青龍亭、臨池亭という二つの茶室があります。また、本坊前の庭園は座視式庭園で、「補陀落(ふだらく)の庭」と呼ばれます。補陀落とは、観音菩薩が降り立つとされる八角の形状をした山のことです。これらの庭は、明治初期の火災の後に復興されたものです。

 四天王寺は、度重なる災害にもかかわらず、その都度復旧し、現在も創建当時の姿を私たちの前に見せてくれています。多くの人々の努力もさることながら、聖徳太子創建の寺であることから、太子信仰が昔も今も変わらず人々の心に強く根付いている証といえるかもしれません。聖徳太子が実在したか否かという議論がありますが、少なくともそのモデルとなった人物はいただろうという点は、疑問の余地がないといえます。聖徳太子という人物像は、古代の人々の理想の姿であり、それが時代を超えて日本人に支持され続けてきたのかもしれません。十七条の憲法第一条「和をもって貴しとなす」で、日本人の心の源流としての「和」の心の大切さを説き、第二条「篤く(あつく)三宝(仏・法・僧)を敬え」で仏教を中心とした国家体制の構築を図り、第三条「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め」で天皇中心の中央集権国家体制の確立を目指した聖徳太子は、日本の古代の国のかたちをつくった人といっても過言ではないでしょう。21世紀の現在も、その魂は四天王寺の境内に生きていいる気がします。



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