ー甲斐健の旅日記ー

相国寺/室町三代将軍足利義満の権威の象徴だった寺院

 相国寺(しょうこくじ)は、正式名を万年山相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)といい、臨済宗相国寺派の大本山です。開基は室町三代将軍足利義満で、開山は、義満の祖父尊氏が帰依(きえ)していた禅僧夢窓疎石(むそうそせき)です。

 足利義満は父の義詮(よしあきら:二代将軍)が若くして亡くなったため、11歳の若さで将軍に就任しました(応安元年:1368年)。はじめのうちは、管領(かんれい)細川頼行の補佐のもとで政務を執り行っていましたが、康暦元年(1379)細川頼行が失脚する(斯波氏らとの抗争に敗北)頃には、自らの権力を強化し行使できる環境が出来ていました。実際、永和四年(1378)には、現在の今出川通と上立売通の間(南北間)、烏丸通と室町通の間(東西間)という広大な敷地に室町殿(むろまちどの)という将軍の居所を造営しています。これが室町幕府の名の起こりです。京中の貴族や武士の屋敷にあった名花、名木を強引に移植させたといわれ、花の御所と呼ばれました。

 次に義満は、この花の御所の東側に禅寺を建築することを思い立ち、尊崇していた夢窓疎石(すでに故人)の弟子であった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)と義堂周信(ぎどうしゅうしん)に伽藍(がらん)の建設を命じます(永徳二年:1382)。かなりの大工事で、完成までには十年の月日がかかったといいます。また義満は、南禅寺を京都五山の上に据え、天龍寺に次いで相国寺を第二位としました。さらには、禅宗寺院の僧侶の人事権を管理する僧録司(そうろくし)の職を相国寺の住持に兼務させました。相国寺は、純粋な宗教的役割以外に義満の権威を誇示するための象徴となったといえます。実際、相国寺に造られた七重の塔(七重大塔)は、当時としては最も高い塔でした(109m:火災で焼亡し現存せず)。天皇の座する御所を見下ろすような巨大建築物を建てることにより、王者としての権威を示したかったのかもしれません。応永6年(1399)9月に行われた相国寺七重大塔の供養では、全僧官、廷臣が北山第(きたやまてい:義満の山荘)に集合し、関白以下全員土下座する中を義満は相国寺に向かったといいます。特に人々を驚かせたのは、青蓮院尊道入道親王、仁和寺永助法親王(いずれも天皇の皇子)の両皇族が自ら望んで付き従おうとしたことでした。   

 なお、春屋妙葩は、師である夢窓疎石を相国寺の勧請開山(かんじょうかいざん)の第一世とし、自らは第二世となりました。また、相国寺の名の由来は、義満が左大臣であり、中国で左大臣は「相国」ということから、春屋妙葩が提案したとのことです。

 相国寺は、その後、何度か焼亡と再興を繰り返しました。桃山時代以降、秀吉、家康らによる再興で一時期伽藍が整ったものの、天明の大火(天明8年:1788)で、法堂(はっとう)、浴室以外の建物を焼失してしまいます。この時焼失した建物は、ほとんどが江戸後期に再建され現在に至っています(権威の象徴であった高さ109mの七重大塔は、二度の火災に遭い、その後再建されていません)。

 相国寺には、13の塔頭(たっちゅう)寺院があり、山外塔頭としては鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺があります。また全国に100カ寺の末寺(まつじ)を擁しています。

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 京都御苑の北にある今出川御門から、同志社大学の校舎の間の道を北に歩くと、相国寺の総門に着きます。総門をくぐって境内に入ると、松の木が程よく生い茂り、ゆったりとした感じの境内に入ります。義満の権威の象徴としての威圧感は、今は感じられません。

 総門をくぐると、放生池(ほうじょうち)が見えます。ここに架かる石橋は、天界橋とよばれ、相国寺と禁裏御所との中間の境界線の位置にあるためそう呼ばれたといいます。天文20年(1551)に、相国寺が焼亡した戦では、管領(かんれい)細川晴元軍と松永久秀軍とが、この天界橋を挟んで対峙したといわれます。また、総門の脇には勅使門(ちょくしもん)があります。天明の大火を免れたと伝えられ、慶長期(1596~1615年)の再建と考えられています。総門に並んで勅使門が建つのは、禅宗寺院で多くみられます。

 三門は、天明の大火で焼け、仏殿は天文20年(1551)の戦で焼亡した後再建されず、今は松林となっています。その先に法堂(はっとう)があります。慶長10年(1605)に、豊臣秀頼の寄進により再建されました。現存する法堂建築としては、日本最古のものだそうです。単層、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、立派な裳階(もこし)が施されています。両端で鋭く反りあがった屋根の形状や、円柱の上下を細く絞ったギリシャのエンタシスのような柱、両側に花頭窓(かとうまど)が施されるなど、禅宗様建築の雰囲気があります。この法堂は仏殿も兼ねています。内部の須弥壇(しゅみだん)には、相国寺の本尊である釈迦如来像、脇侍(わきじ)として向かって左に阿難尊者(あなんそんじゃ)、右に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が祀られています。また、鏡天井には、安土桃山時代の絵師狩野光信筆の蟠龍図(ばんりゅうず:地面にうずくまってとぐろを巻き、まだ天に昇らない龍の図)が描かれています。禅宗寺院の法堂によくみられる、仏法を保護するという龍の図です。また龍は「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられてきました。堂内の特定の場所で手を叩くと、音が堂内に反響し、龍の鳴き声に似ているということから、鳴き龍とも呼ばれています。    

 法堂の北に庫裏(くり)方丈があります。どちらも文化4年(1807)に再建されました。庫裏は、切妻造(きりつまづくり)の建物です。一般的には、台所兼寺務所の役割ですが、韋駄天(いだてん)を祀るお堂でもあったと考えられているそうです。方丈は単層、入母屋造、䙁瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。前庭は白砂を敷き詰めただけの単調な作りですが、裏庭は、狭い空間に渓谷を思わせるような深い掘り込みをつくり、急な水の流れを演出するという変化の激しい地形を表す庭となっています。

 方丈の西に位置する浴室は、慶長元年(1596)に再建されたものです。その昔、16人の菩薩が風呂の供養を受けたとき、突然自分と水が一如(いちにょ:一体であり、不可分であること)であることを悟り、その時、跋陀婆羅菩薩(ばつだばら ぼさつ:浴室の守護神)が、「宣命(せんみょう:明らかで、はっきりしていること)」と叫んだという故事から、禅宗寺院の浴室を宣命と呼ぶようになったといいます。浴室は修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしているそうです。また、相国寺の宣命は蒸風呂であると同時に、杓子で湯を取り身体に注ぐ掛け湯式の入浴方法を併せ持った方式であったようです。

 法堂の東にある開山塔は、開山夢窓疎石の木像を安置しているお堂です。天明の大火の後に、桃園天皇の皇后恭礼門院(きょうらいもんいん)の黒御殿を移築、改造したものです(文化4年:1807)。前方に礼堂、奥に祠堂という構成になっています。開山塔の庭は、築山と流れの「山水の庭」と、御影の切石に縁取られた白砂に庭石を配置した「枯山水平庭」の、二つの形態の庭が一緒になっているという珍しい庭です。なお、開山堂の特別公開は秋のみです(法堂、方丈、浴室は春と秋に特別公開されます)。

 足利義満の権威の象徴であった相国寺も、今や600年前の面影は感じられませんでした。今はゆったりと時が流れる境内を、大寺としての圧迫感も感じずのんびりと散策できることに、何故かホットした気持ちになります。



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