ー甲斐健の旅日記ー

東大寺/庶民に圧倒的な支持を得ていた行基の尽力で聖武天皇が開いた寺院

 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市にある華厳宗大本山の寺院です。正式名称は金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのう ごこくのてら)といい、奈良時代に聖武天皇が国力の限りを尽くして建立した寺です。盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山は良弁(ろうべん)です。

 奈良時代は、平城京を中心とした華やかな文化が花咲いた時代でしたが、一方では、干ばつによる飢饉、大地震、疫病の大流行など、庶民にとっては不安と恐怖の絶えない時代でもありました。このような状況の中、神亀元年(724)に聖武天皇が即位しました(24歳)。その聖武天皇と光明皇后(藤原不比等の娘)との間に生まれたのが基親王です。ところが、この親王がわずか一歳で亡くなってしまいます。そこで聖武天皇は、この子の菩提を弔うため、神亀5年(728)に金鐘山寺(きんしょうせんじ)を建立し、僧良弁を住持としました。これが東大寺の前身といわれます。

 その後、聖武天皇より、全国に国分寺、国分尼寺を建立するよう詔が発せられたとき、金鐘山寺は大和金光明寺と改名されました。さらに聖武天皇は、民間の力を使って盧舎那仏の大仏造立を強く願うようになります。そして、天平15年(743)に「大仏造願の詔」が発せられます。ところで、聖武天皇は、在位の間に都を次々と遷したといいます。恭仁京(くにきょう:現京都府木津川市)、紫香楽京(しがらききょう:現滋賀県甲賀市信楽町)、難波京(現大阪市)と遷し、最後には平城京に戻ったといいます(一説には、壬申の乱で天武天皇がたどった道をなぞったといわれます、聖武天皇は天武天皇を尊崇していたともいわれます)。大仏の建立は、紫香楽京で始められましたが、山火事や地震の頻発により中断を余儀なくされ、平城京遷都後に、現在地で再開されたといいます。

 聖武天皇は、この事業成功のためには幅広い民衆の支持が必要と考え、民衆に人気のあった行基(ぎょうき)を大僧正として迎え、大仏建立の責任者としました。行基は、弟子たちを伴い勧進行脚(かんじんあんぎゃ)に出て、大仏建立のための寄付を集めたといいます。行基という人は、朝廷が僧侶を国家機関として定め、勝手に民衆に仏教の布教活動をすることを禁じていた時代に、その禁を破り、畿内中心に多くの人々に仏法の教えを説き、民衆に圧倒的に支持された人です。他にも灌漑事業、架橋工事、困窮者のための救済施設の設立など様々な社会事業を手がけました。朝廷に逆らうということは、それを支えていた(あるいは支配していた)藤原摂関家に逆らうことでした。一方聖武天皇は、文武天皇と藤原不比等の娘宮子の子であり、妻の光明皇后も宮子とは腹違いの妹であることから、藤原一族の一員だったのですが、大仏建立という重要な事業に反骨の僧行基を登用したのです。ここに、聖武天皇の「反藤原」の姿勢が読み取れるともいわれます。東大寺は、もともとは、「反藤原」を象徴する寺院だったのかもしれません。とにもかくにも、大仏は完成し、天平勝宝4年(752’)に、インドからの渡来僧菩提僊那(ぼだいせんな)を導師として、大仏開眼会(かいげんえ)が執り行われました。さらに、大仏殿は天平宝字2年(756)に竣工しました。東大寺では、大仏建立に貢献した、良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいるそうです。また、東大寺という寺号は、大仏が平城京で建立され始めたころに使われだしたといわれています。

 東大寺の伽藍(がらん)は、天平17年(745)の起工から、40年かけて完成されたといいます。創建当初は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門 と 中門の間には東西に2基の七重塔(高さ約70mと推定されています)が建っていたとされます。また東大寺は、奈良時代には南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)、平安時代に入ると、天台、真言を加えて、八宗兼学の寺とされました。平安時代には、桓武天皇の南都仏教抑圧政策もあり、特に比叡山延暦寺との対立が深まっていきます。そのため東大寺も多数の僧兵を抱え、度々強訴(ごうそ)を行うようになりました。

 東大寺の伽藍は、何度か火災に遭い被害を受けてきましたが、特に大きなものは、治承4年(1181)に起きた平重衡(清盛の五男)の南都焼き討ちでした。これにより、大仏殿はじめ多くの堂宇(どうう)が焼失してしまいます。この時、復興に尽力したのが俊乗房重源(ちょうげん)でした。彼の努力により復興が進み、文治元年(1185)に後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190)には、大仏殿が完成し、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれたといいます。もう一つの大きな被害は、永禄10年(1567)の三好・松永の戦いの兵火による火災です。この時は東大寺境内が戦場となり、大仏殿を含む主要な建物はほぼ焼失してしまいました。その後、本尊の盧舎那仏は約120年間雨ざらしの状態でしたが、17世紀の後半になって、三論宗の僧公慶(こうけい)が江戸幕府の許可を得て再建に乗り出し、徳川五代将軍綱吉やその母桂昌院らの寄進を受け、宝永6年(1709年)に大仏殿が再建され、伽藍が整っていきました。しかし、講堂、食堂、東西の七重塔は再建されずに現在に至っています。

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 東大寺は、近鉄奈良駅の前の通り(大宮通)を東に歩き、大仏殿前の交差点を左(北)に曲がって少し歩いたところにあります。近鉄奈良駅からは、徒歩で20分ぐらいです。

 まずは、南大門が迎えてくれます。創建時の門は、平安時代に台風で倒壊したとされ、現在見る門は、正治元年(1199)に、東大寺中興の祖の俊乗房重源が再建に着手したものとされます(4年後に完成)。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)五間三戸の二重門です。左右には、金剛力士像(向かて右に吽形、左に阿形)が安置されています。阿形(あぎょう)像は運慶および快慶が造り、吽形(うんぎょう)像は定覚(じょうかく)および湛慶(たんけい)が造ったものといわれています。

 南大門をくぐり、鏡池を右手に見ながら長い参道を進むと(このあたりには奈良公園の鹿がいっぱいいます)、中門があります。享保元年(1716)ごろに再建されたとされます。入母屋造、本瓦葺の楼門です。中門の両脇から回廊が伸び、大仏殿(金堂)の左右に至ります。

 中門の西にある入口から、回廊および大仏殿に入ることが出来ます。大仏殿の前にある八角灯籠は、大仏開眼とほぼ同時期に作製された銅製の灯籠で、髙さが約4.6mあります。我が国最大最古のものとされ、天平時代の面影を今に伝える貴重なものだそうです。八面の火袋(ひぶくろ:灯籠の火を燃やすところ))の窓は羽目板となっており、そのうち4面には音声菩薩(おんじょうぼさつ)像が浮き彫りになっています。笙(しょう)・横笛・銅跋子(どうばつし:打楽器で、椀状で銅製の円盤2個を両手に持って打ち合わせるもの)・尺八などをそれぞれ奏でており、健康的で豊かな表情が見て取れます。4面の羽目板のうち北西と南西のものは当初のものですが、北東と南東のものはレプリカだそうです。

 大仏殿(金堂)は、治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ち事件で焼亡後、俊乗房重源の尽力で建久6年(1195)に再建されました。大仏も台座や下半身の一部を残して焼失しましたが、同時期に再興されました。その後、永禄10年(1567年)の松永・三好の合戦の戦火によって、またもや大仏殿は焼け落ち、大仏も頭部を失ってしまいます。現在見る大仏は、元禄3年(1690)に復元されたものです。また大仏殿は、宝永6年(1709)再建されたものです。

 大仏殿は、単層、寄棟造(よせむねづくり)、本瓦葺で、堂々とした裳階(もこし)が施されています。その裳階の正面部分に唐破風(からはふ)が付けられ、その下に観相窓があります。毎年、大みそかから元旦にかけてこの窓が開かれ、大仏のお顔を外から拝することが出来るそうです。高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりませんが、間口は創建時の約3分の2に縮小されているといわれます。しかし、世界最大級の木造建築であることには変わりありません。大仏殿内部には、「奈良の大仏」として有名な、東大寺本尊の盧舎那仏坐像(高さ14.7m)が安置されています。また脇侍として、木造の如意輪観音像、虚空蔵菩薩像(いずれも江戸時代中期作)が安置されています。また、堂内の北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像(江戸時代中期作)が安置されています。四天王のうち残りの2体(持国天増長天)は未完成に終わったそうで、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれています。さらに堂内には、明治42年の日英博覧会用に製作されたとされる東大寺旧伽藍の模型などが展示されています。なお、堂内の照明はLED化されており、明るく見やすい展示となっています。LEDは、赤外線や紫外線をあまり出さないので、文化財に対しては優しい光なのだそうです。

 大仏殿の西方に戒壇院があります。伝戒の師(戒律を日本に伝えてくれる高僧)として、渡日を強く熱望された唐の高僧鑑真和上は、5度の失敗にもめげず、6度目の挑戦で渡日を果たしました。その間の苦労で鑑真は失明していたといいます。その鑑真が、天平勝宝6年(754)に、東大寺において、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇および多くの僧侶らに戒律を授けました。そして翌年、日本で初めての正式な授戒の場として建立したのがこの戒壇院です。特に出家者が正式な僧となるために戒律を授かる授戒の施設は、神聖なものであり、寺院の中で最も重要な場所の一つであるといわれます。戒壇院も3度ほど火災に遭い、現在見る建物は享保18年(1733)の再建とされます。内部の戒壇中央には、多宝塔があり、多宝如来釈迦如来が祀られています。その周囲には、四天王が祀られています。

 大仏殿の東には、鐘楼、俊乗堂、行基堂が並んでいます。鐘楼は、鎌倉時代に再建されたものです。一説によれば、臨済宗を開いた栄西が再建したといわれます。中に吊されている梵鐘は、大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752)に製作されたとされ、中世以前の梵鐘としては最大のものといわれます(高さ385cm、口径275cm)。「勢いの東大寺鐘」として、「声の園城寺鐘」、「姿の平等院鐘」と共に、日本三大名鐘のひとつとされます。俊乗堂は、東大寺中興の祖、俊乗房重源を祀る堂です。宝永元年(1704)の建立とされます。本尊の俊乗上人坐像を祀っています。重源が86歳で亡くなった直後に製作されたもので、鎌倉肖像彫刻の傑作といわれます。毎年7月5日の俊乗忌と12月16日の良弁忌に公開されるそうです。行基堂は、聖武天皇のもとで東大寺の創建に力をつくした行基の肖像を安置しています。

 さらに東に進むと、開山堂があります。開山良弁の像を祀るためのお堂です。現在見る建物は、内陣は正治2年(1200)、外陣は建長2年(1250)の建立とされます。内陣中央に八角の厨子(ずし)が置かれ、本尊木造良弁僧正坐像(平安時代初期作)が安置されています。毎年、12月16日の良弁忌に公開されるそうです。なお、開山堂は2014年11月現在改修工事中でした。

 東大寺境内東端には、二月堂と三月堂(法華堂)があります。二月堂は、旧暦の二月に「お水取り」が行われることからこの名がついたといわれます。現在の建物は、寛文9年(1669)に再建されたとされます。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏とされています。三月堂は、東大寺創建以前の金鐘山寺の遺構とされます。東大寺建築の中では、最も古い建物です。建物の北側の入母屋造の部分を礼堂(らいどう)と呼び、北側の寄棟造りの部分を正堂(しょうどう)と呼びます。この二つの建物は、もともと軒を接する形で、建てられていました。正堂は、天平12年(740)から同20年(748)ごろの建立と推定されています。礼堂は、正治元年(1199)ごろに寄棟造から入母屋造に改築され、この時に2棟がつながれ、現在見る姿になったといわれています。正堂内部には、本尊の不空羂索観音立像、梵天立像、帝釈天立像、金剛力士立像2体、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神像が安置されています(すべて奈良時代作)。なお、執金剛神立像だけは普段は非公開で、良弁忌の12月16日のみ公開されているそうです。執金剛神は、右手に金剛杵(こんごうしょ、仏敵を追い払う武器)を持ち、目を吊り上げて威嚇する武神像です。開山良弁の念持仏であり、平将門の伝説でも有名です。朝廷に反旗を翻して東国で乱を起こした将門に対して、この像の髻(もとどり、結髪)を結んでいる元結紐(もとゆいひも)の端が蜂となって飛び出し、将門を刺して苦しめたといいます。実際、本像の元結紐は今も片側が欠失しているそうです。

 権力におもねることなく、庶民に仏教の教えを広め、様々な社会事業を通して多くの人々を助けた反骨の僧行基と、彼を大僧正に迎え大仏建立の総責任者とした聖武天皇の思いを想像すると、東大寺は、官大寺としてではなく、多くの救いを求める民衆のために造られた寺院であったのかもしれません。それにしても、聖武天皇の「反藤原」の精神はどのようにして培われていったのでしょうか。



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