高知城/山内一豊が築いた名城
歴史
高知城は高知市内に現存する日本の城です。戦国時代、土佐国一帯を支配していたのは長曾我部(ちょうそかべ)氏でした。しかし、関ケ原の戦いで西軍に与し、徳川家康率いる東軍に敗れて、長曾我部家は改易となってしまいます。代わって土佐国24万2千石を任されたのが山内一豊でした。一豊は、長曾我部氏の居城だった浦戸城(高知市桂浜の近く)周辺が城下町を開くには手狭だと判断し、現在の地に新しい城を築くことにしました。慶長8年(1603)8月に、まず本丸が完成しました。当初は、河中山城(こうちやまじょう)と名付けられましたが、この地は水害が多く縁起が悪いということで、2代目忠義の時に表記を変更して高智山城となり、その後さらに省略されて現在の高知城と呼ばれるようになったといいます。三の丸が完成して高知城の縄張りが完成したのは、慶長16年(1611)のことでした。
築城から100年余り経った享保12年(1727)に大火に見舞われ、追手門(おうてもん:表門)を残してすべての建物が焼失してしまいました。その後再建されますが、すべての工事が完了したのは宝暦3年(1753)のことでした。現在残っている建物は、ほとんどがこのときに再建されたものです。
明治になって、高知城は廃城となりましたが、天守を含む15の建物が国宝(現在の重要文化財)に指定され保存されることとなり現在に至っています。平成18年(2006)には、日本の100名城(#84)に選定されています。また天守周辺は高知公園として整備され、市民の憩いの場となっています。
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訪ね歩く
高知城へは市電(路面電車)を利用するのが便利です。高知駅から南に2駅目のはりまや橋で乗り換え、さらに西に3駅目の高知城前で下車します。停留所近くの交差点(高知城前)を北に1ブロック歩き、信号のある交差点を左斜め方向に進むと高知公園に入ります。高知城はこの公園の中央付近にあります。以下に、高知城周辺の主な建物・施設について紹介します。
山内一豊像
土佐藩初代藩主・山内一豊の騎馬像が、城内への入り口である追手門の近く(県立図書館の前)にあります。像の高さは4.32m、台座も含めると9.4mになります。この山内一豊像の原型は、大正元年(1912)に本山白雲(もとやま はくうん:桂浜の坂本龍馬像の製作者、高村光雲の門弟)によって建立されたのですが、第二次大戦中の金属供出によって失われました。現在の銅像は、平成8年(1996)に復元されたものです。騎馬像としては国内最大クラスの大きさです。
追手門(おうてもん)
高知城の表門です。石垣の上に、入母屋造(いりもやふくり)・本瓦葺(ほんがわらぶき)の渡櫓(わたりやぐら)を載せた櫓門です。現存する建物は、享和元年(1801)に建立されたと伝えられます。門前は門と塀とで枡形に囲まれており、侵入してきた敵をとどめて3方向から攻撃できる構造になっています。また、櫓の2階には敵の侵入を阻む石落としの仕掛けが設けられています。
板垣退助像
追手門をくぐってすぐ左手に、板垣退助像があります。この像の原型も、大正12年(1923)に本山白雲によって建立されたのですが、第二次大戦中の金属供出によって失われました。現在の銅像は、昭和31年(1956)に復元されたものです。像の高さは2.2m、台座も含めると6.4mあります。板垣退助は土佐藩上士(じょうし)の出ですが、幕末は倒幕軍の参謀として活躍し、明治新政府では参議を務めていました。しかし、明治6年の政変(朝鮮に対する外交政策で対立し、西郷以下5名の参議が辞任した事件)で西郷隆盛らと共に下野し、その後は自由民権運動の中心的人物として活躍しました。明治15年(1882)、岐阜で遊説中に暴漢に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残しています(実は随行の自由党員が言った言葉だったという説もあります)。昭和28年(1953)から昭和49年(1974)まで発行された100円札には、板垣退助の肖像画が使用されていました。
山内一豊妻の銅像
追手門をくぐって右方向に歩いていくと、土佐初代藩主山内一豊の妻・千代が駿馬と共に立つ像があります。一豊がまだ織田家の一家臣だったある日、尾張に馬売りがやってきました。その馬売りが連れてきた駿馬が素晴らしいと評判が立ちましたが、10両という高額なために、家来たちは誰も手が出せませんでした。このとき、一豊の妻・千代が、「もしもの時があったら使いなさい」と嫁入りの時に父から渡されたお金をすべて夫にあたえ、一豊はこの駿馬を手に入れることができたのです。すると、その馬が主・信長の目に留まり、その後一豊は出世街道をひた走ることになったという逸話です。この千代の「内助の功」は、「妻の鑑(かがみ)」と称賛され、戦前は国語や修身(今でいう道徳)の教科書にもこの逸話が掲載されていたといいます。
詰門(つめもん)
追手門から石段をどんどん上っていくと、二の丸と本丸の連絡橋の役目をもった詰門があります。二階建ての櫓(やぐら)門です。入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の屋根が設けられています。敵の侵入を妨害するために、入り口からまっすぐ進んでも本丸にはたどり着けない(むしろ遠ざかってしまう)構造になっていて、入り口と本丸への出口が筋違いになっているそうです。二階部分は、二の丸と本丸を繋ぐ通路となっていて、家老・中老などの詰め所が設けられています。詰門の名前の由来はここからきたといいます。詰門は普段は閉じていますが、毎年梅の花の開花時期に開放されるそうです。梅の段での花見を楽しむことができ、また「梅の枝配布」のサービスも行われています(先着順)。
天守・本丸御殿
詰門への石段の手前を右に迂回して進むと、天守・御殿のある本丸に出ます。天守へは、本丸御殿(懐徳館〈かいとくかん〉)から入場料を払って入ります。本丸御殿は藩主の居館であり、御座所である上段の間、四ノ間、三ノ間、ニノ間、藩主を護衛する家来が隠れていた武者隠しなど、江戸中期の再建当時の姿がそのまま残されています。また納戸蔵には、江戸中期の土佐の名工・武市高朋(たけちたかとも:土佐の左甚五郎と呼ばれる)が彫ったという三の丸の欄間や、当時使用していた駕籠、船印として使われた山内家の三つ柏の家紋などが展示されています。
御殿から天守の1階に入ることができます。現存する高知城天守は、延享4年(1747)に、創建当時の姿を基にに再建されたものです。4重6階建てで最上階に高蘭が設けられています。千鳥破風(ちどりはふ)と唐破風(からはふ)を組み合わせた安土桃山時代の様式です。天守の高さは18.5mで、最上階には高欄が付いた廻縁(まわりえん)があり、一周しながら高知市街の眺望を楽しむことができます。
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写真集
(クリックすると写真が拡大されます)▲高知城天守
▲追手門(おうてもん)
▲石垣
▲板垣退助像
▲山内一豊・妻の銅像
▲高知城天守と御殿
▲三の丸欄間の彫刻
▲
▲駕籠
▲山内家三つ柏qの家紋
▲ 天守からの眺望
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