ー甲斐健の旅日記ー

寺田屋/幕末、激動する歴史の舞台となった船宿

 京都市伏見区にある寺田屋は、幕末に起きた二つの大事件の舞台となった船宿でした。現在は、旅館業を続けるかたわら、宿泊者以外にも館内を開放する史跡博物館となっています。

 寺田屋が創業したのは、慶長2年(1597)です。山城国寺田村(現・京都府城陽市)に住んでいた百姓・伊助が、この地に移り船宿を開いたのが始まりです。伊助は出身地の名を借りて「寺田屋」と号しました。当時は、琵琶湖から京都を経て大坂湾に流れる淀川水系が交通の大動脈でした。その途中に位置する伏見は京への玄関口となり、寺田屋もたいそう繁盛したといいます。幕末には、薩摩藩の定宿(じょうやど)となっていました。このことが寺田屋を歴史の舞台に引きずり出すきっかけとなったのです。幕末、二つの大事件が寺田屋で起きました。

 最初の事件は、薩摩藩主の父・島津久光が自藩の尊王攘夷派の志士を排除するため、寺田屋を襲撃させた事件です(文久2年〈1862〉4月)。薩摩藩尊攘派志士グループ(真木和泉〈まきいずみ:久留米藩士〉など一部他藩の志士も参加)は、公武合体路線をとる薩摩藩の方針に反旗を翻し、関白と京都所司代の首をとって久光に奉じて倒幕への路線転換を迫ろうと画策していました。この情報を聞きつけた島津久光は驚愕し、特に剣術に優れた藩士8名を、尊攘派が会合場所としていた京の寺田屋に向かわせ過激な行動は慎むよう説得を試みました。しかし、倒幕の志に燃えた志士たちを納得させることはできませんでした。結局斬りあいになり、尊攘志士側は有馬新七以下6名が討ち死に、2名が重傷を負いました(この2名はのちに切腹させられました)。また、京都藩邸で療養中の薩摩藩士・山本四郎も、尊攘派の計画に加わる予定だったため帰藩謹慎が命じられました。しかし、これを拒否したため切腹させられました(この山本を含めて9人の殉難者が烈士とされました)。一方、藩から派遣された8名についても、1名が死亡、1名が重傷を負いました。この事件によって、久光は朝廷から信望を得ましたが、藩士同士が京で斬りあいを演じたことは藩内に大きなしこりを残したといえます。薩摩藩の倒幕へ向けた取り組みは、大きく後退する結果となりました。

 二つ目の事件は、慶長2年(1866)1月に起きました。薩長同盟を周旋し成立させた坂本龍馬が、その直後に伏見奉行所の捕り方に囲まれ、危うく捕縛(あるいは殺害)されかかった事件です。薩長同盟が成立した翌々日、龍馬は寺田屋で長州藩の三吉慎蔵と酒を酌み交わしていました。この情報を伏見奉行所が察知し、捕り方30人ほどが出動して寺田屋の周囲を取り囲みました。その時入浴していたお龍(おりょう:龍馬の恋人、のちに結婚)が外の気配に気づき、階段をかけ上がって2階の龍馬に危機を知らせたといいます(このときお龍は裸のままだったという説がありますが、実際は袷〈あわせ〉1枚羽織っていたというのが本当のようです)。捕り方に攻め込まれた龍馬は、高杉晋作からもらった拳銃で応戦しました。一緒にいた三吉慎蔵も槍を手にして防戦しますが、多勢に無勢──おまけに龍馬が手の親指を負傷して拳銃が使えなくなったため、屋根伝いに逃亡します。三吉は、負傷した龍馬を近所の材木屋に隠し、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めました。薩摩藩士3名が龍馬救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができました。翌日、伏見奉行所が龍馬引き渡しを要求してきましたが、薩摩藩は頑として受け付けませんでした。龍馬の受けた傷は意外に深く、西郷隆盛が軍医を派遣して治療に当たらせるとともに、藩邸の警備も強化したといいます。こののち龍馬は、リハビリもかねてお龍と共に薩摩に赴き、温泉で療養することになります。これが、龍馬とお龍の新婚旅行だったといわれます(この新婚旅行が日本初といわれていますが、実は薩摩の重臣・小松帯刀〈たてわき〉が龍馬よりも前に新婚旅行をしていたという説があります)。

このページの先頭に戻ります

 寺田屋への最寄りの駅は、京阪線の中書島(ちゅうしょじま)駅となります。駅を降りて北へ300mほど歩き、小さな橋を渡った左手にあります。

 寺田屋は、幕末の鳥羽・伏見の戦いで焼失してしまい、現在ある建物は、明治36年(1905)年ごろに、もともとあった敷地の西隣に建てられたものです。幕末当時の雰囲気を今に伝えていて、人気の観光スポットとなっています。現在の寺田屋は、旅館業をつづけながら、泊り客以外にも開放する史跡博物館となっています。龍馬がよく利用した部屋(梅の間)、女主人お登勢の部屋、伏見奉行所の捕り方に囲まれたときにお龍が入っていたお風呂などが再現されています。また、第二次寺田屋事件の時にできた弾痕の残る柱も見ることができます。各部屋には、龍馬を描いた絵や写真、龍馬が愛用していたものと同型の拳銃など、龍馬ゆかりの史料が展示されています。

 建物東側の庭園には、第一次寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩志士を悼む「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」や「薩藩九烈士遺蹟表(いせきのひょう:恩賜記念碑)」が建てられています。石碑には、悲運の志士たちを庇いその偉業を助けた寺田屋女主人・お登勢を讃える文章が刻まれています。

 なお、寺田屋の前には宇治川派流が流れており、今も船着き場(寺田屋浜乗船場)には三十石船が係留されています。ゆっくりと時間をかけて(40分ほど)伏見の水路を巡り、京の風情を満喫するのもよいかもしれません(運航日限定、要確認)。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

popup image