ー甲斐健の旅日記ー

岩崎弥太郎生家/一介の地毛浪人から三菱財閥の基礎を築く大出世を遂げた岩崎弥太郎生家

 土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安芸駅から北に約3km、県道(29号)沿いにある一宮神社の北100mを右(東)に入ったところの左手(北側)に、三菱グループ創始者の岩崎弥太郎生家があります。現在も岩崎家が所有していますが、無料で見学できます。すぐ近くに駐車場もあります。

 岩崎弥太郎は、天保5年(1935)12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市井ノ口甲一宮)で地下浪人(じげろうにん:郷士身分を他に売って浪人となった者)・岩崎弥次郎の長男として生まれました。岩崎家は甲斐武田氏の流れをくむ由緒ある家柄で、家紋は武田菱(たけだびし)に由来していたと伝えられます。その岩崎家の末裔である信寛の代に安芸に移り住み、安芸氏、そして長宗我部(ちょうそかべ)氏に仕えるようになりました。しかし、関ケ原で長宗我部氏が参陣した西軍が敗れ、山内一豊が藩主となると、岩崎家も不遇の時代を迎えます。ついには郷士身分まで捨てて地下浪人にまで落ちてしまいました。

 弥太郎は幼いころから学問に励みました。20歳の時、江戸詰めとなった役人の従者として生まれて初めて江戸に行き、親戚で塾頭をしていた岩崎馬之助のすすめで、昌平坂学問所教授・安積良斎(あさか ごんさい:朱子学者、塾生には吉田松陰、高杉晋作、前島密など多くの著名人がいる)の塾生となりました。翌年、父親が酒の席での大喧嘩の末、傷害の罪で投獄されたことを知ると、急いで帰国します。そして、奉行所の取り調べに疑問を持った弥太郎は、奉行所の壁に批判の落書き(「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」)をして投獄されます。ところが、このとき同房だった商人が算術や商法に長けていて、獄舎で彼から学ぶことができました。このことが、弥太郎のその後の人生を大きく変えることとなったのです。

 出獄したのち吉田東洋の塾生となった弥太郎は、東洋が土佐藩の参政となったことにより、藩に召し抱えられ役人となります。そして、27歳の時に郷士株を買い戻し、郷士に復帰しました。吉田東洋が武市半平太率いる土佐勤王党に暗殺された後は、東洋の甥である後藤象二郎に仕え、開成館や土佐商会の主任として藩の貿易業務に手腕を発揮します。のちに坂本龍馬が結社した亀山社中(日本初の商社)が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、この経営に参画し、龍馬暗殺後は海援隊の残務処理を担当することになります。

 明治維新後は、開成館大阪出張所などで貿易業務などに携わっていましたが、廃藩置県後の明治4年(1871)、貨客運航会社・九十九商会(つくもしょうかい)の経営をまかされます。九十九商会は、高知―神戸間、東京―大阪間の航路を開き大成功しました。その後九十九商会は三川商会(みつかわしょうかい)と名を変え、明治6年(1873)三菱商会と社名変更しました。さらに翌年、東京日本橋に本社を移し、三菱蒸気船会社となります。このとき、土佐山内家の三つ柏紋と岩崎家の三階菱門の家紋を組み合わせ、現在の三菱グループのロゴマークがつくられました。一介の地下浪人から出発して、大財閥三菱グループの基礎を築いた岩崎弥太郎は、その波乱の人生を全うし、明治18年(1885)2月7日病死しました。享年51歳でした。

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 岩崎弥太郎生家へは、安芸駅からですと「元気バス」一ノ宮循環線に乗って「一ノ宮」で下車します(所要時間10分)。ただし本数が極端に少ないので、うまく時間を合わせる必要があ知ます。筆者は、行きを元気バスにして、帰りは安芸駅まで歩きました(所要時間50分ほど)。

 現存する生家は、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門が郷士株を売ったお金で、寛政7年(1795)頃に建築したものといわれます。茅葺(かやぶき)の平屋で、建坪30坪ほどあり、風呂と便所が別棟になってます。母屋(おもや)の西側と奥に土蔵があります。この土蔵の鬼瓦には、「三階菱」の岩崎家の家紋がついています。これが現在の三菱グループのロゴマークの原型といわれています。また母屋の前の庭には、日本列島をかたどった石組があります。弥太郎が少年時代に自ら作ったものだといわれています。



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