ー甲斐健の旅日記ー

唐招提寺/日本に戒律を伝えた鑑真和上が開いた寺院

 唐招提寺(とうしょうだいじ)は奈良市にあり、鑑真和上(がんじんわじょう)が建立した寺院です。南都六宗の一つである律宗の総本山で、本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)開基は鑑真和上です。

 鑑真は、唐の揚州で生まれ、14歳で出家し、その後律宗(僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派)や天台宗を学び、揚州の大明寺の住職をしていました。天宝元年(742)、聖武天皇の命を受けて、伝戒の師(戒律を日本に伝えてくれる高僧)を求めて唐に渡った留学僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、鑑真に会い、しかるべき高僧を推薦してくれるよう願い出ました。すると、鑑真自ら渡日すると約束したのです。しかし、当時の航海は危険を伴なっていたため、弟子たちなどが心配して鑑真の渡日に反対しました。そのため妨害を受けたり、ようやく出航できても船が難破したりで、5度も失敗を繰り返しました。その間、栄叡は病死し、鑑真もまた両眼を失明してしまいました。しかし鑑真は約束を決して忘れはしませんでした。そして、天平勝宝5年(753)6回目の挑戦でようやく渡日に成功します。鑑真は66歳になっていました。

 日本上陸に成功した年、鑑真は大宰府観世音寺の戒壇院で、日本初の授戒を行います。そしてその翌年、東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇および多くの僧侶ら(約400人といわれる)に戒律を授けました。   

 鑑真は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王(にたべしんのう:天武天皇の子、母は藤原鎌足の娘)の旧宅地を下賜(かし)され、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人々の修行道場を開きました。これが唐招提寺の始まりです。まずは講堂経蔵、宝蔵が整えられ、8世紀後半には金堂(こんどう)も完成し、伽藍(がらん)が整えられたといいます。現在においても、奈良時代の天平の息吹を伝える貴重な伽藍です。

 鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の知識も豊富で、日本にこれらの知識も伝えたといいます。また、悲田院を造り、貧民救済にも積極的に取り組んだといわれます。日本の仏教界に多大な功績をあげた鑑真和上は、天平宝字7年(763)に唐招提寺でなくなりました。76歳でした。鑑真の死を悼んだ弟子の忍基(にんき)が鑑真の彫像を造りました。これが現在まで伝わっている国宝鑑真和上像です。

このページの先頭に戻ります

 近鉄橿原(かしはら)線西ノ京駅で降りて、駅前の道を線路沿いに北へ10分ほど歩くと、唐招提寺南大門に着きます。南大門は昭和35年に再建された五間三戸切妻造(きりつまづくり)の門です。ここをくぐって境内に入ると、正面に金堂(こんどう)が見えます。金堂は、8世紀後半に建てられたもので、当時の姿を残す代表的な建物です。一重、寄棟造(よせむねづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、大棟(おおむね)の左右に鴟尾(しび:瓦葺の大棟の両端につけられる飾り)が飾られています。一つは創建当時のもので、もう一つは鎌倉時代の作り直しとみられていますが、劣化が激しいため今は新宝蔵に納められています。金堂の屋根には模造品が飾られています。金堂の大きさは、正面7間、側面4間(「間」は柱と柱の間の数)で、手前の7間×1間を吹き放し(壁、建具等を設けず、開放とする)としていることがこの建物の特徴です。堂内中央には、奈良時代作の本尊の盧舎那仏(脱活乾漆造:だっかつかんしつぞう)、向かって右に平安時代前期作の薬師如来立像(木心乾漆造:もくしんかんしつぞう)、左に奈良時代作の千手観音立像(木心乾漆造)が安置されています。この三体の組み合わせは大変珍しい形だそうです。また、本尊の手前左右には、梵天(ぼんてん)立像、帝釈天(たいしゃくてん)立像が配置され、須弥壇(しゅみだん)の四隅には四天王像が安置されています。

 金堂の北に建つのが講堂です。講堂は、僧侶が学問研鑽のため論議する道場です。天平宝字4年(760)ごろ、平城京の東朝集殿(ちょうしゅうでん)を移築、改造したものとされます。一重、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の建物です。平城京の面影を残す貴重な建物といわれます。堂内には、本尊の弥勒如来坐像(寄木造:鎌倉時代作)と、持国天増長天立像(奈良時代作)が安置されています。

 金堂と講堂の間の東側に建つ鼓楼(ころう)は、仁治元年(1210)建立で、入母屋造、本瓦葺の建物です。二階建てで、縁と高欄が施されています。上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成されています。内部には、鑑真和上が唐よりもってきたという仏舎利(ぶっしゃり)が安置されていることから、舎利殿とも呼ばれています。

 毎年5月19日、鎌倉時代の唐招提寺の中興の祖である大悲菩薩覚盛(だいひぼさつ かくじょう)上人の命日の法要の後、「うちわまき」という儀式が行われます。当日は、鼓楼の二階から僧侶がハート形のうちわをまき、それを参拝者が受け取る(あるいは拾う)というものです。このうちわを授かると、病魔退散や魔除けの御利益があるといわれます。参加するには参加権が必要です。私が訪ねた時は、朝の9時ごろ、南大門を入ったところで、係員が配っていました。定員は400名です(2014年)。この「うちわまき」のいわれは、上人が、修行中に蚊にさされているのを見て、それをたたこうとした弟子に、「自分の血を与えるのも菩薩行である」とおっしゃって戒めたという故事に因みます。そこで、上人が亡くなった時、「せめてうちわで蚊を払って差し上げよう」と、法華寺の尼僧がハート型うちわを供えたことが始まりだといわれています。

 鼓楼の東にある細長い建物は、礼堂と呼ばれ、弘安6年(1283)に、もともとあった僧房が改築されたものです。入母屋造、本瓦葺の建物です。隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、内部には清凉寺式釈迦如来立像おとび、日々の供養が出来るように、仏舎利数十粒を分けて納めた日供(にく)舎利塔が安置されています。

 礼堂の東側に経蔵と宝蔵画並んで建っています。高床式の寄棟・校倉(あぜくら造、本瓦葺の建物です。南側にある、小さいほうが経蔵です。唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉です。北側に建つ宝蔵は、唐招提寺創建時に建てられたものとされ、経蔵よりは一回り大きくなっています。

 講堂から北に進むと、松尾芭蕉句碑があります。元禄元年(1688)ここを訪ねて、鑑真和上坐像を拝した際に芭蕉が詠んだ「若葉して御目の雫拭はばや」の句が刻まれています。句碑の側に建つ開山堂には、平成25年に完成した、鑑真和上御身代わり像が祀られています。御影堂(みえいどう)に祀られている鑑真和上像は、特別公開日(年間数日程度)にしか拝観できないので、毎日参拝できるようにと製作されたそうです。「お身代わり」といっても、御影堂の和上像と同じく、奈良時代の脱活乾漆法(だっかつかんしつほう)により制作された精巧なもので、彩色も元の状態を再現しているそうです。

 境内の西には、戒壇(跡)があります。戒壇は、僧となるための授戒(戒律を授ける)が行われる神聖な場所です。創建時に築かれたとされていますが、中世に一旦廃止されました。その後再興されましたが、江戸時代末期の嘉永元年(1848)に放火により焼失してしまいました。その後は再建されず、3段の石壇のみが残っていましたが、昭和53年(1980)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が石段の上に築かれました。

 境内北東の、静かな苔むす木立の中に、鑑真和上の墓所があります。亡くなってから1,250年、参拝する人の途絶えることはないといいます。御廟(ごびょう)の前には、鑑真の故郷揚州から贈られた小さな白い花、瓊花(けいか)が植えられ、初夏にはその可憐な花が一面に咲くそうです。

 渡日の約束を守り続け、5度の失敗や失明という苦難も乗り越えて来日し、日本仏教の再興に尽力した鑑真の生きざまには尊敬の念を禁じ得ません。その信念と慈愛に満ちた優しさが、今も唐招提寺の境内に魂となって残り、人々の心を安らげているかのようです。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります


追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image