ー甲斐健の旅日記ー

元興寺/日本最古の寺院(法興寺)をその前身とする寺

 元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある寺院で、蘇我馬子が飛鳥の地に建立した日本最古の仏教寺院法興寺(ほうこうじ)がその前身です。法興寺は、和銅3年(710)の平城遷都の後に、平城京へ移転し元興寺と名を変えました。飛鳥の地にあった法興寺も残り、飛鳥寺と呼ばれるようになります。現在の元興寺は、西大寺の末寺で、真言律宗の寺院です。

 欽明天皇13年(552)、遠くインドで釈尊が開いた仏教が、中国、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。しかし、異国の新しい宗教をめぐって、国内の意見は真っ二つに分かれます。この新宗教を受容しようという崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏と、神の国に新しい宗教は不要とする排仏派の物部氏です。用明天皇2年(587)、両者はついに激突します。蘇我馬子が、甥の子であり娘婿でもある厩戸皇子(うまやどのみこ:後の聖徳太子)と共に軍を起こし、物部守屋を打ち破りました。この時、物部勢を攻めあぐねていた蘇我勢にあって、厩戸皇子は霊木を取り出し四天王像を彫り、髪をたぐりあげて「もし我をして敵に勝しめたまわば、かならず護世四王のために寺を興こしましょう」と宣言しました。すると、物部勢は総崩れとなり、蘇我勢は勝利したといいます(「日本書紀」より)。いずれにしても、崇仏派が勝利し、日本における仏教の本格的普及が始まったということです。

 この戦いの翌年、蘇我馬子は、甥の崇峻天皇が即位したのを機会に、飛鳥の地に仏教寺院の建立を始めます。これが、元興寺の前身である法興寺(飛鳥寺)です。この建立に際しては、百済国王から仏舎利(ぶっしゃり)が献じられたのをはじめ、朝鮮半島から多くの僧、寺工、瓦博士などが派遣されたといいます。この時造られた日本最古の瓦は、今も本堂や禅室の屋根の一部に使われています。同時に、三論宗法相宗の両学派が伝えられ、これが日本仏教の源流となったということです。

 和銅3年(710)、都が奈良に遷されたときは、法興寺はもともと蘇我氏の氏寺であり、蘇我入鹿が乙巳の変(いっしのへん:645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)に討たれたという経緯もあって、飛鳥の地に置き去りにされそうになったといわれます。しかし、遷都から8年たった養老2年(718)に、法興寺は平城京に遷され、名を元興寺と改めました。この名は、日本で最初に仏法が興隆した寺院という意味だそうです。蘇我氏の氏寺であった法興寺を、莫大な資金を投入して、しかも遷都から8年も経って、にわかに移建した理由についてはよく分かっておらず、興味深い問題とされます。ともあれ、元興寺は、東大寺や興福寺と並んで、平城京の大寺として隆盛を極めていきました。

 奈良時代においても元興寺は、三論宗と法相宗の道場として、東大寺や興福寺と並ぶ広大な伽藍(がらん)を持っていました。奈良時代の終わりごろに出た智光(ちこう)は、三論宗の学僧でしたが、晩年に浄土教を熱心に研究し、智光曼荼羅(まんだら)という浄土変相図を残し、智光が住んだ僧房は極楽坊と呼ばれ、智光曼荼羅が本尊として祀られるようになりました。

 さて、隆盛を極めていた元興寺でしたが、平安時代後期になると中央政府の権力が衰え。官寺の支えであった荘園や寺領からの収入が激減し、また天台宗や真言宗などの新しい勢力に押され、次第に衰退していきます。この危機を救ったのが、智光曼荼羅でした。この頃になると、末法思想が流行し、浄土信仰が高まりを見せ、智光曼荼羅が多くの人々の信仰の対象となっていきました。また、聖徳太子孝養像や弘法大師坐像などが祀られ、聖徳太子信仰や弘法大師真言信仰も合わせて、元興寺は庶民の寺院として復活を遂げていきます。

 ところが、室町時代の宝徳3年(1451)に起きた土一揆のため、元興寺は多くの堂宇(どうう)を失います。そのまま時を経て、明治以降は荒れ果てて、本堂(極楽坊)も「化け物屋敷」と呼ばれるほどだったといいます。これを復興させたのが、戦後になって住職となった辻村泰圓(つじむらたいえん)氏です。境内の整備や建物の修理が随時行われていきました。そして、本堂(極楽坊)、禅堂および寺宝を展示収蔵するための収蔵庫などが整備され、現在に至っています。

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 元興寺は、近鉄奈良駅で降りて、「ひがしむき商店街」「もちいどの商店街」「下御門商店街」を南下し、広いバス通りに出たら左(東)に曲がり少し歩いたところの右手にあります。

 東門は、東大寺から移築したもので、室町時代建立といわれます。この東門の脇の拝観受付から境内に入ると、まず本堂の極楽堂が目に飛び込んできます。鎌倉時代の寛元2年(1244)、旧僧房の東端部分を改造したもので寄棟造(よせむねづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)、正面が全面向拝(こうはい)の建物です。内陣周囲の柱や天井部分の一部には、奈良時代の部材が使われているそうです。また、屋根瓦の一部には、飛鳥時代の古瓦が使用されています。この古瓦は、上部が細く、下部が太くなっており、これを重ねて屋根が葺かれています(行基葺:ぎょうきぶき)。本堂は、正面が東を向いています。寄棟造の妻側(三角形の屋根の側)が正面になっていることや、正面の柱と柱の間が6つ(偶数個)で中央に柱が立っている点が珍しいとされます。内陣は板敷きで外陣は畳敷きとなっています。内陣には、本尊の智光曼荼羅、釈迦如来坐像、木造智光法師坐像などが安置されています。

 禅室は、僧侶が起居し学修した官大寺僧坊の遺構で、切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺の建物です。本堂の西に、軒を連ねて立っています。本堂と同様、鎌倉時代に改築されたものとされます。構造材は、奈良時代以前の古木が多く再利用されているそうです。年輪年代法で調査したところ、一部の古木は西暦582年に伐採したものだそうです。また、本堂同様、屋根の一部に古瓦が使われています。なお、禅室内部は非公開ですが、時々(2014年は4月7日~13日)、特別公開されています。

 境内北西にある小子坊は寛文3年(1663)に、極楽院庫裏(くり)として改築された建物です。この小子坊と禅室の間にある浮図田(ふとでん)は、石塔・石仏(浮図)類を田圃のごとく並べた中世の供養形態を示しています。毎年8月23,24日には、祈願を墨書した灯明皿に、菜種油を注ぎイグサの灯芯に点火して供養するそうです。また、浮図田の正面には75cm四方の庵治石(あじいし)でつくった仏足石(ぶっそくせき)が置かれています。

 本堂の北に、かえる石があります。このかえる石は、河内の川べりにあったものを豊臣秀吉がたいそう気に入り、大坂城内に移したものとされます。大坂城落城の際には、淀君の亡きがらがこの石の下に埋められたともいわれます。このかえる石には奇妙な力があって、かえる石から堀に入水する人々が続いたり、堀に身投げして行方の知れぬ人も必ずこの蛙石のもとに浮かんでくるとか、不思議な事件が続いたといいます。太平洋戦争時のどさくさで、しばらく行方不明になっていましたが、昭和31年に見つかり、元興寺に安置されるようになりました。現在は、有縁無縁のいっさいの霊を供養して、「極楽カエル」に生まれ変わっているそうです。「無事かえる」「福かえる」という願い成就のお守りとして、蛙石土鈴が販売されています。

 境内南にある収蔵庫では、多くの寺宝を拝観することが出来ます。主なものをあげると、阿弥陀如来坐像、不動明王立像、毘沙門天立像、聖徳太子十六歳孝養像、五重小塔などです。

 元興寺は、現在は小さな寺院ですが、日本最古の寺院の流れを汲む寺として随所に歴史を感じさせてくれる趣があります。遠い昔の飛鳥の地に思いをはせると、そこに日本人のルーツを見る思いがします。古代をしのぶ歴史ロマンを感じさせてくれる元興寺の境内でした。



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