ー甲斐健の旅日記ー

法隆寺/時代を超えて尊崇される聖徳太子が開いた寺院

 法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳宗の総本山の寺院です。別名では斑鳩寺(いかるがでら)と呼ばれています。

 法隆寺の創建は、金堂に安置されている薬師如来像の光背銘や、法隆寺伽藍縁起(がらんえんぎ)によると7世紀前半にさかのぼります。用明天皇(在位585~7)は、自らの病気の平癒を願って、仏像と寺院を創設することを願っていましたが、果たせぬまま亡くなってしまいました。そこで推古天皇15年(607)に、推古天皇と聖徳太子が、本尊の薬師如来を造り、寺院を創建しました。これが法隆寺の始まりとされます。この時造られた伽藍(がらん)は若草伽藍と呼ばれていますが、発掘調査の結果7世紀の後半ごろ(日本書紀の記述では西暦670年)焼失したことがわかっています。その後、7世紀後半から8世紀初めにかけて、伽藍が再建されたといいます。これが、現在見る、金堂や五重塔などが並び立つ西院伽藍(さいいんがらん)です。一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍(とういんがらん)は、天平10年(738)ごろ、行信僧都(ぎょうしんそうず)が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したといわれます。斑鳩宮は、推古天皇9年(601)に聖徳太子が斑鳩の地に住居として建てた宮殿です。皇極天皇2年(643)、蘇我入鹿が聖徳太子の子とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲った事件で、斑鳩宮は焼失していたのでした。

 その後の法隆寺は、延長3年(925)の火災により西院伽藍のうちの大講堂、鐘楼が焼失し、永享7年(1435)には南大門が焼失するなどの災害に遭いましたが、伽藍すべてを焼失するような火災には合わずに、現在に至っています。法隆寺は、飛鳥や天平時代の姿を現在に伝えてくれる貴重な文化財です。なお法隆寺は、昭和25年に法相宗から独立し、現在は聖徳宗の総本山となっています。

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 法隆寺へは、JR関西本線大和路線の法隆寺駅で降り、「法隆寺門前」行きのバスに乗り、「法隆寺門前」で下車します。徒歩ですと、JR法隆寺駅から少し西に歩き、県道5号線の広い道を北上します。国道25号線とぶつかったら左(西)に曲がり、法隆寺南の信号を右に曲がると、参道に入ります。徒歩ですと20分ぐらいです。

 まずは、南大門が私たちを迎えてくれます。南大門は、永享7年(1435)の火災で焼失し、現在の建物は永享10年(1438)に再建されたものです。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)三間一戸の一重門です。

 南大門をくぐって少し歩くと、回廊に囲まれた西院伽藍(さいいんがらん)の前に出ます。回廊の南側正面に中門(ちゅうもん)があり、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右で閉じています。回廊で囲まれた伽藍には、金堂と五重塔が建っています。また回廊の途中、北東に鐘楼、北西に経蔵があります。金堂、五重塔、中門は7世紀後半から8世紀にかけての再建ですが、世界最古の木造建造物といわれます。西院伽藍に見られる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗(くもと)、雲肘木(くもひじき)と呼ばれる曲線を多用している部材を多用していることや、卍くずしの高欄(手すり)とそれを支える「人」字形の束(つか)、あるいはエンタシス風の柱などに特色がみられる飛鳥様式といわれます。

 中門は、入母屋造、本瓦葺、四間二戸の二重問です。正面柱間の数が偶数のため、真ん中に柱が立つ形は、珍しいとされます。左右には金剛力士像(右に阿形、左に吽形)が立っています。8世紀初めの作とされ、日本最古のものといわれます。回廊へは、中門の西側にある拝観入口から入ります。

 金堂は、二重、入母屋造、本瓦葺の建物で、初層に裳階(もこし)が施されています。内部には、聖徳太子のために造られたとする法隆寺本尊の釈迦三尊像(飛鳥時代作)が安置されています。その左右には、聖徳太子の父である用明天皇のために造られたとされる薬師如来像(飛鳥時代作)と、母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られたとされる阿弥陀如来像(鎌倉時代:康勝作)が安置されています。さらに、それを守護するように四方に木像四天王立像(白鳳時代作)が置かれています。そのほか、木造吉祥天立像、毘沙門天立像(平安時代作)などが置かれています。天井には、天人と鳳凰が飛び交う彩色豊かな天蓋(てんがい)がつるされています。金堂内の壁画は、仏教絵画の代表作といわれましたが、昭和24年、壁画模写作業中の不注意による火災で黒焦げになり、現在はレプリカがはめ込まれているそうです。

 五重塔は、木造のものとしては世界最古といわれ、髙さは約31.5mです。京都の東寺や仁和寺にある五重塔と違って、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことが特徴です。五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分だそうです。初層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があります。東面は維摩居士(ゆいまこじ)文殊菩薩の問答の場面、北面は釈尊の入滅を悲しむ弟子の像、西面は仏舎利(ぶっしゃり)を分割する場面、南面は弥勒菩薩の説法の場面が表現されているといいます。塔の心柱は、地下3mまで打ち込まれており、その礎石周辺にから、ガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、銅製の容器からなる舎利容器が発見されました(大正15年:1926年)。この舎利容器は、現在も、元の場所に納められているそうです。

 大講堂は、僧侶が経典の講義や説教をしたり、法要を行うお堂です。延長3年(925年)に落雷によって焼失しましたが、正暦元年(990年)に再建されました。単層、入母屋造、本瓦葺の建物です。堂内には、本尊の薬師三尊像(平安時代)および四天王像が安置されています。経蔵は、経典を納める施設です。奈良時代の建築物とされます。現在は、天文や地理学を日本に伝えたとされる百済の僧、観勒僧正(かんろくそうじょう)像を安置しているそうです。内部は非公開です。鐘楼は、大講堂同様延長3年(925年)に落雷によって焼失し、その後再建されました。奈良時代前期製作の梵鐘が吊るされているといいます。通常非公開です。

 西院伽藍の西に建つ三経院(さんぎょういん)は、鎌倉時代の建立とされます。聖徳太子が、法華経、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまぎょう)の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏:さんぎょうぎしょ))にちなんで、僧侶が住む僧房である西室(にしむろ)の南端部を改造して建てられたといいます。毎年、5月16日~8月15日には、この三つの法典の講義が行われるそうです。堂内には、阿弥陀如来座像、持国天像、多聞天像が安置されています。三経院の北西に位置する西円堂(さいえんどう)は、奈良時代に橘夫人(藤原不比等夫人)が発願して行基(ぎょうき)が建立したと伝えられます。現在の建物は、鎌倉時代の再建です。堂内中央には、わが国最大級の薬師如来座像が安置されています。奈良時代に作製された乾漆像(かんしつぞう)です。また周囲には、十二神将立像、千手観音立像が安置されています。西円堂の東にある鐘楼には、時を知らせる鐘があります。現在も8時、10時、12時、2時、4時にその数だけ撞かれているそうです。

 西院伽藍の東側に、僧が生活する僧房である東室(ひがしむろ)がありますが、その南端部を改造して聖霊院(しょうれいいん)が建っています。鎌倉時代に聖徳太子を祀るために建立されたといいます。内部には三つの厨子(ずし)があり、中央に聖徳太子45歳の像、左右の厨子には太子の長子である山背大兄王ら眷属(けんぞく)の像(平安時代作)が祀られています。通常非公開ですが、太子の命日法要のお会式(おえしき:毎年3月22日)に御開帳されるそうです。

 東室の隣にある僧房である妻室(つまむろ)と、奈良時代建立の寺宝を保管する蔵である綱封蔵(こうふうぞう)の間の狭い道を北に入ると、右手に食堂(じきどう)が見えます。奈良時代の建立で、南側にある細殿と軒を接して建つ形は、「双堂」と呼ばれる奈良時代の建築様式だそうです。食堂の先に大宝蔵院があります。ここには見ごたえのある寺宝が数多く展示されています。

木造観音菩薩立像(百済観音)は飛鳥時代作で、瘦身で九頭身の抜群のスタイルを誇る菩薩像です。外国から来た多くの観光客も、この像の前に立ち止まり絶賛していました。玉虫厨子は、飛鳥時代推古天皇が所持していたとされる仏殿です。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がついたといわれます。現在は、その羽はごく一部に残るのみだそうです。厨子の扉や壁面の装飾画も色あせていますが、釈迦の前世物語である「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)、また「施身聞偈図」(せしんもんげず)は有名です。もう一つの観音菩薩立像(夢違観音)は、飛鳥時代後期(白鳳期)の作で、東院絵殿の本尊だったものです。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名があるといわれます。その他、阿弥陀三尊像及び橘夫人厨子、九面観音など、多くの寺宝が展示されています。

 東院伽藍は、東大門をくぐり東に歩いたところにあります。東大門は奈良時代に建立された八脚門です。珍しい三棟造の門です。東院伽藍は、聖徳太子が住んでいた斑鳩宮跡に、行信僧都が聖徳太子の遺徳をしのんで、天平11年(739)に建設したといわれます。その中心となる建物は夢殿(ゆめどの)です。現在は、中門を改造した礼堂(鎌倉時代建立)と回廊に囲まれた中に神秘的な雰囲気を漂わせて建っています。本瓦葺の八角円堂です。堂内中央の厨子には、聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音(ぐぜかんのん)像(飛鳥時代作)が安置されています。また、その周りには聖観音菩薩像(平安時代作)、行信僧都像(乾漆像:奈良時代作)が安置されています。

 夢殿回廊と北でつながっている建物は鎌倉時代の建立で、東側が舎利殿、西側が絵殿(えでん)と呼ばれています。舎利殿は、聖徳太子が2歳の時に東方に向かって合掌すると、掌中から仏舎利が出現したという言い伝えから、その仏舎利を安置するために建てられたといわれます。毎年、1月1日から三日間「舎利講」という法要が行われ、御開帳されるそうです。絵殿は、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのむねさだ)が延久元年(1069)に聖徳太子の生涯を描いた最古の「聖徳太子絵伝」の障子絵を飾るために建てられたといいます。現在この障子絵は東京国立博物館の所蔵となっており、絵殿には、江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が代わりに飾られているそうです。

 絵殿の北に位置する伝法堂(でんぽうどう)は、奈良時代の建立で、切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺の建物です。聖武天皇夫人・橘古奈可智(たちばなの こなかち)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重なものとされます。堂内の床は、当時としては珍しく板張りになっています。三組の乾漆造(かんしつぞう)阿弥陀三尊像(奈良時代作)、梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代)が安置されていますが、非公開です。また、伝法堂の側には東院鐘楼があります。鎌倉時代の建立とされます。袴腰と呼ばれる形式の建物です。内部には、奈良時代製作の梵鐘が吊るされ、舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍での法要の合図として撞かれています。

 法隆寺には多くの聖徳太子ゆかりの建物や寺宝があります。このことは、聖徳太子が時代を超えて多くの人々に尊崇され続けてきた証なのかもしれません。聖徳太子が実在したか否かという議論がありますが、少なくともそのモデルとなった人物はいただろうという一点では、疑問の余地はないといわれます。聖徳太子という人物像は、古代の人々の理想の姿であり、それが時代を超えて日本人に支持され続けてきたのかもしれません。「和をもって貴しとなす」、これが日本人の心の源流なのでしょうか。



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