ー甲斐健の旅日記ー

平等院/藤原氏の栄華を今に伝える寺院

 平等院(びょうどういん)は、宇治市にあり、正式名を朝日山平等院(あさひやま びょうどういん)といい、天台宗と浄土宗を兼ねて、特定の宗派に属さない単立の仏教寺院です。

 宇治周辺は、平安時代には貴族の別荘が多くあり、嵯峨天皇の皇子源融(みなもとのとおる:源氏物語の主人公光源氏のモデルといわれる)も、この地に別荘宇治院を営んでいました。これが、宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)に、摂政藤原道長の別荘宇治殿となりました。そして道長の死後、その子頼道が永承7年(1052)に寺院に改め、天台宗平等院としたのが始まりです。開基は藤原頼通、開山は明尊(みょうそん:書家で名高い小野道風の孫)です。

 平安時代の後期には、末法思想(まっぽうしそう)が広く信じられるようになりました。末法思想とは、釈迦が入滅してから2,000年たつと、仏法が廃れるという思想です。そして永承7年(1052)がまさに末法元年と日本では言われていました(計算が合わないのですが、そういわれていたようです)。多くの人々は、来世での救済を求め、阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えることにより、死後極楽浄土に迎えられ悟りをひらくことが出来ると信じていました(浄土教)。そして、阿弥陀仏や極楽浄土の有り様をできるだけ観想(思い浮かべる)することにより、念仏が効果的に行えるという考え(観想念仏)に至りました。そのため、当時の貴族たちは、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営していったのです。この平等院鳳凰堂は、その代表的な建物でした。阿字池(あじがいけ)の中島に建てられていることで、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面に映しています。まさに、藤原氏の栄華を象徴する建物ともいえるかもしれません。

 平等院のその後ですが、治承4年(1180)打倒平氏を掲げた以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第3皇子)と源頼政が平知盛(とももり:清盛の四男)と、この地で戦い、頼政は平等院内で自刃します。また、建武年間(1334~38)には、楠木正成が、戦乱のさなか平等院一帯を焼き払うという事件もありました。さらに、応仁の乱でも大きな被害を受けました。しかし、阿弥陀堂(鳳凰堂)だけは罹災を免れ現在に至っています。なお、鳳凰堂は、平成24年9月から解体修理が行われていましたが、ほぼ終了し、平成26年4月から拝観が再開されています(尾廊部分は、平成26年10月より再開予定)。

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 平等院へは、京阪宇治線宇治駅からは、宇治橋を渡って、宇治川沿いに南東へ歩くと北門に出ます。JR奈良線宇治駅からは、北東に進み、宇治川沿いのT字路を右に曲がり少し歩くと、北門に出ます。

 北門を入って少し行くと、源頼政の辞世の歌碑が立つ場所があります。「扇の芝」と呼ばれています。頼政は、以仁王の令旨(りょうじ)を奉じて、平家打倒を掲げ戦いましたが、武運つたなく敗れ、この地で辞世の歌を詠んで自刃したといわれます。頼政の墓は池の西側にあります。また、すぐ近くには観音堂があります。鎌倉時代前期に、本堂跡に建てられたものといわれます。二天像不動明王が祀られています(非公開)。

 さらに先に進むと、お目当ての鳳凰堂(阿弥陀堂)が見えてきます。池の中島に建つその姿は、まさしく極楽浄土を彷彿とさせる姿です。鳳凰堂という呼び名は、江戸時代に定着したようで、屋根に鳳凰が飾られていることと、横に広がる建物自体が、あたかも鳳凰が羽を広げている姿に似ていることからそう呼ばれたといわれます。鳳凰堂は、中堂、左右の翼廊、尾廊の四棟に分かれます。

 中堂は、一重入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)裳階(もこし)が施されています。特に屋根の四隅の反りが大きいのが特徴的です。中堂内部の須弥壇(しゅみだん)には、平等院本尊の丈六阿弥陀如来座像が安置されています。天喜元年(1053)に、仏師定朝(じょうちょう)によって造られたとされ寄木造の完成形といわれています。中堂の正面中央部には、小さな丸い格子窓があります。阿字池を挟んだ対岸から、この窓を通して阿弥陀仏のお顔を見ることが出来ます。この対岸からは、あたかも西方の極楽浄土に向かって阿弥陀仏を拝む形となります。中堂の壁面には、雲中供養菩薩像という雲に乗った52体の小仏像がかけられています。大きさは40~90cm程度で、檜の一本彫りだそうです。この仏像群も、定朝の工房で天喜元年(1053)に製作されたといわれます。各像はいずれも頭上に輪光(りんこう)を負い、僧形のものは合掌し、菩薩形のものは琵琶や琴などの楽器を演奏したりと様々な姿を見せてくれています。また、壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれ、今は色あせていますが、天井や壁には極彩色の文様が描かれていたといいます。また夜になると、天井につるされた66個の銅製鏡に灯明の明かりが反射し、その反射光がゆらゆら揺れる様子は、とても幻想的なものだといいます。これらすべての演出が、当時の人々には地上に現れた極楽浄土の世界に見えたのでしょう。なお、中堂内部の拝観は、北門近くの受付で予約します。時間になると係員が案内して説明もしてくれます。私が訪れたのは5月の平日の木曜日でしたが、1時間30分待ちでした。

 左右の翼廊は、二階建て切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺でL字型の建物の一部分に、方三間宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺きの三階部分が載っている構造です。しかしこの三階部分には昇ることが出来ず、また二階部分の通路も、人が立って歩けないほどの狭さであることから、翼廊は実用的なものではなく、様式美のための建物だったという見方もあります。また尾廊は、中堂の裏側に接続していて、単層切妻造、本瓦葺で、阿字池をまたぐ細長い建物です。

 鳳凰堂を後にして池の南側まで歩くと、平成13年(2001)に開館した鳳翔館があります。平等院に関わる絵画、彫刻、工芸品が数多く展示されています。中でも目を引くのは、中堂の鳳凰、雲中供養菩薩像、梵鐘です。一対の鳳凰は、平安時代(11世紀)の作で、中堂屋根の南北両端に飾られていましたが、大気汚染による錆害から守るため、取り外され鳳翔館に保管されています。中堂屋根には、模造品が飾られています。阿弥陀堂が鳳凰堂と呼ばれる所以となったものです。梵鐘も、錆害から守るためにはずされ、鳳翔館に保管されています。現在、鐘楼には復元模造品がかけられています。この梵鐘は、平安時代に造られたもので、「姿の平等院鐘」といわれ、「声の園城寺鐘」、「勢の東大寺鐘」と共に、天下の三名鐘と呼ばれています。また、雲中供養菩薩像は、全52体のうち26体が鳳翔館に展示され、間近に見ることが出来ます。この他に、観音菩薩立像、帝釈天(たいしゃくてん)像、地蔵菩薩像、平等院古図、発掘出土品など見どころ満載です。

 阿字池の西側には、平等院の塔頭(たっちゅう)が並んでいます。浄土院は、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間(1492~1501年)に平等院修復のために開創した寺といわれます。現在は、平等院関連の文化財の管理をしているそうです。最勝院は、天台宗寺門派の寺です。承応3年(1654)に開かれ、しばらく疎遠になっていた天台宗が平等院に復帰しました。本堂の不動堂の本尊は不動明王です。

 藤原氏の栄華を今に伝える鳳凰堂の建物が私は大好きです。しかし、これの建設のために莫大な資金を投入したであろう藤原氏の贅沢の裏で、貧困に苦しんでいた庶民がいた事を思うと、いたたまれない気持ちにもなります。



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