ー甲斐健の旅日記ー

大覚寺/南北朝分裂の歴史舞台となった寺院

 大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派の総本山です。正式名は「旧嵯峨御所大覚寺門跡(もんぜき)」と称し、山号を嵯峨山(さがさん)といいます。開基は嵯峨天皇(786~842年)です。

 現在大覚寺のあるこの地には、平安時代初期に嵯峨天皇が離宮を営んでいました。また当時から、嵯峨天皇の信任厚かった弘法大師空海が離宮内に堂を建て、修行道場にもなっていました。貞観18年(876)、嵯峨天皇の皇女で淳和天皇の皇后である正子内親王がこの離宮を寺院に改め、嵯峨天皇の孫の恒貞(つねさだ)親王を初代住職(開山)として開創したのが、大覚寺の始まりとされます。その後鎌倉時代になると、後嵯峨上皇が第21世住持となり、続いて亀山上皇、後宇多上皇が次々と入寺して、門跡(もんぜき)寺院としての格式を高めていきました。特に御宇多上皇は、伽藍(がらん)の整備に力を尽くすと共に、大覚寺を仙洞御所(せんとうごしょ)としたことから、大覚寺統(南朝)が起こり持明院統(北朝)との皇位継承をめぐる争いが起きるきっかけとなりました。

 しかし、この対立のそもそもの原因をつくったのは、後嵯峨上皇だったといわれます。上皇には二人の皇子がいました。兄が久仁、弟が恒仁といいます。後嵯峨上皇の後は兄の久仁が皇位を継ぎ後深草天皇となりました。しかし上皇は、任期途中で兄から弟に譲位させ、亀山天皇とします。さらに亀山天皇に子が出来ると、この子を皇太子としてしまいます。兄の後深草天皇にも男子があったのですが無視された形です。結局、亀山天皇の後にはその子の後宇多天皇が即位してしまいます。後深草上皇が怒ったのも無理はありません。後嵯峨上皇の亀山天皇への偏愛が対立を呼んだといわれます。亀山・後宇多上皇の流れが大覚寺統、後深草上皇の流れが持明院統と称して、皇室の中での対立が深まっていきました。これがやがて、足利尊氏と後醍醐天皇の対立により、南北朝分裂という不幸な事態へとつながってていくのです。実際、後醍醐天皇と対立した足利尊氏は、持明院統の光厳天皇を即位させます(北朝)。これに反発した大覚寺統の後醍醐天皇は、吉野に逃れ自分が正統な皇位継承者だと宣言します(南朝)。この南北朝対立は、元中9年(1392)、室町三代将軍足利義満の仲介で和解するのですが、その際、ここ大覚寺で南朝側から北朝側へ「三種の神器」の引き渡しが行われたといいます。この和解後、大覚寺は室町幕府の保護下に入り、義満の子の大覚寺義昭(ぎしょう)が入寺することになりました。

 このように隆盛をきわめた大覚寺でしたが、応仁の乱の戦火で伽藍(がらん)を悉く焼失してしまい、荒廃します。その後、織田信長や豊臣秀吉の寺領の寄進や、徳川家康の援助により、現在見る姿に復興しました。

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 大覚寺へは、京都駅から市バス28系統に乗って、「大覚寺」で降ります。表門は、江戸初期の建築とされ、切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の四脚門です。これをくぐって式台玄関に至る道に、嵯峨菊が咲いていました(11月)。まっすぐな茎に茶筅(ちゃせん)の先のような花を咲かせる独特な菊です。毎年11月には、嵯峨菊展が開催されています。

 式台玄関は、江戸時代初期に、東福門院女御(にょうご)御所、長局の一部を移築したものとされます。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)で、正面に銅板葺(どうばんぶき)唐破風(からはふ)が設けられています。妻飾りは木連格子(きづれこうし)懸魚(げぎょ)附きです。玄関から中に入った松の間には、狩野永徳筆といわれる「松に山鳥図」の金碧画(きんぺきが)と後宇多法皇が実際使用されたという御輿が置かれています。

 松の間から奥へ進むと、宸殿(しんでん)に入ります。江戸時代(17世紀後半)に、徳川二代将軍秀忠の娘東福門院和子が使用していた女御御所の宸殿を移築したものとされます。一重入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)の建物です。宸殿では、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの襖絵(いずれも複製画)が鑑賞できます。また、一面白砂が敷かれた宸殿の前庭には、京都御所の宸殿の様式にのっとり、右近の椿、左近の梅(桜ではなく梅がもともとの形)が配されています。また宸殿から前庭を通して、勅使門(ちょくしもん)を臨むことが出来ます。勅使門は、嘉永年間(1848~54)に再建されたもので、切妻造、銅瓦葺(どうがわらぶき)の四脚門です。正面と背面に軒唐破風(のきからはふ)が付けられています。

   

 宸殿から正寝殿や御影堂(みえいどう)、五大堂を結ぶ回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光に見立てて「村雨の廊下」と呼ばれます。天井は刀や槍が振り上げられないように低くなっていて、床は鴬張りとなっており、侵入者(外敵)に対する防御対策も、しっかり採られています。

 宸殿の北東にある御影堂は、大正天皇即位に際して建てられた饗宴殿を大正14年に移築したものです。一重入母屋造、桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。内陣左右には、嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒貞親王などの尊像が安置されています。

 御影堂の南東に位置する五大堂は、大覚寺の本堂です。もともとは嵯峨天皇が、天下泰平、五穀豊穣を願って建てたとされます。現在の建物は、江戸時代中期の天明年間(1582~88)に再建されたものです。一重入母屋造、桟瓦葺の建物です。内部には、大覚寺の本尊である不動明王(ふどうみょうおう)を中心とする五大明王が安置されています。もともと五大堂は、伽藍の中心位置にある石舞台の場所にありましたが、大正14年に御影堂が移築されたとき、勅使門と御影堂の間にあった五大堂が東の大沢池のほとりに移されたとのことです。五大堂の東側には、大沢池に張り出すようにぬれ縁があり、観月台と呼ばれています。ここから大沢池を広く眺望できます。

 宸殿の北西に位置する正寝殿(しょうしんでん)は、桃山時代の建築とされ、一重入母屋造、檜皮葺の建物です。12の部屋を持つ書院造で、東側の「御冠の間」には玉座があり、後宇多法皇が院政を行った部屋といわれています(別名「上段の間」)。南北朝講和会議は、ここで行われたそうです。正寝殿では、狩野山楽らの襖絵が鑑賞できます。また、狭屋の間には、江戸時代の絵師渡辺始興(しこう)が描いたとされる、「野兎図」があります。草蔭に遊ぶ愛らしい4羽の兎が杉の板の上に描かれています。

 正寝殿の北に朱塗り鮮やかな霊明殿があります。第30代総理大臣斉藤実(まこと)が、東京に建てた日仏寺の本堂を、昭和33年に移築したものとされます。正面に一間の向拝(こうはい)がついています。本尊の阿弥陀如来を祀っています。

 霊明殿の東、御影堂の北に、勅封心経殿(ちょくふう しんぎょうでん)が建っています。 大正14年に、法隆寺の夢殿を模して再建されました。鉄筋コンクリート造りの八角堂、銅板葺(どうばんぶき)の建物です。殿内には嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封心経(天皇の写経で特別な封印が施されたもの)を奉安(ほうあん)しています。大覚寺の開基である嵯峨天皇は、弘仁9年(818)の春、国内に疫病が蔓延した時、弘法大師の上奏(じょうそう)により、般若心経(はんにゃしんぎう)一巻を浄書(じょうしょ:きれいに書き直す)したところ、たちどころに疫病がおさまったという言い伝えに因み、その写経本が安置されているのだそうです。また、薬師如来(やくしにょらい)立像も安置されています。

 一旦表門から外に出て。東側にある入口から、現存する日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園:周囲約1.2km)である大沢池を周遊する遊歩道に入ります。大沢池は、中国の洞庭湖(どうていこ)を模して、嵯峨天皇が築造したものといわれ、平安時代前期の名残をとどめた、日本最古の庭池といわれます。

 大沢池の北西に、閼伽井(あかい)という、入母屋造、䙁瓦葺のお堂があります。今から1,200年前、大覚寺が嵯峨天皇の離宮であったころに、天皇の命により弘法大師空海が掘ったものといわれます。閼伽とは、仏教において仏前などに供養される水のことです。通常非公開ですが、特別公開の日には、この閼伽水で手を清め、災いを落として願い事を祈念することが出来ます。

 閼伽井のすぐ北にに、大日堂と聖天堂という小さなお堂があります。聖天堂は、宝形造(ほうぎょうづくり)、䙁瓦葺のお堂で、内部には、歓喜自在天(かんぎじざいてん)聖観音菩薩像が祀られています。

 聖天堂の東に位置するのは、朱塗り鮮やかな心経宝塔(しんぎょうほうとう)です。昭和42年、嵯峨天皇の心経写経1,150年を記念して建立された鉄筋コンクリートの多宝塔です。前述したように、弘仁9年(818)の春、国内に疫病が蔓延した時、嵯峨天皇が弘法大師の上奏(じょうそう)により、般若心経(はんにゃしんぎう)一巻を浄書したところ、たちどころに疫病がおさまったという言い伝えに因んだ建物です。宝塔内部には、弘法大師像が祀られています。

 大沢池の北東にある名古曽の滝跡(なこそのたきあと)は、離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭したものと伝えられます。平成6年からの発掘調査によって、中世の遣水(やりみず)が発見され、現在の様相に復元されたといいます。現在京都にある、最古の庭園の遺構とされます。

 大沢池の北に浮かぶ天神島には、大覚寺建立の上奏文を起草したとされる菅原道真公を祀る社があります。大覚寺第一世の恒貞親王は、順当にいけば天皇になるはずでした。しかし、藤原一族との政争(承和の変)により、皇太子を廃され命すら危うくなったといいます。この時親王の母(淳和天皇の后)の正子内親王が、我が子を守るために、嵯峨天皇の離宮を寺院とし、恒貞親王を入寺させようとしました。それに尽力したのが菅原道真だったというわけです。道真は寺院創設の上奏文を起草し、大覚寺創建のために奔走したといいます。その菅原道真公を祀る社の側には、「椎の御神木」と呼ばれる大木が植えられています。

 天神島の東には、菊ヶ島と庭湖石(ていこせき)があります。菊ヶ島には、舟遊びに興じた嵯峨天皇が、この島に咲いていた菊の花を数本折り、殿上で挿したのが、生け花嵯峨御流(さがごりゅう)の始まりという言い伝えがあります。また、庭湖石は、平安朝の宮廷絵師であった巨勢金岡(こせのかなおか)が配置した石といわれ、天神島、菊ヶ島、庭湖石という二島一石の配置は、華道嵯峨御流の規範になっているそうです。

 藤原氏によって皇位継承の道を絶たれた第一世恒貞親王の苦悩、その親王を救うために奔走した菅原道真、さらには南北朝対立の震源地となった大覚寺は、歴史の荒波にもまれながら、生き続けてきたのかもしれません。その中でも、門跡寺院として最高位の格式を維持し続け、現在に至っています。歴史の重みを感じさせる、大覚寺境内と名勝地大沢池でした。



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追加情報

明智陣屋
▲明智陣屋
明智光秀が城主だった亀山城から1871年に移築されたといわれる。
嵯峨菊
▲嵯峨菊
嵯峨菊
▲嵯峨菊
嵯峨菊
▲嵯峨菊
牡丹図
▲牡丹図
牡丹図
▲牡丹図
牡丹図
▲牡丹図
牡丹図
▲牡丹図
正寝殿
▲正寝殿
松の絵
松の間の襖絵
▲松の間襖絵
松の間の襖絵
▲松の間襖絵
野兎図
▲野兎図
野兎図
▲野兎図
大覚寺 大沢池
大沢池
▲大沢池
茶筅塚
▲茶筅塚
護摩堂
▲護摩堂
石仏
▲石仏
平安時代後期の作。光背様があり、中央の7体は、右より薬師、釈迦、大日、阿弥陀、観音、弥勒両菩薩などが並ぶ。花崗岩製。
石仏
▲石仏
嵯峨碑
▲嵯峨碑
椎の御神木と社
▲椎の御神木と社
庭湖石
▲庭湖石
菊が島
▲菊ヶ島


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