ー甲斐健の旅日記ー

大徳寺:室町幕府の統制を拒み独自の禅風を守り通した寺院

 大徳寺は、京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山です。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。平安時代初期、この一帯は天皇や貴人たちの遊猟地であったといいます。また紫野という地名の通り、紫草という貴重な染材が多く群生する地であったともいいます。

 この紫野をこよなく愛された淳和天皇(在位823~33年)は、この地に雲林亭(うりんてい:紫野庵)という離宮を営んでいました。そして、仁明天皇(在位833~50年)の子常康親王が父の崩御を受けて、この離宮を寺院に改め雲林院としました。その後、雲林院は衰退していきましたが、14世紀になって、播磨の守護赤松則村(後醍醐天皇の建武の新政や足利尊氏の室町幕府成立に多大な貢献をした武将)の甥である宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)がこの地に一宇(いちう)を建てました(1315~19年ごろ)。これが大徳寺の始まりとされます。

 宗峰妙超(大燈国師)は、弘安5年(1282)播磨に生まれ、11歳で出家して天台および禅を学びました。特に厳しい修行と戒めを説いたといいます。また、南都北嶺(奈良の興福寺、比叡山延暦寺)の僧らと宗論をかわしことごとく論破するほどの学識と理論を持っていたといいます。正中2年(1324)には、花園上皇の院宣(いんぜん)により、大徳寺は祈願所となり、次第に伽藍(がらん)が整っていきました。大徳寺の開基は宗峰妙超です。

 皇室の厚い信仰を得た大徳寺はその後隆盛をきわめ、後醍醐天皇の時代には、南禅寺と共に京都五山の一位になりました。しかし、後醍醐天皇の建武の新政があっけなく崩壊し、足利幕府の時代になると、大徳寺の評価は京都五山十刹のうち十刹の九位にまで落とされます。このため、大徳寺は幕府の庇護や統制下にある立場(叢林:そうりん)から脱却して、独自の禅風を守り野に下ることになりました。このような寺院を林下(りんか)と呼びます。

 独自の禅風を貫いていた大徳寺でしたが、享徳2年(1453)の大火や応仁の乱(1467年)の戦火で諸堂悉く焼失して、伽藍は荒廃します。この危機を救ったのが、一休宗純でした。あのトンチで有名な「一休さん」です。一休宗純は、後小松天皇の子といわれていますが、母親が南朝系(幕府に対抗する勢力)であったため、在野に下り修行僧として各地を転々としていました。しかし、堺の豪商たちや当代一級の文化人たち(茶道の祖の村田珠光、連歌師の柴屋軒宗長、猿楽の金春禅竹など)の多くが一休に帰依(きえ)するようになり、その名声は高まります。そうした中、一休の願いに共感した堺の豪商尾和宗臨らの尽力により、大徳寺再興のための資金が集まり、大徳寺は復興を遂げていったといいます。一休は、大徳寺の住持となりますが、寺には住まず在野にいて多くの人々を教え導いていったといわれています。 この頃の大徳寺は、貴族や大名だけではなく、商人や文化人の信仰をも集めていたといいます。特に、わび茶を創始した村田珠光が一休宗純に帰依した頃から、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深くなり、多くの茶人(千利休、小堀遠州ら)とも縁が深くなっていきます。このため、京の町では「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と呼ばれたほどでした。 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を自刃に追いやった明智光秀を、山崎の戦で滅ぼした羽柴秀吉は、天下取りの足掛かりとするため、大徳寺で壮大な信長の葬儀を取り仕切ります。信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝を名目上の喪主とし、香木で彫らせた信長の木像を棺に入れ荼毘に付しました。その時の香木の甘い香りは、京中に漂っていったといいます。まさに信長の後継者は自分(秀吉)だということを、多くの人々に知らしめたかったのかもしれません。この時彫られた信長の木像は二体あり、残りの一体は、現在も大徳寺塔頭(たっちゅう)の総見院に安置されています。

 秀吉の茶道の師匠であった千利休も、大徳寺にゆかりのある茶人でした。大徳寺の三門は、応仁の乱の戦火で焼失した後、享禄2年(1529)に再建されましたが単層でした。当時、頻繁に大徳寺に参禅していた利休は、信長葬儀の7年後の天正17年(1589)に三門の上層部を造営するために寄進を行いました。これに感謝した寺社側のすすめにより、利休は自身の木像を造り楼上に安置しました。この木像は雪駄履きでした。そしてこのことが、とんでもない事件を引き起こします。この三門は「金毛閣」と呼ばれます。大徳寺を参拝する人は、やんごとなき人も、大名や高僧も、秀吉ですら、この三門を通ります。「その楼上に自分の雪駄履きの木像を置くなど、とんでもない慢心である」という理屈で、秀吉の怒りをかいます。結局、この事件をきっかけにして利休は切腹を命じられ、69年の生涯を閉じることになったといいます。

 江戸時代になって、元大徳寺住持の沢庵宗彭(たくあん そうほう)が、紫衣事件(しえじけん)で流罪の罪を受け、大徳寺も幕府に規制、圧力を受けましたが、二代将軍秀忠の死後許され、さらに三代将軍家光が沢庵に帰依したことから、幕府との関係も良好になり、寺勢も回復し今日に至っています。

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 大徳寺へは、京都駅から市バス205,206系統に乗り、「大徳寺前」で降りるとすぐです。バス停交差点を少し北に行く(旧大宮通)と左手に駐車場がありその先に総門があります。またはバス通り(北大路通り)沿いにある南門から入るとひっそりとした松並木と築地塀のある参道があります。喧騒を離れ、静かで落ち着いた雰囲気で境内に入ることができます。

 総門を入ってすぐのところに、勅使門が見えます。切妻造(きりつまづくり)檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門で、前後に軒唐破風(のきからはふ)が施されています。慶長年間(1596~1615)に建立された京都御所の南門を、後水尾天皇より下賜(かし)され、寛永17年(1640)に移築されたとされます。

 その先には、三門、仏殿本堂)、法堂(はっとう)庫裏(くり)方丈が南北に並んでいますが、柵が設けてあり、ただ外観を眺めるだけとなります。大徳寺は、境内を散策するのは自由ですが、他の多くの寺院のように内部に入り拝観することは通常は許していません。権力におもねることはせず、独自の禅風を守り通した「林下」として俗化を拒んでいるということなのでしょうか。諸堂の概要について簡単に記しておきます。三門は、応仁の乱で焼失した後、享禄2年(1529に連歌師の宗長の寄進で一階部分が再建され、天正17年(1589)に千利休によって上層部分が造られ、金毛閣と名付けられました。楼上の雪駄を履いた利休の木像が秀吉の怒りをかい切腹の原因となったことはあまりにも有名です(前述)。仏殿は、創建時の建物が応仁の乱で焼失し、一休宗純の手で再建されましたがそれも焼失し、現在の建物は、寛文5年(1665)に、京の豪商 那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられたものとされます。一重入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、裳階(もこし)が施されている禅宗様建築です。法堂は、応仁の乱での焼失後、再建された仏殿が法堂を兼ねていましたが、寛永13年(1636)、小田原城主稲葉正勝の子の正則によって再建されました。一重、入母屋造、本瓦葺で、裳階が施されている禅宗様建築です。堂内の天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作だそうです。禅宗寺院の法堂によくみられる、仏法を保護するという龍の図です。また龍は「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられてきました。方丈は、寛永12年(1635)の建築とされ、日本様式の、入母屋造、桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。なお、毎年9月から10月にかけて、特別拝観として、方丈、方丈庭園、聚楽第の遺構である唐門および法堂内の雲龍図が公開されています(2014年は9/20~10/11)。

 足利幕府の庇護や統制を拒否して、独自の禅風を守り抜いた大徳寺は、多くの戦国武将の支持を得ていったとされます。それにより、境内の多くの塔頭が、戦国武将やその関係者らの手によって創建されています。明日の命もわからない戦国の世の人々に、大徳寺が継承してきた厳しい禅風が共感をもって受け入れられていったことの証でしょうか。その厳しさは、今も境内に満ち満ちているかのようです。観光気分を少しの間忘れて、戦国時代に生きた人々の思いをしのぶ時間がここにはあります。

 大徳寺には塔頭22と別院2がありますが、通常は一部の塔頭のみが公開されているだけです(2014年は龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院)。しかし春と秋の特別公開において、さらに一部の塔頭寺院が公開されています。以下にいくつかの塔頭寺院の紹介をします。

総見院

 総見院は、天正11年(1583)、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために、古渓宗陳(こけいそうちん)を開山として建立した寺院です。寺の名前は、信長の法名(総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀)からとったものです。正門を入ってすぐ正面に、信長の葬儀を行ったとされる本堂が建っています。かつてあった禅堂を、昭和3年に改修・復興した建物です。堂内には、木造の織田信長坐像が安置されています。高さ115cm、衣冠帯刀の坐像で、信長の等身大(信長の身長は160cmといわれる)の像です。天正11年(1582)、運慶・湛慶の流れを汲む仏師・康清(やすきよ)の作といわれます。本堂西にある掘り抜き井戸は、加藤清正が朝鮮から持ち帰った朝鮮石を彫りぬいた井戸です。今なお井戸水はこんこんとわき出ており、毎朝のお供えの水に利用されているそうです。ところで清正が何故こんなに重い朝鮮石を持ち帰ったかというと、あまりにも戦死者が多くて船が軽くなりバランスがとりにくくなったため、重しとしてこの石を乗せて日本に引き上げてきたからだといわれます。

 境内西には、信長一族の墓石(7基)があります。またその左奥には、正室・帰蝶(濃姫)、側室のお鍋の方の墓碑があります。本堂横にある侘助(わびすけ)椿は、秀吉が千利休から譲り受けて植えたといわれ、秀吉がこよなく愛した椿だといいます。樹齢400年で日本最古の侘助椿だそうです。三本に枝分かれした先に紅白の花が咲き、茶人に珍重される花だといわれます。また本堂の前にある茶筅(ちゃせん)塚は、文字通りお茶をたてるときに使う茶筅の供養塔です。花立が茶筅の形をしています。毎年4月28日には、茶筅供養が行われるそうです。

 総見院の茶室は三席あります。信長を追悼するために開かれた大徳寺大茶会(天正13年;1585年)では、ここ総見院で、秀吉が自ら茶をたてたといわれます。一番北にある寿安席(じゅあんせき)は、尾道出身の実業家山口玄洞(げんどう:1863~1937)が寄進した8畳の茶室で、一休禅師の掛け軸がかけられています。龐庵(ほうあん)には、表千家・而妙斉(じみょうさい)の筆による扁額がかかっています。3畳の茶室です。香雲軒(こううんけん)には、8畳の茶室と、書院(20畳と12畳)があります。

 創建当時のまま残っている建造物が、正門・土塀(正門から西側部分)と鐘楼です。総見院の土塀は、「親子塀」と呼ばれ、塀の内部にもう一つ塀が設けられている二重構造となっている珍しいものです。その理由は、塀を強固にするためだとか、内部の空洞部分に非常時に武士が隠れるためだったともいわれます。また正門の外に立つ鐘楼は、信長の家臣・堀久太郎秀政の寄進によるもので、鐘の銘文は、開山・古渓和尚の作とされます。

高桐院

 高桐院は、慶長6年(または7年:1601または1602年)に、細川忠興(三斎:さんさい)が父親の藤孝(幽斎:ゆうさい)の菩提を弔うために建立した寺院です。開基は細川忠興、開山は、忠興の叔父の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)です。正保2年(1645)に83歳でなくなった忠興が、遺言によりその遺歯を高桐院に埋葬させてから、細川家の菩提寺となったといいます。

 表門を入ると、石敷きの参道が書院まで続いています。道の両側には竹の柵があり、その外には苔地が広がっています。道の両側に植えられた楓の木が陽の光を遮り、幽玄な雰囲気を漂わせています。書院(意北軒)は、聚楽第にあったという千利休の邸宅を、江戸時代初期に移築したものといわれます。利休切腹の後、取り壊されそうになったのですが、玉甫が一旦大徳寺にこれを移し、その後高桐院に移築したといわれます。客殿(本堂)は、細川家16代当主細川護立(もりたつ:1883~1970年)が再建しました。客殿の南庭は簡素ながら趣のある庭として、「楓の庭」と呼ばれます。苔地の中に楓が植えられており、背景には竹林があります。また、庭の中央には鎌倉時代の石灯籠が据えられています。

 「楓の庭」の西にある石灯籠は、細川忠興とその妻ガラシャ夫人の墓といわれています。この石灯籠は、千利休秘蔵の天下一の石灯籠でした。ところが、秀吉がそれを所望したため、利休は灯籠の笠の部分をわざと欠いて、断ったといういわくつきの灯籠です。利休切腹後、形見として忠興がもらい受けたといいます。また、境内の奥には、細川家代々の墓所があります。(初代幽斎、三代忠利から十二代斎護まで)。

龍源院

 龍源院は、大徳寺南派の本院です。対する北派の本院は大仙院(同じく大徳寺の塔頭)です。享徳2年(1453)の火災の後、大徳寺の再建に尽力したのが養叟宗頤(ようそう そうい)でした。その法孫に古岳宗亘(こがくそうこう)と東渓宗牧(とうけいそうぼく)がいました。そして、古岳系を北派、東渓系を南派と呼ぶようになったといいます。龍源院は、南派の祖の東渓宗牧を開山として、永正年間(1504~21年)に、能登の畠山義元、豊後の大友義長、周防の大内義興らが創建した寺院です。

 龍源院の表門と方丈(本堂)は、創建当時の建物です。表門は、切妻造(きりつまづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門です。また方丈は、永正14年(1517)頃に建立されたとされ、一重入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の建物です。日本最古の方丈建築物といわれ、禅宗方丈建築の様式を完全に残した唯一の遺構とされます。南側中央の室中(しっちゅう)の間は、住持が禅を説き、問答、儀式法要などを行う部屋です。その奥の真前(しんぜん)の間には、祖師、開祖が祀られています。室中の間の龍の襖絵は、桃山~江戸初期の作といわれます。また方丈内部には、日本最古といわれる種子島銃や、豊臣秀吉と徳川家康が対局したとされる四方蒔絵(まきえ)の碁盤などが展示されています。方丈へと至る玄関(唐門)は、切妻造、檜皮葺で、本堂と同時期に建立されたとされます。方丈の北西に位置する開祖堂は、開祖・東渓禅師の塔所(たっしょ:遺骨や遺灰を納め祀る場所)です。一重入母屋造、檜皮葺きの建物で、昭和になって建立されました。

 龍源院の庭園は、方丈周囲、書院前および開祖堂前に全部で五つあります。方丈の北にあるのが、「龍吟庭」です。室町時代の三尊石組からなる枯山水式庭園で、相阿弥の作とされます。青々とした杉苔が洋々とした大海原を現し、石組みが陸地を現しています。中央に髙く突出する奇岩が須弥山(しゅみせん:仏教やヒンドゥー教で、世界の中心にあると考えられる想像上の山)で、その前にある丸い石は遥拝石といい、だれもが具えもっているという悟りの極致に一歩でも前進し、近づこうとする信心を現しているとされます。方丈の東にあるのが、「東滴壺(とうこてき)」です。昭和35年に鍋島岳生(がくしょう)が作庭した現代壺庭(つぼにわ)の傑作で、白砂敷きのなかに5つの石が3個と2個の石組みに分けて配されています。日本では最も小さい壺庭で、底知れぬ深淵に吸い込まれそうになるといわれる名庭です。

 方丈の南にあるのが「一枝担(いっしたん)」です。開山の東渓禅師が師である実伝和尚から賜った「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」という室号(称号の一つ)から名付けられたもので、昭和55年に喝堂和尚(かつどうおしょう)住持が作庭しました。白砂の大海原の中央右寄りに蓬莱山(仙人の住む不老長寿の吉祥⦅めでたいこと⦆の山)に見立てた石組を配し、そのすぐそばに板石の「一枝担」が置かれています。右側に配されている石組が鶴島、左側の丸い形の苔山が亀島です。なお、この「一枝担」には、かつて樹齢700年を超えた中国産の山茶花で「楊貴妃」と名付けられた老木が生い茂っていたそうですが、昭和55年に樹齢が尽きて枯れてしまったそうです。方丈の南東、書院の南にあるのが「滹沱底(こだてい)」です。宗祖である臨済禅師義玄が住んでいた中国河北省の鎮洲(ちんしゅう)城の南を流れる滹沱河から名づけられました。別名「阿吽(あうん)の石庭」といいます。阿吽とは、吸う息と吐く息、天と地、陰と陽、男と女などを表し、どちらも切り離すことのできないという宇宙の真理を表現しているのだそうです。東西にある礎石は、豊臣秀吉が建てた聚楽第から運んできたものといわれます。西側の穴の開いた石を阿の石、東側の石を吽の石といいます。開祖堂の南にある庭では、石組で鶏足山(けいそくざん)を現し、さらには苔地に石畳、灯籠などが配されています。

興臨院 

 興臨院は、室町時代の有力大名畠山義統(よしむね)が、大永年間(1521~28)に、小渓紹怤(しょうけいじょうふ)を開山として建立した寺院です。畠山氏が衰退した後は、前田利家が天正年間(1573~92)に修復し、以後前田家の菩提寺となりました。

 表門は平唐門(ひらからもん)で、檜皮葺(ひわだぶき)です。創建当時の唯一の遺構とされます。方丈(本堂)は、室町時代の1533年ごろに再建され、その後前田利家によって屋根が修復されたといいます。一重入母屋造、檜皮葺の建物です。方丈内にある床の間は日本最古のものといわれます。方丈の南にある前庭は、昭和53年、方丈の解体修理時の資料を基にして中根金作(昭和の小堀遠州と称えられた作庭家)により復元されました。蓬莱山を配した枯山水式庭園で、白砂、築山、石組、石橋、松などが配されています。玄関(唐門)は、檜皮葺の門で、室町時代の禅宗建築様式の特徴がみられ、唐破風(からはふ)が施された檜皮葺で、波形の連子窓(れんじまど)、客待の花頭窓(かとうまど)などが配されています。

 茶室の「涵虚亭(かんきょてい)」は、中国北宋時代の詩人蘇軾(そしょく)の詩から名づけられたといわれます。茶人古田織部(1544~1615)好みの四帖台目(だいめ:茶室の畳で、普通の畳の約4分の3の大きさのもの)になっています。昭和3年に山口玄洞(尾道出身の実業家)が建立しました。格子組を補強するために、四隅に三角形の補強板を付けているのが特徴だそうです。また、三つの様式の天井、平天井(ひらてんじょう:天井面が平らになっている一般的な天井)、掛込天井(かけこみてんじょう:庇⦅ひさし⦆が室内に貫入して天井となっているもの、化粧屋根裏がそのまま見える傾斜天井で、茶室に多くみられる)、落天井(おちてんじょう:一般の天井より低くなっている天井)を見ることができます。



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