ー甲斐健の旅日記ー

萩城址/毛利輝元が築いた長州藩の居城

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将にまつり上げられ敗れた毛利輝元は、本拠地の安芸広島(120万石)を追われ、すべての領地を没収されました。その後、嫡男の秀成が徳川家康から周防・長門の二国(36万9千石)を与えられ、毛利家は日本海に面した萩に拠点を移すこととなりました。輝元は、慶長9年(1604)から指月山(しづきやま)に萩城を築き始め、城下町の整備も進めていきました。完成は慶長13年(1608)でしたが、輝元は、自ら築城工事を督励するため、まだ居館も完成していない慶長9年11月には城に入ったといいます(御打入り)。

 萩城の天守閣や矢倉などは、残念ながら明治7年(1874)に解体され、現在は石垣と堀の一部が残っているだけです。指月公園には、萩城跡の他に、13代藩主毛利敬親(たかちか)が幕末期に家臣たちと茶を飲みながら時勢を論じ、長州藩の取るべき道を議論したとされる花江茶亭(はなのえちゃてい)や長州藩歴代藩主が祀られている志都岐山(しづきやま)神社など、歴史にゆかりのある観光スポットがたくさんあります。出発点は萩循環まぁーるバス(西回り)「萩城跡・指月公園入口」バス停です。

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 バス停の近くにある市営駐車場の南に、江戸末期の風情を残した細長い建物があります。これが、厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋です。萩に現存する武家屋敷では最大のものだそうです。厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家の一門で、関ヶ原の戦いののちに長門厚狭(現山口県山陽小野田市)に8,371石を拝領したのが始まりとされます。厚狭毛利家の萩屋敷は広大なもの(約4,700坪)でしたが、明治維新のころに多くは解体され、この長屋だけが残りました。この長屋は10代毛利元美の時代(江戸後期;1800年代)に建てられたといわれます。毛利元美は俗論派に近い人物で、元治元年(1864)、長州藩内で俗論派が政権を握ると、加判役(かはんやく:家老)となっています。

 長屋の大きさは、桁行51.4m、梁間5.0mです。屋敷内には入れませんが、外から室内を見学できます。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、出格子(でこうし:格子が外壁から突き出ているもの)が5か所、格子窓が6か所設けられています。廊下はありませんので、部屋を移動する場合は間の部屋を横断するか、一旦外へ出て移動していたようです。この長屋は、身分の高いものに用意した詰所(宿泊、仮眠または待機するための場所)だったと考えられています。

 萩屋敷長屋から北へ歩いていくと、萩城跡のお堀端に出ます。前述したように、天守閣や矢倉などは明治7年(1874)に解体され、今は石垣と内堀の一部のみが残るだけです。また、旧本丸跡には歴代藩主を祀る志都岐山神社が建立され、その境内20万m2が指月(しづき)公園として整備されています。内堀にかかる極楽橋を渡り、公園内に入っていきます。

 公園内の本丸跡を歩いていくと左手に茶室・花江茶亭があります。13代藩主・毛利敬親の花江御殿内にあった茶室を、明治22年(1889)ごろ、品川弥二郎らが買い取ってこの地に移したといわれます。入母屋造・茅葺(かやぶき)・平屋建で、桁行6.84m、梁間3.62mの建物の中に、4畳半の茶室と3畳の水屋(茶事の用意をととのえたり、使用後に茶器を洗ったりする所)が間取りされています。この茶室の中で敬親は、重臣たちと時勢を論じ長州藩の進むべき道を考えていたといいます。徳川幕府を倒して、新しい時代を築き上げるという野望が、この小さな茶室に渦巻いていたのです。花江茶亭のすぐ隣には梨羽家(なしはけ)茶室があります。萩藩寄組(よりぐみ:永代家老のすぐ下の階級、一代限りの家老職を務めた)の梨羽家(3,300石)の別邸にあったものを、明治になってここに移築したものです。木造入母屋造・桟瓦葺(さんがわらぶき)で、花月楼形式の極めて格式のある茶室だったといいます。城内の年末大掃除の際に、藩主が重臣の邸に身を寄せる習慣がありましたが、この茶室に、しばしば藩主を迎えたので、別名「煤払いの茶室」とも呼ばれているそうです。

 さらに先を進むと、石で作られたアーチ状の橋があります。万歳橋(まんせいばし)と呼ばれています。嘉永2年(1849)に毛利敬親が江向(えむかい)に移設した明倫館の敷地内に架けてあった石橋を、この地に移設したものです。花崗岩製で、長さ4.05m、幅3.15mのアーチ状の太鼓橋です。現在は危険ということで、この橋を渡ることはできません。この万歳橋の東に、ミドリヨシノという桜の樹があります。日本では、萩市でしか見ることのできない貴重な種だそうです。純白色の花が咲き、がくの緑色とのコントラストが美しい花です。見ごろは、ソメイヨシノよりも1,2週間早いそうです(2016年4月4日に訪れました。ソメイヨシノは満開でしたが、ミドリヨシノはほとんど散っていて数輪の花がかろうじて残っている状態でした)。

 万歳橋の奥にある石段を登ると、志都岐山神社の本殿に着きます。志都岐山神社の前身は、明治11年(1878)旧本丸付近に萩の有力者らにより建立された、豊栄・野田神社の遥拝所でした。その後指月神社と名をかえ、明治15年(1882)に志都岐山神社となりました。祭神は、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱です。また、この神社には初代から12代までの長州藩主が祀られています。

 そのほかにも、この指月公園には見どころがあります。公園内に入ってすぐの本丸跡に、前田孫右衛門の碑が建っています。前田孫右衛門は、文政元年(1818)生まれで、萩藩八組士(173石)として当職手元役、直目付などの要職を務めました。吉田松陰からも尊敬されていたようで、松陰が計画した老中・間部詮房(まなべあきふさ)襲撃計画を是認したのは、藩首脳部では彼一人だけだったといいます。元治元年(1864)に起きた禁門の変の後、役職を解かれ野山獄に収監され、同年12月刑死しました(享年47歳)。この碑は、大正5年(1916)に建てられました。

 万歳橋の東に、楫取素彦(かとり もとひこ)寄進の井戸があります。楫取は文政12年(1829)に生まれ、12歳の時に萩藩の儒者小田村吉平(きっぺい)の養子となり、小田村伊之助と名乗りました。吉田松陰の妹・寿(ひさ)と結婚し、松陰とも深い交流があったようです。慶応元年(1865)の四境戦争(しきょうせんそう:第二次長州征討)の際は、幕府側との交渉に奔走したといいます。その後藩命により楫取素彦と改名しました。維新後は、明治9年(1876)に群馬県令となり、地元の養蚕業の振興や教育の充実に力を尽くしました。明治14年(1881)に、妻・寿(ひさ)と死別後、吉田松陰の妹で久坂玄端未亡人の文(ふみ)と再婚します。その後も、元老院議官、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任しました。大正元年(1912)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で亡くなっています。享年84歳でした。この井戸は、明治12年(1879)の志都岐山神社創建当時に寄進されたものです。



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