ー甲斐健の旅日記ー

平安古/萩城三の丸(堀内)南の城下町

 平安古(ひやこ)は、horiuti 来していたようです。三の丸(堀内)には、毛利家一族や重臣たちが住んでいましたが、平安古は中・下級武士の屋敷が立ち並ぶ地でした。現在も、それら武家屋敷の主屋、長屋門、長屋、土蔵、鍵曲(かいまがり)を構成する長い土塀などが残されており、昭和51年(1976)には、文化庁が選定する「重要伝統的建造物群保存地区」になりました。今回は、 萩循環まぁーるバス(東回り)の「保健センター」で下車し、ここをスタート地点とします。

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 バス停から南西に向かい、玉江橋の手前で左折してしばらく歩くと、左手に「坪井九右衛門旧宅」があります。坪井九右衛門は、寛政12年(1800)、長州藩士佐藤氏(佐藤栄作元総理の実家とされる)の家に生まれましたが、幼少期に坪井家(大組士、157石)の養子となりました。藩の要職に就いた坪井は、藩政改革により長州藩の財政を立て直した村田清風と協力し、功績を挙げたといいます。また、文画の才もあり、多くの文化人と交流がありました。尊皇攘夷を主張する急先鋒だった梅田雲浜(うんぴん)もその一人でした。しかし坪井の主張は、尊皇攘夷ではなく、幕府による政治体制を維持する(佐幕派)というものでした。そして、過激な尊皇攘夷派が台頭してきた長州藩内で、次第に孤立化していきます。ついには、文久3年(1863)、尊皇攘夷派の重臣たちによって野山獄に送られ処刑されました。享年64歳でした。旧宅は、長屋門・主屋・土蔵から成ります。長屋門は寄棟造(よせむねづくり)、主屋は入母屋造(いりもやづくり)です。長州藩内で政争に敗れた坪井や椋梨藤太ら俗論派(保守派)の史料は、維新後徹底的に抹消され、ほとんど残っていません。また、俗論派を称える碑などは皆無に等しいといわれます。その中で、坪井九右衛門の旧宅が遺構として残ったことは、奇跡に近いことかもしれません。

 坪井の旧宅のすぐ先に鍵曲(かいまがり)があります。鍵曲とは、城下町独特の直角に曲がった道で、敵の侵入を防ぐために道の両側を高い塀で囲み、鍵手形状(直角)に曲げた見通しの悪い道のことです。城下町ならではの風情を楽しみながら先に進むと、右手に「かんきつ公園」が見えてきます。平成14年(2002)4月にオープンした公園で、約100本の夏みかんをはじめ、10種類の柑橘類・約380本が植えられています。萩のまちを歩いていると、土塀越しに黄金色の夏みかんがのぞいている姿をよく目にします。この、萩を代表する景観は、明治維新以降に形づくられたものです。維新後、政治経済の中心は山口市に移り、萩に残った士族たちは禄を失い生活に困窮していました。そのような状況下で、明治9年(1876)、長州藩士小幡高政が夏みかんを栽培して収入を得ることを提案し、自らも農園を造り栽培を始めました。また、「耐久社(たいきゅうしゃ)」という団体を結成し、夏みかんの苗木を大量に生産し、士族たちに配って栽培を勧めました。取り組みを始めて10年後には、萩の夏みかんは大阪の市場で高値で大量に取引されるようになりました。1900年当時の夏みかんの生産額は、萩市(当時は萩町)の年間予算の8倍にもなったといいます。「夏みかんの樹が3本あれば、子供を上級学校に通わせることが出来た」とさえいわれたそうです。この夏みかん栽培は、1970年ごろまで萩の主要産業となっていたといいます。公園内では、毎年5月中旬の土・日に、「萩・夏みかんまつり」が開催されるそうです。

 かんきつ公園の一角に、「旧田中別邸」があります。長州藩出身で第26代総理大臣になった田中義一の別邸です。もともとは「夏みかんの祖」小幡高政の屋敷でしたが、明治37年(1904)に小幡が90歳で亡くなった後、田中義一の所有となりました。

 田中義一は、文久3年(1863)、藩主の「かごかき」だった田中家の三男として生まれました。明治9年(1876)に前原一誠らが起こした、萩の乱(明治政府に対する士族の反乱)に義一も13歳で参加しています。その後、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、大正7年(1918)に原内閣で陸軍大臣となり、陸軍大将に昇格しました。その後義一は、政界へ転身をはかり、大正14年(1925)に政友会総裁となり、昭和2年(1927)第26代内閣総理大臣に就任しました。しかし、総理任期中に、満州事変の原因の一つとされる、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件が起き、田中は昭和天皇の不興を買ったとして内閣総辞職に追い込まれました(昭和4年;1929年)。そして退任の3ヶ月後、狭心症の発作で帰らぬ人となりました。享年66歳でした。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えることになりました。

 別邸は、主屋と表門、土蔵部分からなり、主屋は江戸時代末、表門と土蔵は明治初期に建築されたものと考えられています。邸内を見学することが出来、義一が身に付けていた陸軍大将服や天皇から拝領した総理大臣の任命証、旧総理官邸の屋上に置かれていたミミズクの置物などの貴重な資料を見ることが出来ます。

 かんきつ公園から北東に3ブロックほど進み、バス通りに出たら左に曲がり、しばらく歩くと右手に「久坂玄端誕生地」があります。久坂玄端(くさか げんずい)は、天保11年(1840)、長州藩医・久坂良迪(りょうてき:25石)の三男として生まれました。17歳の時に松陰の松下村塾に入りました。松陰にして「長州第一の俊才」と言わしめ、高杉晋作と共に「村塾の双璧」と呼ばれるようになりました。安政4年(1857)12月には、松陰の妹・文(ふみ)と結婚しています。安政6年(1859)10月、安政の大獄によって松陰が刑死されたころから、過激な尊王攘夷運動にはしり、他藩(薩摩、土佐、水戸)の志士たちとも交流を深め、尊皇攘夷・討幕運動の中心的人物となっていきました。文久元年(1861)頃、長州藩の藩論は、長井雅楽(うた)の「航海遠略策、公武合体」の方向に傾きかけていました。玄随はこれに反駁し、藩主への具申をしましたが受け入れられず、長井雅樂の政策が藩是となりました。この後、公武合体が進められ、仁孝天皇の第八皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐこととなったのです。どうしても藩論を変えたい玄端は、長井襲撃を試みますが未遂に終わり、京都にて謹慎の身となります。その後桂小五郎らが藩主を説得し、藩論はまた尊皇攘夷へと動き、玄端は謹慎を解かれました。長井雅樂は失脚し、翌年自刃を命じられました。

 謹慎を解かれた玄端は、文久2年(1862)10月、尊皇攘夷派の公卿・三条実美、姉小路公知(きnとも)と共に江戸に入り、幕府に攘夷の実行を迫りました。これに対して将軍家茂は、翌年上京して返答するとして、勅旨を受け取りました。翌・文久3年(1863)、幕府は攘夷決行を認めざるを得なくなり、まず「奉勅攘夷」の決定が各藩に布告されました。そして、決行日は5月10日とする勅令が発せられました。これを受けて玄端は、馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船を砲撃するため萩に戻り、馬関(現・下関市)の光明寺を本拠として外国船襲撃の準備をすすめました。ここに集まった志士たちは光明寺党と呼ばれ、他藩の志士たちも参加していたといいます。5月10日、長州藩の攘夷は決行されました。しかし、猛烈な反撃を受け、外国軍艦との圧倒的な装備の差を思い知らされる結果となってしまいました。アメリカ、フランス鑑からの砲撃により砲台は完全に破壊され、軍艦二隻が沈没させられるなどの大敗北を喫しました。こうした状況の中、幕府は、長州藩のみが突出して独断で攘夷を実行しようとしていることを問題視し、会津、・薩摩両藩および公武合体派の公卿と連携し、攘夷親征の延期、長州派の公卿たちの更迭を画策しました(八月十八日の政変)。この結果、長州藩は、禁裏への出入りを禁じられてしまったのです。 この頃玄端は、政務座役という藩の要職に就いていました。元冶元年(1864)6月、玄端は、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を携えて、来島又兵衛、真木和泉らと諸隊を率いて京へ向かいました。しかし、同年7月に薩摩軍が京へ入り、幕府が諸藩に京都出兵の命令を下すと形勢は一変し、緊張状態が高まっていきました。そしてついに、朝廷から長州藩に、京からの退去命令が出されました。玄端はこの命に従う方針でしたが、来島又兵衛ら過激な志士たちは譲らず、「進軍を躊躇するとは何事か」と玄端に詰め寄ったといいます。結局玄端も、説得をあきらめ開戦の決意をせざるを得ませんでした。長州軍の数はおよそ2,000、反長州連合軍は2万とも3万ともいわれています。到底勝ち目のない戦に突進していったのです。来島らは、京都御所の蛤御門を攻め立て会津藩と衝突しましたが、薩摩藩の援軍が参戦すると総崩れとなり、来島は負傷して自害しました。来島隊から少し遅れて御所に到着した玄端・真木らの隊は、鷹司輔煕(すけひろ)に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町後門を攻めました。玄端は、鷹司邸の裏門から中に入り、朝廷への嘆願を要請しましたが、輔熈はこれを拒否し、屋敷から逃亡してしまいました。もはやこれまでと悟った玄端は、寺島忠三郎と共に鷹司邸で刺し違えて果てました。享年25歳でした。この時、吉田松陰の松下村塾の門下生・入江九一も敵に顔面を刺されて亡くなっています。誕生地には建物はなく、八月十八日の政変で長州に亡命した尊皇攘夷派公卿の一人・三条実美が玄端の追討のために詠んだ歌が刻まれた石碑が立っています。なお、平成27年(2015)1月、萩市・中央公園に、久坂玄端進撃像が建立されました。

 久坂玄端誕生地から北西に進み、最初の交差点を右折し、次の交差点(十字路)を左に曲がり、しばらく行くと、右手に「村田清風別宅跡」があります。村田清風は、幕末期に萩藩の藩政改革を断行し、特に藩の財政再建を成し遂げた人物です。藩政にあずかっていた25年間を、この地で過ごしたといわれています。清風は、天明3年(1783)、長門国三隅村で萩藩士の長男として生まれました。15歳で明倫館に入りました。明倫館では優秀な成績を修め特待生となり、9代藩主毛利斉房の小姓に抜擢されました。以降、13代敬親 まで5代にわたり藩主に仕え、藩の中枢で政務を担当しました。天保8年(1837)、敬親が13代藩主になると、清風は天保の改革の責任者となります。民政・兵制の刷新、文武の奨励などをすすめましたが、特に長州藩の経済再建の実績には目を見張るものがあります。まず清風は、「三十七ヶ年賦皆済仕法(ぷかいさいしほう)」を施行し、藩士の借金の利息を大幅に軽減しました(37年間で実質1割程度の利息)。また、藩による特産品の専売制をやめ、商人による自由な取引を許可しました。その代り、商人に対して運上銀を課税しました。さらには、西国大名にとって商業・交通の要衝であった馬関海峡に目をつけ、越荷方(こしにかた)を設置しました。これは、藩営の金融兼倉庫業です。日本海側の産物を、大坂での相場が安いときには下関に留め置き、高値のときに売るなどして利益を得たといいます。これらの政策が成功して藩財政は豊かになっていきました。この経済的基盤が、幕末の長州藩の討幕運動を支えていたことは間違いありません。様々な改革を実行した清風でしたが、病のために、弘化元年(1844)、62歳で隠居を余儀なくされました。その隠居所には、吉田松陰はじめ多くの人々が、清風の教えを乞うために訪れたといいます。安政2年(1855)、清風は、この平安古の別宅で亡くなりました。享年73歳でした。

 別宅は、現在長屋門だけが残されています。木造平屋建て寄棟造(よせむねづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。桁行14.84m、梁間4.015mあります。中央右寄りに門があり、格子の出窓が3か所あります。また、主屋跡には顕彰碑が建っています。



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