ー甲斐健の旅日記ー

堀内/長州藩・重臣たちの屋敷が軒を並べていた萩城三の丸

 堀内地区は、藩政時代の城内三の丸にあたり、外堀で区切られていた地区でした。藩の役所があり、毛利一門、永代家老、寄組(よりぐみ)などの重臣たちの屋敷が軒を並べていました。現在も、至るところに土塀や石垣が残り、当時の面影を残しています。重要伝統的建物群保存地区に選定されており、歴史の香りにひたりながら散策できる絶好の散歩コースと言えます。萩循環まぁーるバス(西回り)「萩城跡・指月公園入口」バス停で下車し、まずは厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋から歴史散策をスタートします。

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 バス停の近くにある市営駐車場の南に、江戸末期の風情を残した細長い建物があります。これが、厚狭毛利家萩屋敷長屋です。萩に現存する武家屋敷では最大のものだそうです。厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家の一門で、関ヶ原の戦いののちに長門厚狭(現・山口県山陽小野田市)に8,371石を拝領したのが始まりとされます。厚狭毛利家の萩屋敷は広大なもの(約4,700坪)でしたが、明治維新のころに多くは解体され、この長屋だけが残りました。この長屋は10代毛利元美の時代(江戸後期;1800年代)に建てられました。毛利元美は俗論派に近い人物で、元治元年(1864年)、長州藩内で俗論派が政権を握ると、加判役(家老)となっています。

 長屋の大きさは、桁行51.4m、梁間5.0mです。屋敷内には入れませんが、外から室内を見学できます。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、出格子(でこうし:格子が外壁から突き出ているもの)が5か所、格子窓が6か所設けられています。廊下はありませんので、部屋を移動する場合は間の部屋を横断するか、一旦外へ出て移動していたようです。この長屋は、身分の高いものに用意した詰所(宿泊、仮眠または待機するための場所)だったと考えられています。

 この萩屋敷から東に進み、指月橋を渡って少し歩いた左手に天授院(てんじゅいん)跡(毛利輝元墓所)があります。長州藩(萩藩)の実質的な創設者である毛利輝元の墓所です(実際はその子の秀就が初代)。もともとこの地は、輝元の隠居所(四本松邸)でした。輝元が亡くなった後、その法号に因んで天授院という菩提寺が建立されました。しかし、明治2年(1869)に廃寺となり、墓所だけが残りました。輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれました(元就の孫)。父隆元が早世したため、わずか11歳で家督を継ぎました。はじめは祖父・元就の後見を受け、祖父が亡くなった後は叔父である吉川元春、小早川隆景の補佐のもとで領地を拡大し、120万石の大大名となりました。豊臣政権下では、五大老の一人として政権の中枢にあり、秀吉の死後も秀頼の補佐を委託されています。しかし、政権獲得に執念を燃やす徳川家康と反目するようになり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは反家康の西軍の総大将にまつり上げられました。結果西軍は敗北し、毛利家は周防・長門両国36万9千石に減封され、居城も萩に移すことになりました。同年10月、輝元は剃髪して隠居し、家督を6歳の秀就に譲りました。そして、寛永2年(1625)萩城内で死没しました。享年73歳でした。

 墓所の入り口である唐門をくぐると、右手に「毛利輝元荼毘の地」があります。この石塔は、供養塔ではなく、かつてお堂の屋根に乗っていたものだそうです。参道には数十mに渡って敷石が敷かれ、両側に石灯籠が建てられています。先に進んで行くと、竹林に囲まれた静かな場所に五輪塔の墓があります。右側の大きい方が輝元、左側がその夫人の墓です。

 天授院跡を出て南にまっすぐ歩いていくと、橋本川沿いに口羽家(くちばけ)住宅があります。口羽家は毛利氏の庶流(分家)で、もともとは石見国口羽村の領主でした。関ヶ原の戦いののち、毛利家に従って萩に移り、寄組士(永代家老の次の身分)として藩の要職を担ってきました。禄高は1,018石余です。口羽家住宅には、表門と主屋がそろって残っています。18世紀後半から19世紀初めにかけて建築されたものと考えられています。昭和51年から54年にかけて解体復元工事が行われ、現在に至っています。

 表門は、萩に残っているものとしては最大の長屋門です。入母屋造・本瓦葺で、桁行22.2m、梁間4.9mあります。白壁となまこ壁のコントラストが美しい建物です。門をくぐって中に入ると、門番所、中間部屋(ちゅうげんべや:武家屋敷内の長屋)、厩があります。主屋は、切妻造(きりつまづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物で、東側の突出部が入母屋造となっています。建物内では、当時のままの台所や口羽家の馬印などの展示物を見ることが出来ます。また、押し入れに見せかけた非常口や畳二畳の相の間(武者隠し)などに、当時の重臣たちの緊張感漂う暮らしぶりが感じられます。庭からは橋本川や対岸が眺められ、実に風光明媚な景色です。

 口羽家住宅から東に進むと、鍵曲(かいまがり)という城下町独特の直角に曲がった道に出ます。鍵曲とは、敵の侵入を防ぐために、道の両側を高い塀で囲み、鍵手形状(直角)に曲げた見通しの悪い道のことです。往時の面影をしのびながらさらに歩いていくと、左手に「旧明倫館跡」の石碑があります。藩校明倫館は、長州藩5代藩主毛利吉元によって、享保3年(1718)にこの地に創建されました。萩の明倫館は、水戸の弘道館、岡山の閑谷(しずたに)学校と並んで、日本三大学府の一つといわれました。940坪の敷地内に、学問所の他にも剣術場、槍術場、砲術場などの武道場も配置され、文武両道の教育施設だったといいます。明倫館は、嘉永2年(1849)に江向(えむかい)の地に移され、その遺構は現在も萩市立明倫小学校の敷地内に残されています。

 さらに東に進み突き当りのT字路をちょっと右(南)に入った左手に「平安古(ひやこ)の総門跡」の石碑が立ち、その先に石でできた平安橋があります。平安古の総門は、萩城三の丸(掘地内)と城下町の境界にあった門で、南の玄関口でした。当時は見張り小屋が置かれ、暮れ六ツ時(午後6時)から明け六ツ時(午前6時)までは門が閉められ、通行手形がなければ通ることはできなかったといいます。平安橋は、総門の前の外堀に架けられ、城下町から三の丸への通路となっていました。もともとは木の橋だったのですが、明和年間(1764~71)に現在の石づくりに架け替えられたと考えられています。この橋は安山岩でできており、橋脚がなく吊り桁、定着桁を具えたゲルバー桁橋構造の珍しい橋だそうです。

 平安橋から北へ歩いていくと右手に「児玉家長屋門」が見えます。児玉家は、萩藩寄組士で2,243石余の大身(たいしん)武士でした。建物は、入母屋造・桟瓦葺・平屋建てで、桁行32.67m、梁間4.59mです。白壁となまこ壁の対比が印象的です。また、出格子が一か所施されています。

 児玉家長屋門の先のT字路を左(西)に曲がり、1ブロック歩くと、右手に「旧祖式家長屋」があります。祖式家は現在の宇部市に領地を持っていた武士で、初代長州藩主毛利秀就の側近として仕えたこともある家系です。建物は、入母屋造・本瓦葺で、長さが約10m、奥行きが約5mの平屋建てです。新築当時は、今よりも東側に長い建物だったと考えられています。

 旧祖式家長屋を右(北)に曲がります。しばらく歩くと左手に萩高校があり、その敷地内の道路側に「萩学校教員室」があります。明治3年(1870)に萩明倫館を改組して創立された萩中学校の教員室として建てられました(建築年度は明治20年)。その後、萩市役所の敷地内に移築され、市庁舎の一部として利用されていましたが、昭和44年(1969)に修復して、現在地に移されました。玄関は吹き放しとなっており、明治の洋風建築の代表的な建物として保存されています。

 萩学校教員室からさらに北へ進むと、左手に長い白壁の「問田(といだ)益田氏旧宅土塀」があります。問田益田氏は、萩藩永代家老・益田氏の分家筋にあたります。毛利氏が幕末に萩から山口に城を移したとき、給領地4,096石余を山口の問田に持っていったことでこう呼ばれたといいます。土塀の長さは231.7mにわたり、萩市内の土塀の中では最長です。

 問田益田氏の土塀北の交差点を右(東)に曲がり、しばらく歩くと右手に萩博物館が見えます。その先の三叉路を左(北)に進むと、右手に北の惣門があります。この総門は、藩政時代に城下町から三の丸(堀内)に入るための門でした。当時は見張り小屋が置かれ、暮れ六ツ時(午後6時)から明け六ツ時(午前6時)までは門が閉められ、通行手形がなければ通ることはできなかったといいます。脇戸が設けられた、切妻造・本瓦葺の高麗門(こうらいもん)です(高さ7m)。平成16年(2004)に、「萩開府400年」を記念してケヤキの巨木で復元されました。白漆喰(しろしっくい)仕上げの土塀がついています。

 北の惣門からさらに北に進んだ突き当りに「旧益田家物見矢倉」があります。矢倉は武器を保管した蔵ですが、物見矢倉は高い天井を持ち、見張り台も兼ねていました。北の総門からの出入りを見張るために建てられたといいます。益田家は、藤原北家の藤原定通(国兼)につながる名門で、西石見の益田を領していました。関ヶ原の戦い後に毛利氏が周防・長門両国に移封されたときは、石見境にある長門国須佐に入部し、以後毛利家の永代家老として藩政の樹立や家臣団の編成などに尽力してきました。関ヶ原の戦いののち、当時の領主・元祥(もとなが)は、徳川家康に家臣となるよう懇願されましたが、頑としてこれを断り、毛利家に忠誠を誓ったといいます。

 旧益田家物見矢倉から少し西に行ったところに、「旧周布家長屋門」があります。江戸時代中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を色濃く残した建物で、木造平屋建・本瓦葺です。桁行25m、梁間4mの長い建物で、東寄りに通用門を設け、屋根の東端は入母屋造となっています。周布(すう)家は永代家老の益田家の庶流(分家)で、石見国周布郡の地頭職をしていました。その後大津郡渋木村(現長門市渋木)に1,530石の知行地を得て、長州藩大組士筆頭として藩政の一端を担っていました。幕末に周布家の長となった政之助は、桂小五郎や高杉晋作ら吉田松陰の門下を登用し、長州藩の財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力しました。元治元年(1864)に起こった禁門の変の際には、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしましたが失敗し、幕府による第一次長州征討を招く結果となりました。その結果、椋梨(むくなし)藤太ら俗論派(保守派)に実権を奪われることとなりました。そして、その責任を感じた政之助は、同年9月、山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋・吉富藤兵衛邸にて切腹して果てました。享年42歳でした。

 旧周布家から北に向かうと、菊ヶ浜に出ます。萩城跡から萩湾に沿って、浜崎の港まで続く白砂青松の海岸です。海に向かって左手には指月山、沖合には多くの島々を眺望することが出来ます。平成18年(2006)に環境省が選定した「快水浴場百選」のひとつで、夕日の沈む姿が絶景だそうです。若き日の吉田寅次郎(松陰)や高杉晋作らもこの浜の景色を眺めながら、新しい日本の姿を夢見ていたのでしょうか・・・。



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