ー甲斐健の旅日記ー

五稜郭/旧幕府軍、最後の抵抗の地

 五稜郭(ごりょうかく)は、北海道函館市にある陵堡(りょうぼ)式城郭です。幕末期に徳川幕府によって建造されました。五角形の星形をしており、南西の入り口には半月堡(はんげつほ)という三角形の堡塁(ほるい)が築かれています。中央には箱館奉行所などの建物があり、城郭の周囲は、最大幅30m、深さ4~5mの水堀で囲まれています。堀の内側は約12万5千平方メートルで、東京ドーム3個分の広さです。徳川幕府海軍副総裁/・榎本武揚(たけあき)や新撰組副長土方歳三らがこの地を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗した、戊辰戦争(ぼしんせんそう)最後の戦いの地となった場所でもあります。

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 嘉永7年(1854)3月3日、徳川幕府は200年以上にわたる鎖国政策を改め、米国と日米和親条約を締結しました。このとき、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(明治2年に改名して、蝦夷地は北海道、箱館は函館となります)の2港が開港されました。これを受けて、外国との交渉や沿岸警備などの目的で箱館奉行が設置され、現在の函館市元町公園の付近に奉行所が建てられました。しかし、箱館奉行だった堀織部正利熙(ほりおりべのしょう としひろ)が、この地は港に近く海から攻撃に弱いこと、および外国人の遊歩地である函館山から奉行所や役宅の配置が丸見えであることを理由に、亀田(現在五稜郭のある地)への移転を上申しました。このとき、箱館の沿岸防備のため、弁天岬や立待岬など7か所の台場建設も上申しています(結局は弁天岬の台場のみ作られました)。

 奉行所と台場の設計は、幕府が箱館に設置した学問所である諸術調所(しょじゅつ しらべしょ)の教授で蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)成章が担当しました。斐三郎は、箱館に来ていたフランス軍人から、中世ヨーロッパの西洋式城郭の話を聞き、それをまねた五角形の星形をした五稜郭の設計をしました。弁天岬台場は安政3年(1856)に、五稜郭は安政4年(1857)から工事が始まりました。半月堡は当初5か所に造る予定でしたが、資金が足りず現在の1か所のみになったといいます。さらに文久元年(1861)からは、五稜郭内に役所や長屋・蔵などの建物を造る工事が始まりました。

 堀などの壁が凍り付いて崩れ落ちるなど、工事は難航したようですが、元治元年(1864)に弁天岬台場と五稜郭がともに完成し、箱館奉行所もこの地に移転しました。その後、防風林の植樹や付帯施設の工事が行われ、すべての工事が完了したのは、慶応2年(1866)のことでした。建設費用は、五稜郭の土木工事が5万3千両、建物工事が4万5千両、水道工事が6千両だったといいます。

 慶応3年(1867)の大政奉還により、新政府の箱館府が設置され、翌慶応4年(1868)4月に、明治新政府総督(このときは箱館裁判所総督)清水谷公考(きんなる)が五稜郭に入り、箱館奉行所は箱館裁判所・箱館府へと生まれ変わりました。清水谷は、その後箱館府知事に就任しています。ところがここで、五稜郭の歴史にとって前代未聞の事件が起こります。明治元年(1868)8月、「開陽」はじめ4隻の軍艦と4隻の運送船を引き連れた艦隊で品川沖を脱走した、幕府海軍副総裁・榎本武揚ら(新撰組副長土方歳三も途中で参加)旧幕府脱走軍が蝦夷地の鷲の木(現・北海道森町)に上陸しました。榎本らは、そこから進撃を開始し、同年10月26日には、五稜郭を占拠しました。さらには、松前や江差も相次いで攻略し、12月15日には、士官以上の幹部による入札(いれふだ:選挙)が行われ、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」が樹立されました。

 しかし翌年3月、明治新政府は、旧幕府反乱軍を鎮圧するため、最新鋭の装甲艦(鋼で外装を施した軍艦)である「甲鉄」を旗艦とした8隻の艦隊を箱館に送り込みます。そして同年4月9日に蝦夷地乙部(現・北海道乙部町)に上陸し、新政府軍の反撃が開始されたのです。旧幕府軍も奮戦しましたが、砲弾の射程距離など、新政府軍の装備が勝っていたこともあり 次第に追い詰められていきました。このとき、旧幕府軍の砦であった弁天岬台場を守るために救援に向かった土方歳三は、途中で敵の銃弾に打たれ戦死しています。また5月11日には、新政府軍の総攻撃によって箱館市街も制圧されました。翌12日、新政府軍参謀・黒田清隆からの降伏勧告書が、五稜郭にこもる榎本に届けられました。しかし榎本はこれを拒否します。さらに、座右の書として肌身離さず愛読していた『海の国際法規と外交(万国海律全書)』のオランダ語訳本を取り出し、「この書は、今後の日本にとって役立つ貴重なものなので灰にするには惜しい。政府軍参謀に寄贈したい」という内容の書状を添えて、使者に手渡しました。この榎本の書状にいたく感激した黒田は、返礼として酒5樽を五稜郭へ届けさせました。この時から、黒田清隆と榎本武揚の奇妙な友情が始まったといえます。しかし旧幕府軍にとって、戦況はますます悪化します。5月15日には弁天砲台が陥落し、翌日には千代岱(ちよがだい)陣屋が落ちたことを知ると、榎本はその夜自決を決意します。しかしこれは、近習の大塚霍之丞(かくのじょう)が体を張って制止しました。結局榎本ら旧幕府軍幹部は、翌日に黒田清隆と会見し降伏しました。幕末から続いた戊辰戦争はようやく終結し、名実ともに明治新政府が日本を統治する政府であることが、国際的にも認められることとなりました。

 その後の五稜郭は、新政府の兵部省が管理していましたが、明治4年(1871)に開拓使本庁が札幌に移転されるに伴い、奉行所を含むほとんどの建物が解体されました。解体された資材は、本庁舎建設に使われました。五稜郭は、明治6年~30年まで陸軍省の練兵場となっていましたが、大正2年(1913)に函館区に無償貸与され、翌年から市民の憩いの公園として利用されるようになりました。また、箱館奉行所の復元については、昭和58年から平成元年まで遺跡発掘調査が行われ、平成18年(2006)度から箱館奉行所の復元整備工事が開始されました。そして郭内の園路等の整備も含めて平成22年度(2010)に完成し現在に至っています。

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 五稜郭へのアクセスは、市電では「五稜郭公園前」で下車し、北へ向かって徒歩15分です。函館駅からシャトルバス(函館空港行)に乗って「五稜郭タワー前」で下車すると、徒歩3分です。五角形の展望台のある、白い五稜郭タワーを目指していけば、迷うことはないと思います。

 まずは五稜郭タワーに上って、空から五稜郭を眺望してみましょう。現在の五稜郭タワーは、2006年4月に開業しました。建物の高さは98m(避雷針除く)、展望台2階の床の高さは90mだそうです。建物はスーパー・スロッシング・ダンパー(SSD) などで耐震対策されており、震度7まで大丈夫だとのことでご安心を・・・。1階にはアトリウムと売店(みやげもの)があり、2階にはレストランがあります。高速エレベーターで昇った先の展望台2階には、五稜郭の復元模型や五稜郭に関する展示スペースがあり、土方歳三のブロンズ像が置かれています。ここから、五稜郭の全体像がよく見渡せます。また、360度展望でき、函館市街も眺望できます。なお、現在あるタワーが建造される以前には、昭和64年に五稜郭築城100年を記念して建造された高さ60mの旧タワーが開業していたそうです

 五稜郭タワーを降りて五稜郭へと入っていきます。五稜郭への入り口となる「一の橋」を渡る手前の広場から見る五稜郭タワーは、絶好の撮影スポットです。多くの人がカメラを向けてシャッターを切っていました。その「一の橋」を渡ると半月堡(はんげつほ)です。半月堡は、五稜郭の正面入り口を防御するために作られた土塁(どるい)で、表門から出撃する際に直接敵の視野に入らないように造られたたものです。馬出塁(うまだしるい)とも呼ばれます。もともと5か所に造る予定だったのが、財政難のために正面の一か所のみとなったといいます。この土塁は、石垣で囲まれていますが、上から2段目の石が手前に突き出すように積まれており、敵の侵入を防ぐ「武者返し(刎ね出し:はねだし)」のような構造になっています。

 半月堡から、外堀にかかる「二の橋」を渡り郭内に入ります。入り口周辺にも石垣が組まれ、「武者返し(刎ね出し)」が施されています。藤棚のトンネル(5月下旬が見頃だそうです)をくぐって公園内に入っていきます。まず目についたのが、「武田斐三郎の顕彰碑」です。武田斐三郎は、中世ヨーロッパの西洋式城郭をまねて、五稜郭を設計した人です。さらに進むと、右手に箱館奉行所が見えてきます。明治4年(1871)に解体されましたが、昭和58年からの資料調査及び昭和60年から4度にわたる遺跡発掘調査が行われ、平成22年(2010)に復元されました。オリジナルは敷地面積3,000平方メートルの広大なものでしたが、その中で主要部分の1,000平方メートルが復元されています。西側正面は、木造平屋、入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)で、北側と南側に切妻(きりつま)屋根の細長い建屋がつながっています。正面玄関には、入母屋風の破風(はふ)が施されており、屋根上には監視のための太鼓櫓(やぐら)があります。また、庇の部分は杮葺き(こけらぶき)、太鼓櫓は銅板葺きの屋根となっています。建物内部も忠実に再現されており、当時の様子がしのばれ興味深いです。

 奉行所の西には、切妻屋根で白壁の土蔵(兵糧庫)があります。この建物は、五稜郭築城当時に建造され、唯一現存しているものです。大正期には「懐旧館」と称して、箱館戦争に関する展示資料館でした。屋根の下に突き出た庇は、資料調査や遺跡発掘調査から存在が明らかになり復元されたものだそうです。土蔵(兵糧庫)に隣接して建つ建物は、板庫(いたこ)・土蔵です。文書や物品などを保管・収納していた建物です。現在ある建物は復元されたもので、板子跡は休憩所、土蔵跡は管理事務所として使われています。

 奉行所の周辺には、ほかにも奉行所に勤めていた近習(きんじゅう)や徒士(かち)が住んでいた長屋跡や秣置場(まぐさおきば)、仮牢、湯遣所(ゆつかいどころ:上水道がひかれた流し場)の跡などが見つかっています。

 箱館戦争で、旧幕府軍と新政府軍が熾烈な攻防を繰り広げた五稜郭も、今は函館市民や観光客の憩いの場となり、平和のありがたさを私たちに感じさせてくれる場となっています。約150年前の箱館戦争終結により、旧幕府軍と新政府軍との長い戦いが終わりをつげ、明治新政府が国際的にも認められ、日本の近代化への道が開かれたのでした。



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