ー甲斐健の旅日記ー

高龍寺/函館に現存する最古の寺院

 高龍寺(こうりゅうじ)は、函館市船見町にある曹洞宗の寺院です。山号は国華山といいます。函館市に現存する最古の寺院です。

 寛永10年(1633)、法源寺(北海道松前町に現存:曹洞宗永平寺派)の僧・盤室芳龍が亀田(現・函館市万代町あたり)に創建したのが始まりとされます。明治2年(1869)の箱館戦争においては、旧幕府軍の箱館病院分院として使用されていました。当時の箱館病院院長・高松凌雲(りょううん)は、敵味方の区別なく治療にあたり、日本の赤十字活動の草分けといわれています。しかし5月11日の新政府軍の箱館総攻撃の際、乱入した官軍兵により負傷兵が殺害・放火され高龍寺も焼失してしまいました。その後、明治12年(1879)に現在の船見町に移転し、明治32年(1899)に新しい本堂、明治44年(1911)に山門が完成し、現在みる伽藍(がらん)がほぼ完成しました。

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 高龍寺へは、市電5系統に乗って「函館どっく前」で下車します。ここから南西へ延びる坂道(魚見坂:うおみざか)を上っていきます。三つ目の信号(船見町交差点)を渡ってさらに150mほど歩いた左手に高龍寺の山門があります。境内は赤レンガ塀で囲まれています。

 現在の山門は、明治44年(1911)に建立されました。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の八脚門です。どっしりとして重厚な門です。柱や梁のいたるところに彫刻が施されているのが特徴です。左側に獅子、中ほどに龍、右側に鳳凰などの彫刻を見ることができます。門の左右に袖塀が付き、その先はレンガ塀で境内を取り囲んでいます。このレンガ塀は、防火対策のためだそうです。

 山門をくぐって正面に見えるのが本堂です。現在ある建物は明治32年(1899)に建立されました。入母屋造、桟瓦葺で正面から側面にかけて裳階(もこし)が施されています。また、正面の向拝(こうはい)にも、精巧な彫刻が施されています。本堂内には、本尊の釈迦三尊像が祭られています。

 山門くをぐって左手には、北から金毘羅堂、位牌堂、開山堂が並んでいます。金毘羅堂は、入母屋造、桟瓦葺の屋根に、千鳥破風(ちどりはふ)唐破風(からはふ)が施されています。破風のところどころに、㊎と刻印されています。航海安全・漁業の神を祀るお堂として、大正4年(1915)に建立されました。金毘羅宮は海上交通の守り神といわれ、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の象徴とされます。位牌堂は、先祖の位牌を永代に祀るお堂で、昭和8年(1933)に建立されました。入母屋造、桟瓦葺の建物です。開山堂は、中央の唐破風屋根の玄関とレンガ造り漆喰(しっくい)壁が特徴の建物です。本堂と同時期に建立されたといいます。堂内には、高龍寺開山の盤室芳龍和尚、曹洞宗開祖で永平寺の開山である道元禅師、曹洞宗もう一つの本山・総持寺(横浜市)開祖の蛍山(けいざん)禅師が祀られています。

 金毘羅堂の前に水盤舎(すいばんしゃ)があります。参詣者が手や口をすすぎ清める場所です。屋根には唐破風が施されています。大正6年(1917)に建立されました。水口は龍の姿となっており、足元は力士風の力自慢が支えています。

 山門の右手には、鐘楼と白壁がまぶしい宝蔵が並んでいます。鐘楼は大正11年(1922)に建立されました。しかし、梵鐘は太平洋戦争に軍に供出したため失われ、現在ある鐘は昭和26年(1951)に再製作されたものだそうです。現在も、朝夕に鐘の音を聞くことができます。宝蔵は寺宝を収蔵する蔵で、大正5年(1916)に建立されました。白い漆喰壁で、腰回りに下見板(したみいた:外壁仕上げに用いられる木製横板張)をはめ込んだ「蔵造り」というユニークな外観を持っています。



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