ー甲斐健の旅日記ー

方広寺/豊臣秀吉が大仏建立のために創建した寺院

 方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院です。豊臣秀吉が発願(ほつがん:神仏に願いをかけること)して造った大仏を安置するために、高野山の僧・木食応其(もくじき おうご)が創建した寺です。現在、大仏および大仏殿は残っておらず、大仏殿中心部分の遺構および本堂・大黒天堂・鐘楼が残っているのみです。

 永禄10年(1567)、奈良東大寺に陣取った三好三人衆を松永久秀が奇襲で破り、畿内の主導権を握りました(東大寺大仏殿の戦い)。この戦いで、東大寺大仏殿は消失し、大仏も焼損してしまいました。この大仏の復興事業がなかなか進まないなか、天正14年(1586)、豊臣秀吉がこれに代わる新たな大仏を京都に造ることを発願しました。秀吉が造立した大仏は、高さ六丈三尺(約19m)あり、東大寺の大仏(高さ14.7m)よりも大きなものでした。なおこの大仏は、製造期間短縮のため木造金漆塗りの仏像だったといいます。秀吉悲願の大仏・大仏殿は、文禄4年(1595)に完成しました。大仏殿は高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大なもので、境内の敷地の広さは、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含み、三十三間堂の南側にまで及んでいました。

 しかしここから、秀吉大仏の苦難の歴史が始まります。大仏完成の翌年閏7月13日、慶長伏見地震が発生し、大仏は倒壊してしまいました(大仏殿は倒壊を免れましたが…)。このとき秀吉は激怒し、「うぬ(大仏)は、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」と叫んで、倒壊した大仏に矢を放ち続けたというエピソードが残っています。秀吉の死後、慶長4年(1599)、嫡男の秀頼が大仏(銅造り)の復興事業をスタートさせます。慶長7年(1602)、型に流し込んだ銅が漏れ出て火災が発生し、大仏殿までも消失してしまうという事故がありましたが、秀頼の大仏再興にかけた執念は衰えることがありませんでした。そして、慶長13年(1608)には再建工事が始まり、慶長17年(1612)、ついに新たな大仏が完成しました。その2年後には、鐘楼などの堂宇(どうう)も完成し、あとは開眼供養の日を待つばかりとなりました。ところが、ここで、豊臣氏の行く末を決定づけるるような大事件が起きたのです。「方広寺鐘銘(しょうめい)事件」です。

 方広寺にある梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた銘文は、大仏再建の総奉行だった片桐且元(かつもと)が、南禅寺の僧・清韓(せいかん)に選定させたものでした。ところが、幕府お抱えの儒学者・林羅山らが、この銘文には家康に対する呪詛の意図が込められていると言い出したのです。特に、「国家安康」の文字は、諱(いみな:名)を許可なく使っていることに加え、「家」と「康」が分断されており、徳川家を冒涜するものであるとの疑いがかけられました。一方で、「君臣豊楽」という文字には、豊臣が君主であるという意味が込められているというのです。片桐且元と清韓は、ただちに駿府に赴き釈明に努めましたが聞き入れられず、結局、大仏開眼供養は延期となりました。この事件が徳川と豊臣の対立を決定的なものにし、豊臣家滅亡を招いた大阪冬・夏の陣勃発のきっかけとなったといわれます。銘文を選定した清韓も南禅寺を追われ、大阪の陣では豊臣方について大阪城にこもったのですが、戦後捕らえられ駿府に拘禁されました(元和7年〈1621〉死亡)。ところが、あれほど悪名高かった方広寺の鐘と銘文はそのまま残され、現在もその姿を見ることができます。家康はなぜ、自分への「呪詛」の対象とされた鐘をそのままにしておいたのでしょうか?豊臣と一戦交えるための口実に使われたとしたら、方広寺の梵鐘も立つ瀬がないですね。

 大仏は、豊臣氏滅亡後もそのまま残されていました。寛文2年(1682)の地震で大破しましたが、その5年後には木造で再興されています。壊れた銅製の仏像は潰されて、寛永通宝(銅銭)に姿を変えたといいます。ところがこの大仏も、寛政10年(1798)に落雷により焼失してしまいました。その後再建されることなく、現在に至っています。

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 方広寺へは、京都駅からですと、市バス100,206,208系統に乗って、「博物館・三十三間堂前」で下車します。バス停北にある京都国立博物館の北側に隣接するのが豊国神社で、さらにその北に隣接するのが方広寺です。バス停近くの交差点(大和大路七条)を北に5分ほど歩くと右手にあります。

 境内北側に、本堂と大黒天堂が並んで立っています。本堂には、本尊の廬舎那仏像(るしゃなぶつぞつ)が安置されています。また、往時の大仏の台座の一部や大仏殿の欄干に施されていた左甚五郎作の彫刻の一部なども見ることができます。大黒天堂には、二体の大黒天像が安置されています。一体は、伝教大師・最澄が延暦寺建立時に彫った伝えられるもので、もう一体は、秀吉がこの像を気に入ったため、10分の1サイズで造らせて手元に置いていたものだといいます。

 本堂と対面する位置に鐘楼があります。「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が彫られた有名な梵鐘がつるされたお堂です。慶長19年(1614)に鋳造された梵鐘は、高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンあり、東大寺(奈良市)、知恩院(ちおんいん:京都市)の鐘とともに、日本三大名鐘の一つと言われます。

 方広寺と隣接する豊国神社の東に、大仏殿跡緑地があります。大仏殿の中心部分の遺構です。平成12年(2000)の発掘調査の後に保存のため埋め戻され、現在は公園のようになっています。方広寺から豊国神社を挟んで京都国立博物館の西側には、往時の大仏殿の石垣の遺構が残っています。また、三十三間堂の南側には太閤塀と呼ばれる築地塀(桃山時代に建立)の遺構があります。さらに、東寺(京都市)の南大門は、明治になって方広寺西門が移築されたものです。



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