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ー甲斐健の旅日記ー

豊臣秀吉が「唐入り」を決意した本当のわけとは?

 豊臣秀吉といえば、尾張国愛知郡中村郷(現・名古屋市中村区)で下層民の子(足軽の家あるいは農家の生まれともいわれる)として生まれながら、織田信長に仕えて大出世を遂げ、信長亡き後は、戦国の世を終わらせ天下統一を成し遂げた大英雄の一人とされます。天下統一後も、全国の田畑の測量や収穫量の調査(太閤検地)を行って石高制による税制を定めたり、刀狩りにより農民や僧侶から武器を取り上げて兵農分離を進めるなど、近世日本社会の基礎を築いた政治家でもあります。その政策の多くは、江戸時代にも引き継がれていきました。

 ところが、秀吉が晩年に行った外交政策(唐入り;朝鮮出兵)は、江戸期から現代にいたるまで多くの識者の非難の的となっています。「夢物語だ」、「誇大妄想だ」などなど、その評価は極めて厳しいものです。しかしながら、抜群の着想力と行動力を発揮し、天才・織田信長さえも驚かせたほどの秀吉が──何の成算もないままに──そんなバカげた命令を下すでしょうか。私にとっては、長い間大きな疑問となっていました。そもそも、秀吉は何のために唐入りを行ったのでしょうか。そしてそれは、本当に無謀な賭けだったのでしょうか。考えてみたいと思います。まずは、唐入りに至るまでの経緯について見ていきます。

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 秀吉が唐入りについて語ったたとする最初の記録は、関白になって間もない天正13年(1585)9月のことでした。子飼いの武将・加藤光泰(みつやす)が、秀吉の許しも得ずに自分の家臣に知行(ちぎょう)を分け与えたとして処罰されたとき、秀吉が発した言葉に、「光泰がためには、秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国(明国)まで仰せ付けられる(征服する)心に候」とあります。

 また、天正17年(1587)九州平定がなった時に秀吉は、北政所にこう告げています。「次は朝鮮国王に日本の内裏へ参内するように申し付ける。もし拒否すれば、成敗する。さらに、自分の生きているうちに明国をわがものにするのだ」。このころには、秀吉の東アジア支配構想はかなり具体化されていたと思われます。

 秀吉の東アジア支配構想の詳細は、天正20年(1592)、関白職を譲った養嗣子・秀次へ送った文書(全25か条のうち19~21条)に見ることができます。その構想とは、

  • 後陽成(ごようぜい)天皇を明国の北京に移し、中国天皇とする。また秀次を関白とする。
  • 日本の天皇は、良仁(ながひと)親王(後陽成天皇の第一皇子)か智仁(としひと)親王(後陽成天皇の孫)とする。関白は羽柴秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家とする。
  • 秀吉は、日明貿易の窓口だった寧波(にんぽう)に居所を移し、遠く天竺(インド)、呂宋(ルソン)、高山国(台湾)までも手に入れる覚悟だ。

というものでした。東アジア全域に版図を拡大しようという、秀吉らしいスケールの大きな計画です。

 ところで、この秀吉の東アジア支配構想は、実は織田信長の受け売りだったという説があります。長年日本に滞在し布教活動をしていた宣教師ルイス・フロイスが、天正10年(1582)に本国(ポルトガル)に送った報告書の中に、信長がフロイスに語ったとする次のような一節があります。「毛利を征服し終えて日本の全六十六か国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第6巻または『フロイス日本史』)。信長がその場の思い付きでこのような虚言を吐くとは考えられず、またフロイスにしても、このようなうその報告をする理由は見当たりません。むしろ、ポルトガルのアジア征服構想の先兵ともいえるイエズス会の宣教師フロイスにすれば、この信長の発言は極めて重大であり、即座に本国に報告するべき内容であったでしょう。信長が中国征服まで真剣に考えていたことは事実だろうと思われます。とすれば、信長の頭の中には中国征服についての成算があった──しかしそのためには、外洋を航行できる強力な艦隊を編成する必要があり、ポルトガル本国の協力を取り付ける必要がある。その仲介者としてフロイスを利用しようとしたのではないか──という筋立ても成り立ちます。

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当時の東アジア情勢

 信長や秀吉が活躍していた当時の東アジアは、明国を中心とする中華体制が色濃く残っている世界でした。宗主国の明に対して朝貢(ちょうこう:来朝して貢物を差出すこと)をしてきた周辺諸国が、明の皇帝から金印を戴きその国の国王として統治することを認めてもらうというやり方で、朝貢する国々は宗主国・明に対して従属関係にありました(冊封体制〈さくほうたいせい〉)。 一方で、ヨーロッパを起点とした大航海時代の影響が東アジアに及んでいたのもこの時代でした。新航路の開拓、海外貿易の拡大、キリスト教の布教を進める中で、植民地の獲得を目指したヨーロッパ諸国が東アジアに進出していました。特にポルトガルは、インド西海岸のゴアを拠点とし、マレー半島のマラッカから明国に迫り、マカオを明から割譲して東アジア貿易の拠点としていました。また、明国の基本政策だった海禁政策(海外貿易を目的とした海洋航海を禁止する政策)に反発した人々(明国人、一部日本人)が、「倭寇(わこう)」となって、密貿易や海賊行為を行っていました。東アジアの外からヨーロッパ諸国、内からは倭寇が、明国を中心とした中華体制を脅かす存在となっていました。

 このような中で、建国からすでに200年以上を過ぎていた明の政治体制も必ずしも盤石なものではありませんでした。特に第14代皇帝万暦帝(ばんれきてい:在位1572~1620)にいたっては、側近の張居正(ちょうきょせい)が亡くなってから(1582年)は政務に全く興味を失い、国家財政を無視して個人の蓄財にはしっていたといいます。政府部内では、反宦官(かんがん)派の東林党と宦官の支持を受けた非東林党との対立が激化して混乱を招き、国外においては、ヌルハチ率いる満州の女真族(じょしんぞく)の圧力が強大化していました。しかし、政治に興味を失った皇帝の下では、何ら有効な手を打つことはできませんでした。おまけに、財政難から高い税金を課したため、民衆の不満も爆発寸前でした。結局、万暦帝が亡くなってから24年後の1644年、駅卒(えきそつ:馬の世話や口取りをする人)あがりの李自成(りじせい)らが反乱を起こし、明帝国は滅亡してしまいます。この明帝国の滅亡を招いた最大の戦犯は、万暦帝の失政であったといわれます。中国大陸の混乱はさらに続きます。この混乱に乗じて北から満州族(女真族)が攻め込んできて、李自成らを追い出して北京に入城してきました。清帝国の誕生です。

 このように、秀吉が唐入りを決断した時代とは、明国を中心として中華体制にほころびができていたとともに、明の国力も全盛期よりはかなり低下していた時代でした。

秀吉とイエズス会

 秀吉が唐入りを決断した頃、すでにシナ(中国)征服を企てている人々がいました。日本で布教活動をしていたイエズス会の代表アレッサンドロ・バリニャーノです。彼はスペイン国王(当時ポルトガルはスペインに併合されていた)・フェリーペⅡ世に書簡で、「国王陛下の征服事業の一つとしてシナ征服を実行すべきです。その際、日本には極めて勇敢で軍事訓練を積んだ兵士(武士)が数多くいるので、これを利用できます」と進言しています。また、マニラ司教のサラサ―ルもスペイン国王に対して、「東アジアの支配権を確立するために、シナ(中国)征服の遠征軍を送ってください。その際、シナ人の仇敵である日本人を味方につければ、遠征軍の負担も軽減できるでしょう。在日イエズス会に対日工作をするようご指示してください」と進言しています。

 ところが、この計画は実現しませんでした。その原因は、バリニャーノが天正10年(1582)に天正遣欧少年使節に同行して日本を離れた後に日本イエズス会の代表となったコエリョの方針にありました。コエリョは、日本と手を結ぶことなど考えていなかったのです。スペインのシナ征服計画を知った秀吉は(おそらく、イエズス会宣教師からこの計画を聞いて知っていたと思われます)、関白就任直後にコエリョを大坂城に招き、外航用の大型帆船二隻を船員付きで売ってほしいと頼みました。しかしコエリョは、秀吉の要求を拒否しました。そして2年後の天正15年(1587)、コエリョは、大砲を積んだフスタ船(平底の船で遠洋航海には適さない)で博多にいる秀吉の前に現れ、軍事力によって威嚇しようとしました。さらにコエリョは、日本のキリシタン大名である有馬晴信らにひそかに武器を提供し、内戦を誘発させようと目論んでいたともいわれます。シナ征服の前に日本を叩いてしまえというのがコエリョの狙いだったのです。これを見た秀吉は「バテレン追放令」を発し、宣教師の国外追放を命じました。ここに至って秀吉は、スペインと決別して日本独自でシナ征服(唐入り)を目指そうと考えるようになったのです。

対馬・宗氏の苦悩

 スペインから外航用の大型帆船を購入できる見込みがなくなった秀吉は、北九州から対馬経由で朝鮮半島に渡り(最短ルートの選択)、朝鮮半島を縦断して明国に攻め入る作戦を選択することになりました。そのため秀吉は、対馬の宗氏に対して、朝鮮国王を服属させて日本の唐入りに協力させるよう命じました。しかし、東アジアの冊封(さくほう)体制の中で明国と従属関係にあった朝鮮が容易に承諾するはずはありません。対馬の宗氏は、秀吉政権と朝鮮との間で板挟みになります。やせた土地で農業収入があまり期待できない対馬では、朝鮮との交易による収入が島の生計を支えていました。それゆえ、朝鮮との友好関係は維持しなければなりません。一方、今や日本の天下人となった秀吉の命令も無視はできません。ここで、宗氏の「二枚舌外交」が展開されることになります。朝鮮へは、日本の戦国の争乱もようやく終わり新王によって統一されたので、それを祝福する通信使を派遣して欲しい(唐入りのことは一切伏せて)と言って説得しました。それでも朝鮮側が重い腰をあげなかったので、日本に逃亡していた倭寇の首謀者(朝鮮人)を捕らえて引き渡すことによって朝鮮国王を説得し、ようやく朝鮮通信使の派遣が実現することになりました。一方秀吉には、祝賀のための使節であることは伏せて、朝鮮使節が来日することになったとだけ伝えました。当然のごとく秀吉は、朝鮮が日本に服属したものと勘違いして使節と相対することとなったのです。

 天正18年(1590)11月7日、秀吉は聚楽亭で朝鮮通信使を謁見し、朝鮮国王の国書(秀吉の日本国統一を祝賀する書)を受け取りました。それに対して、彼らを服属の使節と勘違いしていた秀吉が朝鮮国王宛てた返書の内容は、朝鮮通信使を驚かせるものでした。その内容とは、

  • 自分(秀吉)は直ちに大明国に入り、日本の風習、政化を中国全土に永遠に植え付けたい。
  • 朝鮮国は服属したのだから、自分が明征服の軍を出すときは、士卒を率いて馳せ参ずるよう。

というものでした。秀吉は朝鮮国王の服属を褒め、明征服の先導となることを命じたのです。二人の通信使は朝鮮国王に報告するため、急いで帰国の途につきました。

朝鮮政府 の油断

 翌年(1591年)正月に漢城(ソウル)に戻った朝鮮通信使は、秀吉の返書の内容を朝鮮国王に報告しました。ところが、二人の通信使の報告内容はまったく正反対のものでした。正使の黄充吉(こういんきつ)は、「秀吉は必ず攻めてきます」と報告したのに対して、副使の金誠一(きんせいいつ)は、「この返書は単なる脅しで、秀吉が攻めてくることはありません」と報告したのです。実は、朝鮮政府内では派閥抗争が激化しており、二人の通信使は異なる派閥から派遣されていたため、実態を無視したライバル意識むき出しの報告となってしまたのです。しかも、副使・金誠一と同じ派閥に属していた首相格の柳成竜(りゅうせいりゅう)が金の報告を正しいと認めてしまったため、朝鮮政府は誤った判断を下してしまうことになりました。結局、必要な防衛準備を怠った朝鮮政府は、緒戦において日本軍に大敗を喫してしまうことになるのです。

名護屋城築城

 朝鮮通信使の訪日により朝鮮が服属したと確信した秀吉は、翌年(天正19年〈1591〉)に関白職を甥の秀次に譲り、同年10月には唐入りの拠点となる名護屋城(肥前国松浦郡・現佐賀県唐津市)築城にとりかかりました。総奉行が浅野長政、縄張り(建物の配置設計)は黒田孝高(よしたか:官兵衛)が担当しました。突貫工事で築城がすすめられ、わずか8か月後の文禄元年(1592)に完成しました。標高90mほどの丘陵を中心に17万平方メートルの広さを持つ平山城(ひらやまじろ)です。当時としては、大阪城に次ぐ規模を誇っていました。名護屋城の城郭は、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪(さまざとくるわ:遊興のための屋敷や庭園)などが配置され、本丸の北西に五層七階の天守が築かれました。また、遺跡発掘調査により金箔を施した瓦が見つかっており、天守の屋根に使われたものと考えられています。秀吉は、この地に全国160か国の戦国大名を集結させ、30万人の兵士を動員したといいます。城の周囲3kmの範囲には、各大名の陣屋が120か所ほど築かれていました。 いよいよ、秀吉の唐入りの準備が整いました。

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文禄の役勃発

 天正20年(1592)3月、秀吉は約16万の兵を九軍に分けて朝鮮半島への渡海を命じました。4月、小西行長、宗義智(よしとし:対馬宗家の当主)らの第一軍が朝鮮半島南東の釜山浦に迫り、「仮途入明(かとにゅうみん:明入国の道案内)」を朝鮮政府に迫りました。「秀吉は攻めてこないだろう」とたかをくくっていた朝鮮政府は慌てましたが、宗主国・明に刃向かうことはできないとして、日本側の要求を拒否しました。ここに、日本軍と朝鮮軍との戦闘が開始されたのです。しかし、派閥争いの影響で戦闘(防衛)準備が十分でなかった朝鮮軍は守り切ることができず、釜山は日本軍に占領されてしまします。その後も次々と上陸してくる日本軍は、破竹の勢いで進軍し首都ソウルを目指しました。この勢いに危機感を持った朝鮮国王は、同月末、ソウルを脱出して平壌(ピョンヤン)に移りました。直後の5月3日の明け方、第一軍の小西行長と第二軍の加藤清正がソウルに入城し、ソウルは陥落しました。

 ソウル陥落の知らせを受けた秀吉は、同月16日、加藤清正らに占領政策について指示を発しました。内容は、朝鮮国王の捜索、戦いによって逃散した朝鮮住民を元の地に呼び戻すこと、乱暴狼藉を慎むこと、ソウルに秀吉の御座所を造営すること、そして、釜山からソウルに至る道路整備を行って各所に秀吉の宿所を用意することなどです。この時点で秀吉は、すぐにでも朝鮮に渡るつもりでした。しかし、それを押しとどめたのが徳川家康と前田利家です。渡海中に万一のことがあったら大変だというのがその理由でした。五奉行の一人・石田三成は、「朝鮮に在陣する日本軍の士気を揚げ統制を図るためにも、殿(秀吉)の朝鮮渡海は絶対必要だ」と主張しましたが、家康や利家に押し切られ、秀吉の朝鮮渡海は海が穏やかになる翌年の3月まで延期されることになりました。その代わり、石田三成・増田長盛・大谷吉継らが秀吉の指示書を携えて朝鮮奉行として派遣されることになりました。その指示の内容とは、朝鮮八道全域に代官を置いて直接支配すること、逃散していた朝鮮農民を村々に呼び戻して農耕を再開させ、年貢徴収が行われるようにすることなどでした。これを受けて日本軍は、朝鮮八道を第一軍から第八軍に割り当て、その支配体制を固めるため進軍していきました。小西行長は平壌、加藤清正は咸鏡道(かんきょうどう:朝鮮北東部)、黒田長政は黄海道(こうかいどう:朝鮮西部)、そして小早川隆景は全羅道(ぜんらどう:朝鮮南西部)といった具合です。

 同年6月、小西行長・宗義智の第一軍と黒田長政らの第三陣が平壌近郊まで進み、明国に通ずる道を開放するよう迫りました。しかし朝鮮国王はこれを拒否し、平壌を離れて明国との国境にある義州まで逃げ、明国に救援を求めることとしました。日本軍は、戦わずして平壌に入城しました。

明国軍参戦

 朝鮮国王の救援要請を受けた明は、朝鮮との国境付近に配備していた遼東兵を朝鮮半島に送り込みました(1592年6月)。これより、遼東兵(明軍)が主力となり、朝鮮軍は主に明軍の兵糧と馬糧の調達にあたることとなりました。そして同年7月、副総兵・祖承訓(そ しょうくん)率いる明軍が、小西行長らが守る平壌に攻め込みました。朝鮮兵からは、折からの雨でぬかるみができて道が滑るので、天候が回復するまで待った方がよいという進言があったのですが、祖承訓は聞かずに強引に攻め込んだのです。案の定、馬は泥濘に足を取られスピードが出ず、日本軍にとって格好の銃撃目標となってしまいました。結局、明軍は敗退してしまいます。この失敗後、明国の方針が大きく変更されました(…かに見えました)。日本と和議を結ぼうということになったのです(…しかしこれは、明の策略でした)。

和議交渉に隠された明の策略

 1592年8月、明国の和議交渉の使節・沈惟敬(しん いけい)が、平壌近郊までやってきました。日本側の交渉責任者は小西行長です。行長は惟敬に「日本が朝鮮に兵を出したのは、明国との通貢(貿易)を求めてのことだった」と説明しました。すると惟敬は、通貢するには北京にいる皇帝の許可がいるとして、50日間の停戦を求めました。行長はこれを受け入れ、平壌の西北10里に「休戦ライン」が敷かれました。ところが、これは沈惟敬の策略だったのです。明国軍は初めから日本側の要求をのむつもりはなく、50日間の停戦の間に本国から応援部隊を呼び寄せて、反撃体制を整える計画でした。緒戦において連戦連勝だった日本軍には油断がありました。翌文禄2年(1593)正月、沈惟敬主催の正月の宴に招かれた行長の家臣が、酒を飲まされて生け捕られるという事件が起きました。この時行長は、初めて騙されたことに気が付きました。緒戦の勢いに乗って明国との国境付近まで一気に攻め込む絶好のチャンスを、日本軍は逃してしまったのです。その宴の三日後、大砲などの重装備で武装した明国軍が平壌を強襲しました。日本軍は敗退し、ソウルまでの撤退を余儀なくされました。勢いに乗った明国軍はソウル近郊まで攻め込みますが、ここは日本軍も踏ん張りソウルの牙城は死守しました。明国軍は平壌に、日本軍はソウルに陣取り、にらみ合いの状態となりました。

日明講和交渉

 ソウル奪還に失敗した明軍は、日本軍の糧食を断つ作戦に転じます。1593年(文禄2)3月、ソウルに潜入した明軍の遊撃隊が、龍山にある日本軍の兵糧倉を焼き討ちしました。この作戦は成功し、約二か月分の兵糧が灰となってしまいました。ここに至って、日本側(小西行長)も和議に応じざるを得なくなりました。一方明軍首脳部にとっても、長期戦は避けたい事情があったのです。北方の女真族(じょしんぞく:満州族)が国境を越えて攻め込んでくる心配を抱えており、また皇帝・万暦帝(ばんれきてい)の失政により国内の政情も不安定さを増していたため、日本との和議はむしろ望むところだったと思われます。それに対して、領土を蹂躙され歴代国王の陵墓まで暴かれた朝鮮側は猛反発しますが、宗主国・明の決定には逆らえません。ここに、日本と明による和議交渉が再開されることになりました。

 文禄2年(1593)3月半ば、小西行長と沈惟敬の和議交渉が再開されました。その結果、翌月には次の3点が合意されました。

  1. 日本が捕虜にした朝鮮ニ王子は返す。
  2. 日本軍はソウルから釜山に撤退する。その後、明軍も朝鮮半島から撤収する。
  3. 明側から和議の使節を日本に派遣する。

 一応の合意は得られましたが、日本・明双方とも警戒を緩めたわけではありませんでした。同年5月、石田三成ら三奉行と小西行長に同行して明の「使節」が名護屋に到着しました。しかしこの使節は、明皇帝から正式に任命されたものではなく、明の対日総司令官(経略)である宋応昌(そうおうしょう)が、配下の二名(謝用梓と徐一貫)を「明皇帝の使節」と偽って派遣したものでした。かれらの目的は、日本に渡って秀吉と名護屋の様子を探ることでした。それとも知らずに、日本側は彼らを歓待しました。しかし、秀吉はあくまでも強気で、石田三成らを通じて「明使節」に和議七か条を提示しました。その主な内容は──明皇帝の皇女を日本の天皇の后とすること。(勘合)貿易を再開し、商船の往来を復活させること。朝鮮八道のうち、南部の四道を日本に割譲させること。朝鮮王子の一人を日本に人質として差し出すこと──などでした。この国書が「明国使節」に手渡されたのが6月末です。ふたりの「使節」はすぐさま帰国し、明皇帝にこの件を報告しました。

 あくまでも強気に攻める秀吉に対して、明国皇帝も大国の威信をかけて安易な妥協をする気配はみじんも見せませんでした。このままでは講和を結ぶことは難しいと感じた小西行長と沈惟敬(しん いけい)は、結託してある行動に出ます。彼らは、この戦を終結させるためには、秀吉の方から明皇帝に謝罪をし、明国の臣下になることを宣言するしかないと考えました。そしてあろうことか、「関白降表」なる秀吉の謝罪文を捏造し、秀吉に無断で明国側に提出することにしたのです。そこには、「明国皇帝陛下にひざまずき臣下の令をとります。この思いを朝鮮を通じてお伝えしようとしたのに、朝鮮が妨害したので、やむを得ず兵を起こしてしまいました。どうか私を日本国王として冊封(さくほう)していただきますよう伏してお願いします。」という内容がしたためられていました。秀吉が知らないとろろで、この「わび状」が偽造されていたのです。しかし、この行長がとった行動が、のちにとんでもない悲劇を生むことになるのです。

 行長は、家臣の内藤如安を偽りの「降伏使節」に仕立て、沈惟敬とともに北京に向かわせました。文禄3年(1594)12月、如安は「関白降表」を携えて北京の明皇帝に拝謁しました。その時如安は、明兵部(へいぶ)から次の条件を順守することを強要されました。日本軍の釜山からの撤退、日本と明の貿易は認めない、日本は朝鮮とともに明の属国となるので、朝鮮を侵犯しないと誓うという三条件です。如安がその場で順守を誓ったため、明皇帝は日本を許し秀吉への冊封(さくほう)授与を許可しました。そして翌年正月、秀吉を日本国王に封ずる国書(詰命)、冠服、金印を携えた冊封使が北京を出発しました。途中、明の正使が、──秀吉は冊封を受ける意思がない。日本へ渡った冊封使は、拘留されるだろう──という流言(半分は当たっているのですが)におびえて逃亡するなどの事件があり、日本到着が大幅に遅れました。一行が堺の港に着いたのは同年8月中旬のことでした。そして9月1日、大坂城で秀吉に謁見することとなりました。

和平定規決裂

 明皇帝が、日本との講和のためにわざわざ使節を派遣してくれたと信じていた秀吉は、明皇帝の国書、冠服、金印を受け取って上機嫌だったといいます。しかしその翌日、明の使節を大坂城で饗応する席で、西笑承兌(さいしょうじょうたい:外交文書の起草に関わっていた相国寺の僧)に明の国書を読み上げさせたとき、秀吉の顔面から笑みが消え怒髪天を衝く形相となりました。国書の一文、「汝を封じて日本国王となす」に激怒したのです。しかも、秀吉が提示した和議七か条については一言も触れていませんでした。結果、日明の和議交渉はあっけなく決裂となりました。騙されていたことを知った秀吉の怒りは、家臣の分際で自分をだました小西行長にも向けられました。「小西の首をはねよ」と命じた秀吉に対して行長は弁明し、「これは石田三成と示し合わせてのことです」と釈明したといいます。その後行長は許され、三成にもなぜかお咎めがありませんでした。一説によれば、彼らはこう弁明したのではないかといいます。「実は私どもも騙されていたのです。朝鮮側が策動して、『秀吉が悔い改め、冊封を願っている』というウソを明側に流したのです。』この弁明を信じた秀吉は、またしても朝鮮政府に騙されたと激怒し、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)を決意したというのです。

慶長の役

 慶長2年(1597)2月、秀吉から朝鮮再派兵の朱印状が出されました。目的は、日明講和交渉の際に日本側から出された朝鮮南部四道の割譲を実力で勝ち取ることでした。この戦いは、唐入りを目指した先の戦いとは全く様相が異なり、朝鮮本土への侵略戦争でした。秀吉の心の中には、朝鮮国王の「裏切り」に対する怒りが渦巻いていたものと思われます。いったんは、秀吉に服属して朝鮮半島内の日本軍進軍に協力するといいながら(実はこれは対馬・宗氏のウソでした)、その後攻撃に転じて日本軍の進撃を阻む行為に出たこと、挙句の果てには、明軍と結託して日本軍に刃向かってきたこと、日明講和交渉のさなか、秀吉が明皇帝にひれ伏して許しを請うなどという偽りの文書(関白降表:実はこれは、小西行長が作成したもの)を作成して講和交渉を台無しにしたことが、その理由です。問題を先送りにして、その場を取り繕うためについたウソが、何の解決も引き出さないばかりか、さらに大きな悲劇を生む結果となりました。

 同年7月、日本軍の多数の船が釜山沖に現れました。迎え撃つ朝鮮水軍の司令官は元均(げんきん)です。先の戦で日本水軍を苦しめた勇将・李舜臣(り しゅんしん)の姿はそこにはありませんでした。実は、朝鮮政府部内の派閥争い(東人派と西人派)に巻き込まれ、李舜臣は失脚していました。このことが日本軍に幸いしました。巨済島漆川梁(こじぇとう しっせんりょう)の海戦で日本軍は勝利し、難なく半島上陸に成功しました。一方、この戦いで朝鮮水軍は壊滅的な打撃を受け、司令官・元均も戦死してしまいました。こののち日本軍は、左右二手に分かれて朝鮮半島南部を北へと進軍していきました。総大将・小早川秀秋は釜山(慶尚道〈けいしょうどう〉:半島南東の地域)にとどまって全軍の指揮を執り、左軍は宇喜多秀家を大将として慶尚道から全羅道(ぜんらどう)へ、右軍は毛利秀元を大将として慶尚道から忠清道(ちゅうせいどう)へと兵を進めました。これを迎え撃つべく、明・朝鮮連合軍は、慶尚道と全羅道の境にある南原城(なんげんじょう)と黄石山城(こうせきさんじょう)の守備を固めました。しかし、日本軍の勢いを止めることはできず、同年8月、南原城も黄石山城も陥落してしまいました。慶尚道北の防衛線を突破した日本軍はさらに北上し、同年9月には、首都ソウルをうかがう位置にまで侵攻しました。

 この戦況を打開するため、明政府は約四万の兵を三軍(左軍・中軍・右軍)にわけてソウルに送り込み、これに朝鮮軍も加わって日本軍と対峙しました。戦局は一進一退を繰り返し、膠着状態となりました。一方海上戦でも、戦死した元均の代わりに朝鮮水軍司令官に復帰した李舜臣の活躍で、日本水軍は苦戦を強いられるようになり、日本からの兵糧輸送にも支障をきたすようになっていました。

 日本軍、明・朝鮮連合軍双方が疲弊する消耗戦となったこの戦いが、ある日突然終結します。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は波乱万丈の生涯を閉じて永遠の眠りにつきました。享年63歳でした。膠着状態の戦況に先の展望を見失っていた日本軍は、即座に朝鮮からの撤退を決めました。ここに、秀吉が夢見た「東アジア支配構想」は完全に夢と消えました。

鼻切

 慶長の役は朝鮮侵略戦争であり、日本軍による残虐行為が数多く行われたともいわれます。主なものとしては、

  • 特に全羅道において、老若男女を問わず虐殺した。日本軍に対する民衆の抵抗(ゲリラ活動)が特に激しかったのが全羅道だった。
  • 数々の財宝・文化財を略奪して日本に持ち帰った。
  • 朝鮮人を拉致して日本に連れ帰ったり、スペインやポルトガルの奴隷商人に売り払った。

 特に、現地の人々の鼻を削ぎ、それを塩漬けにして日本に送るという行為も行われました。初めのうちは、戦いで討ち取った敵の首の代わりに鼻を削いでいた(首は重くて日本に運ぶのが大変だったから)のですが、そのうちに一般の民衆の鼻を生きたまま削いで送るという不届き者が数多く現れたといいます。慶長2年(1597)9月、秀吉は京都の方広寺に鼻塚(「耳塚」として現存)を建立し、戦で亡くなった明・朝鮮兵士らの供養を行ったと伝えられます。しかしこれも、秀吉の偽りの「慈悲」を示す虚構だという厳しい批判があります。

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秀吉が唐入りを決意したわけとは?

 秀吉が唐入りを決意したわけについては諸説ありますが、どれも決め手とはなっていないようです。その中で代表的なものを、いくつか挙げてみます。

 まずは、鶴松死亡説です。淀殿との間に最初に生まれた子・鶴丸がわずか3歳で亡くなった(天正19年〈1591〉8月)のを嘆き、唐入りを決意したというものです。江戸時代初期の儒学者で徳川家康のブレーンの一人だった林羅山(はやしらざん)が、その著書『豊臣秀吉譜』の中で「(秀吉は)愛児鶴丸を喪ったその憂さ晴らしで(朝鮮に)出兵した」と書いてから、この説が多くの人々に支持されるようになりました。しかし前述したように、鶴松の死去以前から秀吉が唐入りの意思を固めていたのは事実です。鶴丸の死の1年前(天正18年〈1590〉11月)、秀吉は朝鮮から渡ってきた通信使に対して、「日本軍は明国に攻め入る。その際は士卒を率いて馳せ参ずるように」と命じています。その拠点となる名護屋城の築城準備も進めていました。よって、この林羅山の見解は、秀吉という人物の価値を著しく貶める意図をもった虚言だといわざるを得ません。

 次は功名心説です。秀吉は自らを「英雄」と賛美し、功名心を満足するために明国征服を企てたというものです。その根拠の一つは、秀吉が朝鮮国王に送った国書の内容でした。「只だ佳名を三国に顕わさんのみ(わしの目的は自らの名をアジアに轟かすことだ)」と書いてあったからだといいます。しかし唐入りは、莫大な費用と多くの兵の犠牲を伴う極めてリスクの大きなプロジェクトです。秀吉ならば、そのことは十分に理解していたはずです。単に功名心だけで踏み切れるものではないと思われます。もし、(巷間言われているように)秀吉がもうろくしてこのような「大言壮語」を発したとしたら、徳川家康はじめ多くの家臣たちが必死に止めたはずです。多くの大名衆が名護屋に陣屋を築いて、秀吉の号令の下朝鮮半島に侵攻していった事実を見れば、彼らを納得させる何か明確な理由があったからだと考えるのが自然ではないでしょうか。少なくとも、秀吉の功名心を満足させるためだけでは、彼らは積極的に動くことはなかったと思われます。

 もう一つは、領土拡張説です。信長から秀吉の時代を経て、日本社会では兵農分離が急速に進んでいました。平時は土地を耕し作物を収穫するという生活を営み、いざ戦が始まれば武器をもってはせ参じるという戦国時代初期の姿は影を潜め、領主から俸禄をもらって日々鍛錬をし、戦が始まれば領主の命令の下に先陣を競って戦場に赴くという職業軍人が主流となっていました。ところが、日本国が平定され平和が訪れると、彼ら職業軍人の活躍の場はなくなり、戦場で手柄を立てて出世するという道も閉ざされてしまいます。その彼らを救済するためには、新天地に侵攻してあらたな領土を獲得する必要がありました。唐入りという戦いの場を与えられた多くの兵士は、新領土の領主となることを夢見て参戦し、旧来の領主たちは、自分たちの領土を拡張するために率先して参戦していったということです。この説は、上記二つの説に比べれば、やや現実的であり得ない話ではないように見えます。しかし、平和な社会到来によって職にあぶれた兵士を救済するためとはいえ、明国に攻め込むのは危険な賭けと言わざるを得ません。

 最後にもう一つ紹介したいのが、対外危機説(安全保障対策)です。秀吉の時代は世界史的には大航海時代真っただ中で、西からはポルトガルが、インドからマレー半島・セイロン島に侵略し、さらに中国領のマカオを割譲して東アジア貿易の拠点としていました。次の標的(植民地化)は、日本や明国であることは疑いようのない情勢でした。一方スペインは、アメリカ大陸を侵略したのち太平洋を越えてルソン(フィリッピン)を植民地化していました(1580年、スペインがポルトガルを併合したため、以降はすべてスペインの植民地となっています)。このような情勢の中で、日本で布教活動をしていたイエズス会の代表・バリニャーノやルソン司教のサラザールがスペイン国王に対して、「明国征服を実行すべきです。その際は日本を味方につけましょう。その工作活動を許可してください」と進言していたことは(本稿「唐入りに至るまで~秀吉とイエズス会」参照)、秀吉の耳にも入っていたと思われます。あるいは直接聞いていなくても、スペインやポルトガルがインドや東南アジア諸国にしてきたことを見れば、次は日本や明国がターゲットになるということは、容易に想像できたはずです。そして、たとえ最初のターゲットが明国で、日本がそれに協力したとしても、その後日本が彼らの餌食になるかもしれないという危機感は持っていたはずです。ならばどうするか──先んずれば人を制す⇨スペインが明国に攻め入る前に、日本が明国を征服して強大な国家体制を造り上げ、日本国の植民地化を阻止する──そう、秀吉は考えたというのです。秀吉は、関白職を譲った秀次に対して、「明国を征服したのちは天竺(インド)、ルソンまでも手に入れる」と豪語しています。インドやルソンは、当時スペインの植民地でしたから、スペインとは一戦交える覚悟で対峙していこうと腹をくくっていたと考えられます。「座して死を待つよりは、出でて活路を見出さん。(諸葛孔明)」という心境だったのではないでしょうか。

唐入りは「夢物語」?

 私は、秀吉が唐入りを決意した本当の理由は、覇権国スペインの東アジア侵略から日本を守る(対外危機説)ためだった可能性が高いと考えます。秀吉に対する「人格攻撃」を横において冷静に考えてみると、これが一番必然性がある説だと思うからです。もちろん、唐入りの成功の可能性があり、決して「夢物語」ではなかったということが前提ですが…。

 この時期の日本の陸軍部隊は世界有数の精鋭部隊だったといえます。秀吉が一声かければ、30万の兵が直ちに名護屋に集結しました。しかもこの精兵たちは、戦国時代の戦乱の中で鍛え抜かれた精鋭ぞろいで、戦いの経験も豊富でした。さらにこの国では、わずか半世紀前に伝来した鉄砲を基に、その製造技術をものにして量産化を実現させていました。戦乱の時代であったこともあり、鉄砲は全国に普及し、その所持数は全世界の半数にも達していたといいます。秀吉時代の日本陸軍は、世界でもトップクラスの実力を兼ね備えた軍隊だったといえます。一方、当時の明国は、建国から200年以上経って、様々な問題を内部に抱えていました。政府部内で専権を振っていた宦官(かんがん)に対抗する東林派が台頭し、反東林派(宦官派)と激しく対立していました。しかし、第14代皇帝・万暦帝(ばんれきてい:在位1572~1620)は、個人の蓄財と浪費にはしり政務に対する興味を全く失っていました。1644年(秀吉没後46年)に内紛で明国は滅び、その直後に女真族(じょしんぞく:満州族)のヌルハチが中国本土に攻め込んで清国を建国するのですが、この明国の滅亡は、万暦帝の失政によるところが大きいといわれます。要は、明国も決して万全ではなかったということです。女真族のヌルハチが中国本土に攻め入り清国を樹立したときは、──明国が内紛で滅びた直後という事情はありましたが──最初はわずか1万の兵で攻め込み成功に導いたといいます。対して、秀吉が朝鮮経由で明に送り込んだ兵は、16万にのぼり、さらに名護屋城には14万の兵が待機していました。これらの状況を考えれば、秀吉の唐入りは決して「夢物語」ではなかった──少なくとも秀吉はそう思っていたに違いないと思われます。しかし秀吉は失敗しました。その原因はどこにあったのでしょうか。

 第一の要因は、情報収集能力の不足です。秀吉は当初、対馬・宗氏の「二枚舌外交」に騙され、朝鮮国王が日本に服属し、日本軍の明国入りに協力すると信じていました(本稿「唐入りに至るまで~対馬・宗氏の苦悩」参照)。この情報認識の誤りは、戦いの成否を左右するほどの大問題でした。あらかじめ朝鮮政府が抵抗するとわかっていれば、水軍の充実を図るとか、場合によっては明侵攻のルートを見直す(そのためには外洋を航行できる帆船の調達が必要となりますが)ことも考慮しなければなりませんでした。また、朝鮮半島から攻め入るにしても、一気に攻めあがるのではなく、防衛ラインや兵糧の確保を最大限に配慮することが必要でした。釜山に上陸してからわずか3か月ほどで平壌まで戦線を拡大した結果、朝鮮各地で起こった民衆の抵抗に苦しめられ、兵糧の調達もままならないなど苦戦を強いられる結果となったのです。

 次にあげられる要因は、日本軍内部の指揮系統が不明確だったことです。重要な指示は名護屋城にいる秀吉から発令されていましたが、これを伝達するには時間がかかりすぎました。緒戦でソウルを陥落した直後、名護屋城にいた石田三成は、朝鮮半島に在陣する日本兵の士気を高め統制を図るためにも、秀吉の朝鮮渡海を強く主張しました。秀吉も、自ら朝鮮に渡るつもりで準備をしていました。しかし、渡海中に万一のことがあったら大変だということで、徳川家康や前田利家が猛反対し、結局石田三成、増田長盛、大谷吉継が朝鮮奉行として秀吉の指示書を携えて朝鮮に渡ることになりました。しかし、彼らでは、日本軍の猛者連中をまとめていくのは容易ではありません。さらには、小西行長と加藤清正の対立も、軍の統制を乱す要因となっていました。その小西行長が、明の沈惟敬(しんいけい)の策略にはまり50日間の停戦協定を結んだことがケチのつき始めとなりました。停戦期間中に反撃の準備を整えた明軍によって、日本軍は平壌を追い出されソウルまで撤退することになりました(本稿「文禄・慶長の役~和議交渉に隠された明の策略」参照)。さらに、戦局が膠着状態となった文禄2年(1593)3月、小西行長と沈惟敬との和議交渉が再開されたときも、行長は意外な行動に出ます。秀吉が明皇帝にひざまずき、謝罪して臣下の令を執るという「関白降表」なる文書をでっち上げ、これを明皇帝に提出して事態を打開しようとしたのです。結局これが秀吉にばれて怒りをかい、慶長の役における朝鮮人虐殺(は、少なからずあったと思われます)という悲劇を生む要因の一つとなったのです。あの時、石田三成の進言を受けて秀吉が朝鮮に渡り、日本軍を統率・鼓舞していれば、もっと違った結果になったかもしれません。

 いずれにしても秀吉は敗れ、敗者は歴史の中で徹底的にたたかれ、「誇大妄想狂」、「自己陶酔型英雄病」などと罵声を浴びせられる結果となりました。一方で、元を建国したチンギス・ハーンや清を建国したヌルハチは、成功者であるがゆえに「大英雄」として今でもたたえられています。「勝てば官軍」──歴史の評価とは、かくも単純明快かつ残酷なもののようです。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 北島万次著『秀吉の朝鮮侵略』(山川出版社)
  • 山室恭子著『黄金太閤』(中公新書)
  • 三鬼清一郎著『豊臣政権の法と朝鮮出兵』(青史出版)
  • ルイス・フロイス著・松田毅一訳『完訳フロイス日本史』③織田信長編Ⅲ(中公文庫)
  • 寺田隆信著『物語中国の歴史』(中公新書ワイド版)
  • 名越二荒之助著『日韓2000年の真実』(国際企画)
  • 高橋弘一郎著『キリシタンの世紀』(岩波書店)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史』10~11巻(小学館)


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