ー甲斐健の旅日記ー

豊国神社/稀代の天下人・豊臣秀吉をまつる神社

 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都府東山区にある神社で、豊臣秀吉を祭神としてまつる神社です。

 慶長3年(1598)8月18日に亡くなった秀吉の遺骸は、翌年、秀吉の遺言によって阿弥陀ヶ峰山頂(現:京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町:秀吉が建立した方広寺大仏殿の東方に位置する)に葬られました。そして、その中腹に秀吉を祀る廟所(びょうしょ)が造られました。これが豊国神社の始まりです。このとき、後陽成(ごようぜい)天皇から「豊国大明神」の神号を賜ったといいます。かくして秀吉は神となったのです。ところが、慶長20年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川家康の意向によって「豊国大明神」の神号は剥奪され、神社の社領も幕府によって没収されてしまいました。さらには、廟所への参道の道の真ん中に別の神社を移設し、参拝すらできないように道をふさぐという徹底ぶりだったといいます。江戸時代は、豊国神社にとっては不遇の時代でした。

 豊国神社が復活したのは明治になってからでした。慶応4年(1868)4月、大阪に行幸した明治天皇が、「天下統一を果たした秀吉は、幕府をつくらず天皇を尊重した人物」と再評価し、豊国神社の復興を命じたのです。さらに鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じました。明治6年(1873)には別格官幣社(べっかく かんぺいしゃ)となり、明治13年(1880)には、現在の地に社殿が再建されました。さらに、明治30年(1897)には阿弥陀ヶ峰山頂に石造りの巨大な五輪搭が建てられ、その翌年に「豊太閤三百年祭」が盛大に執り行なわれました。なお、この石塔工事の際に、土中から秀吉の遺骨(と思われる骨)が発見されました。その後、この遺骨は同じ場所(阿弥陀ヶ峰山頂)に再埋葬されたそうです。

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 豊国神社へは、 京都駅からですと、市バス100,206,208系統に乗って、「博物館・三十三間堂前」で下車します。バス停北にある京都国立博物館の北側に隣接するのが豊国神社です。バス停近くの交差点(大和大路七条)を北に5分ほど歩くと右手にあります。

 石段を登って大きな鳥居をくぐると、正面に唐門が見えます。西本願寺や大徳寺(いずれも京都市)の唐門と並び称され、国宝三唐門の一つとされます。建立は桃山時代(豊臣秀吉が政権を握っていた約20年間)です。この唐門は当初、秀吉の居城の一つだった伏見城の城門でした。伏見城が廃城となった後は二条城へ移築され、さらに南禅寺の塔頭(たっちゅう)・金地院(こんちいん)へと移されていましたが、明治期になって豊国神社が再興されたとき、この地に移築されました。この唐門は総ケヤキづくりで、扉の全面や屋根下の欄干には、名工とうたわれた左甚五郎の彫り物が施されています。扉には、「鯉の滝登り」の彫刻があり、驚くほどの立身出世をした秀吉をまつる神社らしい装飾です。また、正面屋根下の欄干に掘られたツルは「目無しの鶴」と呼ばれ目玉がありません。このツルの出来栄えがあまりにもよかったため、目を入れるとそのまま飛び去ってしまうのではないかと心配した作者が未完成のままにしたと言い伝えられています。豊国神社では、秀吉の馬印・千成瓢箪にちなんだひょうたん形の絵馬(開運・縁結び)と、わらじの形をした『仕事絵馬』(出世・金運)が用意されており、多くの人の願いを込めて、門前に懸けられています。唐門からは拝殿と本殿をのぞむことができます。門は普段は通ることはできませんが、ご祈祷の時または正月三が日だけは開放されるそうです。

 唐門の左右には慶長年間につくられた石灯篭が8基並んでいます。秀吉につかえた武将たちから寄進されたもので、灯篭には寄進された武将の名前が刻まれています。

 境内の奥、本殿の南に宝物館があります。大正14年(1925)、当時としては最新鋭の建築技術を駆使して造られた鉄筋コンクリートの建物に、秀吉ゆかりの貴重な史料が収蔵されています。主な展示品を列記します

  • 鉄燈篭(てつどうろう)
    秀吉の三回忌に奉納されたもの。高さは約2.7m。千利休の茶釜も手掛けたという名工・辻与ニ郎の作とされます。
  • 豊国祭礼図屏風
    桃山絵画の傑作と言われ、日本史の教科書にも掲載されたことのある有名な屛風画です。慶長9年(1604)、秀吉の7回忌に豊国神社で催された大祭礼の様子を、豊臣秀頼お抱え絵師の狩野内膳が描いたものです。当時の京の街並みや、祭りを楽しむ人々の様子が活き活きと描かれている大作です。
  • 豊臣秀吉公御画像
    大正14年(1925)に宝物館ができたとき、政治家で絵画コレクターの九鬼隆一氏から奉納されたもので、秀吉の家臣・田中吉政(元・豊臣秀次の家老、関ケ原の戦いでは東軍に属した。関が原から逃れてきた石田三成を、古橋村〈現・長浜市〉で捕縛した武将として有名)が高台寺に寄進した画像を模写したものだそうです。
  • 北政所あての秀吉の文
  • 秀吉公宸筆(しんぴつ)の御詠歌
  • 「豊国大明神」の書(加藤清正筆)
  • 豊国神社境内図面(慶長4年当時)


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