ー甲斐健の旅日記ー

護国寺/徳川5代将軍綱吉が、生母桂昌院のために建立した寺院

 護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区にある真言宗豊山派の寺院です。山号は神齢山(しんれいさん)といいます。徳川5代将軍綱吉が、将軍となった翌年の天和元年(1681)2月に、生母・桂昌院のために建立を決意し、堂宇(どうう)は翌年完成しました。開山は、上野国(群馬県)高崎の大聖護国寺(だいしょうごこくじ)の住持・亮賢(りょうけん)です。本尊は、桂昌院の念持仏(ねんじぶつ:個人が私的に礼拝する仏像)だった天然琥珀の如意輪観音像(絶対秘仏)です。

 明治6年(1873)、明治天皇の第一皇子が薨去したのを機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地となりました。明治16年と大正15年に大火に見舞われ多くの堂宇が失われましたが、本堂、仁王門、惣門はかろうじて焼け残り、現在も往時の姿を私たちに見せてくれています。境内には、幕末から明治初期に活躍した、三条実美、大隈重信、山県有朋らの墓があります。

このページの先頭に戻ります

 東京メトロ護国寺駅で下車し、③番出口から地上に出て、不忍通りの交差点を渡ったところに、護国寺の入口となる仁王門があります。ここから境内に入っていきます。

 仁王門は、元禄10年(1697)の建立とされます。切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の八脚門です。正面の両脇には金剛力士像、背面には二天像(右:増長天、左:広目天)が安置されています。

 仁王門をくぐって参道を歩いていくと不老門に通じる石段があります。その手前に蓮葉型の手洗水盤があります。徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院より寄進されたものです。元禄10年(1697)頃の、江戸の鋳物師・椎名伊豫良寛(しいないよよしひろ)の作といわれています。この水盤には、護国寺境内の湧水が利用されてぽり、自噴式の大変珍しいものだそうです。

 石段を上りきったところに、不老門があります。昭和13年(1938)に、和歌山県選出の衆議院議員・三尾邦三氏(立憲政友会)の寄進により建立されました。屋根は入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)で、正面と背面に軒唐破風(のきからはふ)が施されています。「鶴は千年、亀は万年」といわれるように、この門をくぐると病気にならず長生きできるようにとの願いが込められているといいます。門に掲げられた扁額の「不老」という文字は、徳川家16代当主・徳川家達(いえさと)の筆によるものです。

 不老門をくぐって左側に進むと、一言地蔵尊(ひとこと じぞうそん)が祀られているお堂があります。どんな願いでも、一言だけ聞き届けてくれるのだそうです。また、このお堂のすぐそばには、身代地蔵尊(みがわり じぞうそん)がいらっしゃいます。こちらは、危難を被りそうになった人々の身代わりになって守ってくれる有難いお地蔵さんです。

 一言地蔵尊のお堂の北側には多宝塔があります。これも、昭和13年(1938)建立です。滋賀県大津市にある石山寺の多宝塔(国宝)を模写したもので、建築家で茶人の仰木敬一郎氏が設計したものです。堂内には、團(だん)芳子氏(三井財閥の総帥・團琢磨氏の奥さん)が寄贈した大日如来(だいにちにょらい)像が安置されています。多宝塔の裏(西側)に月光殿があります。昭和3年(1928)、滋賀県大津市の三井寺(みいでら)の塔頭(たっちゅう)・日光院の客殿をこの地に移築したもので、桃山時代(1573~1614年)の書院様式を伝える遺構としてとして貴重な建物だそうです。

 不老門の右手には大師堂があります。元禄14年(1701)に建立された旧薬師堂を、大正15年(1926)になって修理し、現在の地に移築したものです。宝形造(ほうぎょうづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。堂内には、高祖として弘法大師、宗祖として興教大師(こうぎょうだいし:真言宗中興の祖)、派祖として本覚大師(真言宗広沢流の租)の三尊が安置されています。

 不老門をくぐって、まっすぐ進んだ先に本堂があります。元禄10年(1697)に建立され、関東大震災や第二次世界大戦の戦禍にも耐えて、往時の姿を今に残しています。正面7間、入母屋造(いりもやづくり)瓦棒銅板葺(かわらぼう どうばんぶき)の雄壮な建物です。護国寺本尊は、桂昌院の念持仏でる天然琥珀(こはく)製の如意輪観世音菩薩ですが、現在は絶対秘仏(完全非公開)となっています。そのため、堀田正虎(徳川5代将軍綱吉の治世前半で大老として活躍した堀田正俊の次男)の母・栄隆院が寄進したとされる如意輪観世音菩薩像(元禄期に製作されたもの)が、本堂本尊として祀られており、毎月18日に御開帳されています。

 本堂の左手(西側)には、薬師堂と忠霊堂が建っています。薬師堂は、元禄4年(1691)に、一切経堂として建立された建物を、薬師堂として使うためにこの地に移築されたものです。三間四面の宝形造(ほうぎょうづくり)桟瓦葺(さんがわらうき)の屋根には青銅製の宝珠が載っています。柱間に花頭窓(かとうまど)が施されているなど、禅宗様式の特徴を兼ね備えています。堂内には本尊の薬師如来像とそれを守るように十二神将像が安置されています。

 忠霊堂は、明治35年(1902)、日清戦争(明治27~28年)で戦死した人々の遺骨を埋葬するために造られた多宝塔の拝殿として建立されました(現在多宝塔はありません)。

 仁王門から少し離れていますが、宗務所や幼稚園をはさんだ東側の駐車場の南に惣門(そうもん)があります。本坊に通ずるところにあるこの門は、大名屋敷の表門のように重厚感のある構えとなっています。建立時期は元禄年間と推定されています。大名屋敷の表門で現存するものはほとんどが江戸後期のものであるため、護国寺の惣門は大変貴重な遺構となっています。将軍綱吉や、その生母・桂昌院お成りのために造営された、きわめて格式の高い門です。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報

このページの先頭に戻ります

popup image