ー甲斐健の旅日記ー

中野巨大犬屋敷/徳川5代将軍綱吉が、生類憐みの政策を推し進めるために造った巨大施設

 江戸時代、東京都中野区役所周辺に巨大犬小屋が建っていたことをご存知でしょうか。広さは当初の16万坪から最終的には30万坪(東京ドーム20個分)となり、多い時には10万頭の犬が収容されていたといいます(『徳川実記』)。この中野の犬小屋が建てられたのは、徳川5代将軍綱吉の時代で、「悪名」高き生類憐みの令が施行されていた元禄8年(1695)11月のことでした。

 生類憐みの令の一環で「犬愛護」が強調されたため、江戸の町や近郊には野生犬が激増しました。──彼ら野生犬が道行く人々に吠えかかったり噛みついたりする。しかし人々は、処罰を恐れて何も抵抗できない。さらには、野犬が捨て子を食べるという事態まで起きてしまう。ついには、陰でこっそり犬を殺し虐待するものまで出てくる。──この事態に、幕府はたまらず、犬を保護するための収容施設建設を決断したのでした。巨大犬小屋は、中野、四谷、大久保の三か所に造られましたが、その中でも中野の犬小屋は群を抜いて大きかったといいます。

 江戸市中から犬を減らすという幕府の方針は、野生犬だけではなく民間で飼っている犬にまで及ぶこととなり、ついには江戸の町から犬が消えてしまうことになりました。巨大犬小屋の維持には多額の費用(約9万8千両/年)が必要となり、江戸市民から「御犬上ヶ金」を徴収して賄ったといいます。それにしても、「犬愛護」のためとはいえ、江戸中の犬(飼い犬も含む)を犬小屋に押し込める政策は、かえって犬の虐待につながるという厳しい意見もあります。強引に引き裂かれた飼い主と飼い犬の心中は察するに余りあります。

 宝永6年(1709)、将軍綱吉が亡くなると、中野の犬小屋は直ちに撤去されました。犬小屋があった広大な土地は、もともとの所有者であった中野村の百姓たちに返されたのですが、収容されていた犬たちの行方は、史料が残っておらず不明だそうです。8代将軍吉宗の時代には、この地に桃の木が植えられ茶屋などもあったことから「桃園」と呼ばれ、現在も地名として残っています。今は、この地に中野区役所が建っており、建物のそばに置かれた犬の像だけが往時の様子を思い起こさせてくれるだけです。

 ところで、生類憐みの令は、将軍綱吉が嫡男徳松の死後に後継のできないことを悩み、側近の僧侶ら(亮賢、隆光)の進言──後継ができないのは前世での殺生が原因で、生類を(将軍は戌年なので特に犬を)大事にすれば、子が授かるでしょう──を受けて発令したもので、きわめて「私的」な「悪法」だと評価されてきました。しかし近年、この評価を見直そうという動きが数多くなってきています。実際、綱吉が憐みの対象とした生類は、「御犬様」だけではなく、捨て子や病人、捨て牛馬や鳥獣類など広範にわたっています。綱吉の狙いは、戦国時代以来の殺伐とした慣習(旗本奴や町人奴の抗争、放火や打ちこわし、辻斬りなど)を改めさせ、平和な安定した社会を築くため、人々の心に「仁心」「慈悲の心」を涵養(かんょう:無理せずにゆっくりと養い育てること)させることだったというのです。詳細については、『コラム 徳川5代将軍綱吉は「バカ殿」だったのか、はたまた「名君」だったのか?』を参照して戴ければ有難いです。

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 綱吉が建設した巨大犬屋敷は、今はその痕跡すらありません。わずかに、JR中野駅(東京都中野区)北口にある中野区役所前(西側)にある犬の像が、当時の面影を伝えています。この犬の像は、東京セントラルライオンズクラブが、1991年10月に寄贈して設置されたものだそうです。



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