ー甲斐健の旅日記ー

湯島聖堂/徳川5代将軍綱吉が儒学を奨励するために造った「学問教育の聖地」

 湯島聖堂(ゆしませいどう:東京都文京区)は、元禄3年(1690)、徳川5代将軍綱吉によって建造された孔子廟(びょう)かつ幕府直轄の学問所です。林家(徳川幕府の文教をつかさどった家、租は林羅山)の学問所も併設されていました。「学問教育の聖地」「日本の学校教育発祥の地」とも呼ばれ、今でも受験シーズンになると多くの受験生が参拝に訪れています。

 湯島聖堂の起源は、徳川家康の命で林羅山が上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に設けた孔子廟だったといいます。羅山は忍岡で儒教の始租・孔子を祀るとともに私塾を開いて儒学の振興に努めていました。これら施設の維持運営は、代々の林家当主が継承していました。その後元禄3年(1695)、儒学の振興に熱心だった徳川5代将軍綱吉が、湯島の地に孔子廟を移し「大成殿」と命名しました。同時に林家の私塾もこの地に移し、儒学教育の振興に力を注いでいきました。その後、8代将軍徳川吉宗の実学重視の方針などもあって儒学(朱子学)は不振となり、湯島聖堂廃止の議論すら起きたといいます(『甲子夜話』より)。しかし、老中松平定信が政治の実権を握り、寛政異学の禁(寛政2年<1790>)を発令し、儒学の中の朱子学を正学として他の学問を規制したことから、聖堂の役割も見直されました。寛政9年(1797)には、林家の私塾だった学問所が幕府の直轄となり、「昌平坂学問所」(通称「昌平黌」<しょうへいこう:昌平は孔子の生まれた村の名前にちなむ>)が開設されました。さらに2年後の寛政11年には、湯島聖堂の大改築が行われました。

 明治維新後は、聖堂・学問所ともに明治新政府の管轄下におかれました。しかし、学問所においては儒学だけではなく国学などの他の学問も学ぶ教育機関になったため、特に儒学派と国学派の対立が激化し、結局、明治4年(1871)昌平黌は廃校となりました。同年、この地に文部省が設置されました。また、我が国最初の博物館(現・東京国立博物館)が建てられ、翌年には東京師範学校(現・筑波大学)、我が国初の図書館である「書籍館」、明治7年(1874)には東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)が設置かれるなど、「学問教育の聖地」の地位は揺らぐことはなかったのです。

 湯島聖堂は、大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受け、入徳門と水屋を残しすべて焼失してしまいました。その後、昭和10年(1935)、東京大学伊藤忠太教授の設計により、寛政時代の姿を再現する形で再建されました。これが現在の湯島聖堂です。また、学問所跡地のほとんどは、現在東京医科歯科大学の湯島キャンパスとなっています。

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 湯島聖堂は、JR御茶ノ水駅で下車して、駅の北を流れる神田川にかかる聖橋(ひじりばし)を渡って少し歩いた(1~2分)ところの右手にあります。聖橋側(境内西)から入るのが近道ですが、境内の東側で神田川沿いの道路(外堀通り)に面した入口が正門で、こちらが「正式ルート」のようです。

 正門から入ると、すぐ左手に仰高門(ぎょうこうもん)があります。聖堂の惣門(そうもん:外構えの大門、総門)です。元禄期の門が震災により焼失したため、昭和10年(1935)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の門です。「仰高」の名の由来は、孔子がどんな人物かと尋ねられた弟子の顔回が、「先生は仰げば仰ぐほど高さを増す素晴らしい人です」と答えたことによるといわれています(『論語』子罕<しかん>第九より)。江戸時代、仰高門東舎での儒教経典の講義は「仰高門日課」と呼ばれ、武士だけでなく町人も講義を受けることができたそうです。扁額にある「仰高」の文字は、もともと藤原氏北家の流れをくむ持明院基輔の筆でしたが、震災で焼失したため、現在の額は水戸徳川家第13代当主・徳川圀順(くにつぐ)の書です。

 仰高門をくぐって参道をしばらく進むと、右手に孔子廟(大成殿)に通じる入徳門(にゅうとくもん)があります。徳川綱吉がまだ将軍だった宝永元年(1704)の建造で、関東大震災の被害を免れ往時の姿を今に残しています。切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の門です。「入徳」の名は、『大学章句 経』の中の「子程子曰、大學孔氏之遺書、而初學入德之門也」(『大学』は孔子の遺書すなわち孔子が弟子に伝えた生前の言葉であって、初学者が道徳の道に入る入徳門である)に由来するといわれます。なお、扁額の「入徳門」は、藤原氏北家の流れをくむ持明院基輔の筆になるものです。

 入徳門から石段を登っていくと、杏壇門(きょうだんもん)があります。この杏壇門から、孔子廟のある大成殿までは、廻廊でつなげられています。杏壇門も昭和10年に再建されました。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の門です。杏壇は、中国山東省曲阜(きょくふ:孔子の生地)にある孔子の講堂遺跡です。宋の時代に講堂の周りに杏が植えられ、その門が杏壇門と呼ばれていたことに由来します。扁額の「杏壇」の文字は、もともとは藤原氏北家の流れをくむ持明院基輔の筆でしたが、震災で焼失したため、現在の額は徳川家第16代当主・徳川家達(いえさと)の書です。

 大成殿(たいせいでん)は、孔子廟の正殿です。昭和10年に再建された、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)、間口20メートルの大きな建物です。中国では、宗の時代にはすでに、大成殿という名称が使われていたようです。その名は、『孟子』万章下の中の「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」(孔子は、聖の時を知る者。孔子とは、これらの聖人の道を集大成したものと言うべきだ。集大成とは、音楽で喩えれば金声(鐘の演奏)と玉振(玉楽器の演奏)をあわせて持つようなものだ。)という一節に由来するとされます。扁額の「大成殿」の文字は、もともとは徳川5代将軍綱吉の筆でしたが、震災で焼失したため、現在の額は皇族出身の軍人・伏見宮博恭王(ひろやすおう)の書です。殿内には、厨子(ずし)に孔子像、左右には孟子・顔子、曽子・子思の四賢人がまつられています。

 境内東側にある斯文会館(しぶんかいかん:事務所、売店)前(西側)には、孔子銅像が立っています。昭和50年(1975)に台北市ライオンズクラブより寄贈されたものです。高さ4.57メートル、重さ約1.5トンの巨大なもので、孔子の銅像としては世界最大といわれます。



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