ー甲斐健の旅日記ー

江藤新平/民権の確立と人間の開放を希求し続けた維新の功労者
~近代司法制度の生みの親

 江藤新平と言えば、佐賀(肥前)藩の下級武士出身でありながら、幕末期に藩主・鍋島直正(のちの閑叟<かんそう>)にその才能が認められ、明治新政府では司法卿(司法省長官)や参議などの要職に就いた人物として知られています。しかし、薩長閥(というよりも大久保利通派)との政争に敗れて西郷隆盛、板垣退助らとともに下野し、故郷佐賀に帰ります。そこで待っていたのは、新政府の急激な改革に不満を持っていた士族階級の人々でした。佐賀に戻った江藤は、彼らの頭領にまつりあげられてしまいました。そしてついに、新政府への不満が爆発して佐賀の乱が勃発したのです(明治7年2月)。いったんは県庁を占拠した「反乱軍」でしたが、物量に勝る政府軍の攻勢の前に敗れ反乱は失敗しました。江藤はその責任をとらされ、弁明をする機会すら与えられずに斬首のうえ鳩首(きゅうしゅ:さらし首)の刑に処されました。江藤のさらし首の写真は当時の新聞に公開されたといいます(インターネット検索で、その写真を見ることができます<2018年1月現在>)──あまりおすすめはできませんが・・・。

 江藤は、現在の司法制度の基盤を築くなど、明治新政府の立ち上げに多大な貢献をしました。しかしなぜか、その評価はあまり高くないように思われます。なぜならば、新政府に対して反乱ののろしを上げた佐賀の乱の首謀者と見られているためかもしれません。あるいは、明治新政府の主流派をなした大久保利通としばしば対立し、その政敵とみられていたためかもしれません。しかし一方で、歴史学者の毛利敏彦氏はその著書『江藤新平 急進的改革者の悲劇』で次のように述べています。

「(江藤は)わが国近代司法体制の産みの親の栄誉をになっている。しかし、江藤の果たした歴史的役割はそれにとどまるものではない。それどころか、江藤こそ、明治維新を真に維新たらしめた鍵を握る人物であった」

さらには、次のようにも評価をしています。

「西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允はじめ明治維新で活躍した人物は数多い。かれらは、それぞれに大きな役割を果たしたが、それにもかかわらず代役を想定することは困難ではない。かれらが居なければ、誰かが多かれ少なかれ代りを勤めたであろうことは推測可能である。ところが、江藤にだけはふさわしい代役が見当らない。明治政府の草創期にもし江藤が不在であったら、はたして人間の解放と人権の定立が現実ほどに前進したであろうか」。

 ──江藤新平は、佐賀藩出身で新政府の要職に就いたが、明治6年の政変で西郷隆盛らとともに下野し、佐賀に戻って不平士族の頭領となって佐賀の乱をおこし、敗れて処刑された──というのが、私が歴史の教科書で学んだ知識のすべてでした。しかし毛利氏が言うように、江藤が成し遂げたことあるいは成し遂げようとしたことが、日本の国の在り方を決定づけるほど重要なものであったとすれば、江藤という男の生きざまとその主張をもう一度見つめなおし評価しなおす必要があると思っています。まずは、江藤の生い立ちから振り返ってみましょう。

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 江藤新平は、天保5年(1834)、肥前国佐賀郡八戸(やえ)村(現:佐賀市鍋島町)で生まれました。父は佐賀藩の下級武士で、郡目付(こおりめつけ)を務めていました。

 江藤が生まれた当時、佐賀藩では第10代藩主・鍋島直正(のちの閑叟<かんそう>)による藩政改革(天保の改革)が行われていました。財政改革においては、単に倹約を奨励するだけでなく均田制度(きんでんせいど)の導入をはかりました。これは、小作人に所有地を分け与えるために土地の再配分を行う制度で、生産意欲を向上させ収入増を図る目的で導入されました。さらに、陶器・蝋(ろう)・石炭などの特産物の開発にも力を注ぎました。特に、伊万里焼や有田焼などの佐賀産の上質の陶磁器は海外でも高い人気を呼び、欧米の王侯貴族にも珍重されたといいます。なお、この陶磁器を包んだ浮世絵の版画絵が海外で評判となり、フランス画壇に大きな影響を与えることになったことは有名な話です。

 直正は、人材育成にも力を注ぎました。天保11年(1841)、藩校・弘道館を拡張・整備し学問・武芸を奨励しました。さらに、佐賀藩は長崎警備を担当していたこともあり、欧米列強の東アジア進出に対する国防の重要性を痛感していました。そこで、西洋の精強な軍事技術の導入を積極的にすすめていきました。洋式砲術の大家として知られる高島秋帆(しゅうはん)のもとに家臣を学ばせ、洋式の銃砲隊を編成しました。また、長崎砲台の大砲を青銅製から鋼鉄製に換える(砲弾の破壊力を増し、射程距離を長くできる)ために反射炉(高温溶融炉)を建設し、鋼鉄製の大砲を内製化する技術を確立しました。さらには、少し後のことになりますが、蒸気船の建造技術までも自力で完成させました(慶応元年=1865年竣工)。

 このような環境の中で江藤は成長していきました。家はたいへん貧しかったのですが、漢学の素養のあった母のもとで幼いころから兄弟とともに『四書五経(儒教の経典)』を学んでいたといいます。嘉永元年(1848)、15歳で元服して胤雄(たねお)と名乗り、翌年藩校の弘道館に入学しました。ここで江藤は、彼の思想形成に大きな影響を与えることになる師と出会います。弘道館教授の枝吉神陽(えだよし しんよう)です。神陽は、江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学んだ秀才で、朱子学に根ざした佐賀藩伝統の教え「葉隠」を捨てて、国学を講じていました。その思想は、日本における主君は天皇のみだとする日本一君論(尊王論)でした。この教えには、江藤のみならず、のちに明治新政府の高官となる副島種臣(そえじま たねおみ:神陽の実の弟)・大木喬任(たかとう)らも傾倒していきました。

 嘉永3年(1850)、神陽は南北朝時代の功臣・楠木正成父子の木像を城下の梅林庵にまつり、尊王の旗のもとに「義祭(ぎさい)同盟」を結成しました。江藤も副島種臣・中野万蔵・大木喬任らとともに、この同盟に加わりました。この同盟に結集した多くの若者が、のちに明治新政府で活躍することになります(大隈重信も少し遅れて同盟に加わりました)。その後、弘道館の指導理念が合わないとして神陽が弘道館教授を辞任して私塾を開いたとき、江藤も大木とともに弘道館を退学して神陽の私塾に入門しました。

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『図海策』を書く

 嘉永7年(1854)、江藤は藩命によって城下に新設された蘭学校で蘭学を学ぶことになりました。この蘭学校で多くの蘭書にふれ、欧米の社会制度や技術水準の高さを知ることにより、江藤の国際情勢に対する見方が大きく変わっていきました。それまでバリバリの攘夷論者であった江藤は、今の日本の国力では攘夷など絶対不可能だということを思い知らされたのです。そして安政3年(1856)9月、江藤は23歳にして『図海策』という意見書を起草しました。この長文の書は、「形勢」、「招才」、「通商」、「拓北」の四章からなっています。まず「形勢」の章では、攘夷論の無謀なることを指摘し、「通商」の章では、まずは開国して欧米諸国と通商を盛んにし国を富ませることが重要だと指摘しました。海国日本の利点を活かして通商を盛んにすれば、同じ海国である世界最強のイギリスに追いつくことも可能だと気勢を上げています。さらには、国際社会に積極的に参加し国際正義を貫くことによって、他国から敬服される国になるべきだとも述べています。「招才」の章では、人材登用の重要性を説き、「拓北」の章では、経済的利益だけでなく、対ロシア防衛のためにも蝦夷地(北海道)の開拓を進めるべきだと提言しています。いずれにしても、この時点で積極的開国・通商による富国強兵策を提言したということは、江藤の先見性を示すものといえます。なお、江藤はこの翌年、従妹の江口千代子と結婚しています。

江藤脱藩する

 尊王攘夷運動が高まりをみせる中、義祭同盟のメンバーの中にも、それに呼応する動きが出てきました。京では、副島種臣が王政復古論を唱え、有力公卿に建言していました。江戸昌平黌に学んでいた中野万蔵は、大橋訥庵(とつあん)に師事して大政奉還論を唱えていました。しかしここで、江藤にとっては衝撃的な事件が起こります。文久2年(1862)正月、坂下門外で老中・安藤信正が襲われた(坂下門外の変)事件の首謀者として大橋訥庵が逮捕され、関係者とみられた中野万蔵も逮捕されたのです。厳しい取調べにもかかわらず罪証は挙がりませんでしたが、中野は釈放されませんでした。そして、その4か月後の5月に獄死してしまいました(毒殺されたという説もあります)。

 同志・中野の死を知った江藤は、脱藩、上京を決意します。江藤自ら上京して、ホットな情報を佐賀に送り、それによって藩論を「尊王倒幕」にかえさせることが目的でした。薩長土と肩を並べて、佐賀藩が新しい国造りを主導するために、藩主・直大(なおひろ)の父・直正(閑叟)の上洛を促そうとしたのです。文久2年(1862)6月、江藤は脱藩し京へ向かいました(江藤29歳)。旅費を工面したのは、同志・大木喬任だったといいます。

 京に入った江藤は、中野万蔵の友人だった久坂玄端に会うため長州藩邸を訪ねました。久坂は江戸に潜入していたため不在でしたが、代わりに桂小五郎に会って話をすることができました。桂は、この田舎侍の江藤に関心を抱いたようで、公卿の中では進歩的な考えを持っていた姉小路公知(きんとも)を紹介してくれました。姉小路公知は、この翌年勝海舟の勧めで軍艦に乗って、大阪・兵庫付近の海上を視察しています。そして、攘夷がいかに机上の空論であるかを理解し、海防の重要性を朝廷に進言したほどの開明的な公卿でした。姉小路と面会した江藤は、佐賀藩が置かれている状況を熱心に説明したといいます。すなわち、──今は朝廷から命を受けて長崎の防備に集中しているが、いざというときは朝廷をお護りするために兵をあげて京へはせ参じる覚悟である──という感じでしょうか。姉小路も、江藤の誠実な人柄や広い視野に立ったものの考え方に惚れこみ、日当を出すから京にとどまってはどうかとすすめたほどでした。

 江藤は、姉小路との会見の記録を『姉小路殿と問答の始末』と題して、佐賀藩庁や同志たちに送りました。もちろん、直正の上洛を促すためでした。また江藤は、姉小路を通じて孝明天皇への建白書(『密奉の書』)を奏上しています。攘夷論者の孝明天皇に対して攘夷を行うことの危険性を指摘し、有力諸藩の協力のもとに王政復古を実現すべきだと進言しています。

 三か月余りの京の滞在は大きな成果を上げることはできませんでしたが、桂や姉小路などとの貴重な人脈を得たことは、江藤にとっては大きな財産となったといえます。京で見聞きした事を記録した『京都見聞』を携えて、江藤は佐賀に帰る決断をしました。桂も姉小路も京にとどまるよう引きとめたのですが、江藤は、佐賀に帰って京で見聞きしたことを藩の重役や同志らに直接伝え、決起を促そうとしたのです。しかし佐賀では、家老の原田小四郎を中心に「江藤、死罪にすべし」という声が上がっていました。佐賀藩には、「脱藩は死罪」という暗黙のおきてがあったといいます。保守的な重臣たちは、江藤を死罪に処すべきと主張しました。しかし、江藤が持ち帰った『京都見聞』を読んだ直正は、「彼は他日有用の器である」として、罪を軽減し永蟄居(えいちっきょ)としました(文久3年8月)。

 謹慎中の江藤は私塾の塾頭をして生計を立てていましたが、各地の同志や藩内の友人(副島や大隈)から情報を得て、政局の動向に常に目を配っていました。幕府による第二次長州征伐の機運が高まっていた慶応元年(1865)7月には直正に上申書を提出し、この好機に薩摩・筑前・長州と連携して、倒幕の旗を揚げるべきだと献策しました。しかし、藩庁を動かすことはできませんでした。

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江藤復権

 慶応3年(1867)10月、中央政界に大激変が起こりました。第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したのです(大政奉還)。これを受けて佐賀藩も、従来の中立的立場を捨てて親朝廷・反徳川の態度を鮮明にしました。となると、朝廷や反幕の志士に人脈を持つ江藤は貴重な存在となります。同年12月、ついに江藤の永蟄居処分は解除され、郡目付に復帰しました。脱藩以来5年ぶりの現場復帰となりました。

 自由の身となった江藤は翌年正月上京し、新政府の要人となった三条実美・岩倉具視・大久保利通と会いました。彼らも一様に、江藤の情勢分析の鋭さや諸外国の政治・法律・経済に関する知識の幅広さを評価し、江藤は徴士(ちょうし)に任じられ明治新政府の一員となりました。二月には、徳川慶喜を追討する官軍の東征大総督軍監に任命され、先発して江戸に潜入し情勢を探る任務を遂行しました。

 江戸城が無血開城し、上野の山にこもって官軍に抵抗をしていた彰義隊(しょうぎたい)が鎮圧されて一息ついた慶応5年(1868)5月19日、新政府は江戸鎮台を設置しました。ここで江藤は勘定奉行に相当する鎮将府会計局判事に任じられました。早速彼は、住民の生活実態を調査して「弊害七か条」を列挙しました。その内容は──東京の人々は借金生活に苦しんでいる。さらに借家の地代や家賃が高く、米の値段も高い。加えて、行政サーブビスも不十分で、特に民間の訴訟などは滞ることが多く、なかなか結論が出ない。──というものでした。これに対して江藤がとった対策は次のようなものでした。借金苦については、利息停止分割払いや利下げ分割払いによって返済条件を緩和するとしました。地代や家賃については、東京の地主が賃貸料を意のままに決めて不当に利益を上げているとして、半減せよと命じ、入居権利金徴収も厳禁としました。米価については、仲買人が大量に買い占めて価格を操作しているとして、仲買を廃止して小売商が直に問屋から仕入れることができる仕組みに変えるよう提案しています。訴訟の遅延に対しては、訴訟所を別に設けて行政官庁から訴訟所(裁判所)を分離させることを提案しました。この司法権の独立につながる考え方が、のちに江藤が人生をかけて取り組んだ司法制度の改革の原点となるものでした。また、民衆の生活改善に焦点を当て、不当な利益をむさぼる大商人や地主の既得権を糾弾する姿は、明治維新の政治家の中では稀有の存在だったといえます。

佐賀藩改革

 明治2年(1869)3月、江藤は直正の命を受けて佐賀に戻り、権大参事(藩政実務の最高責任者)に任命されて藩政改革に着手します。江藤の改革案は、人材の登用と富国強兵策、公論(世論)の尊重、禄高の平準化、住民生活の規制緩和、軍隊の民主化など多岐にわたっていました。民生の面では、旅行、婚姻、居住及び土地売買を自由化し、藩内の道路交通に課せられていた制限を撤廃しました。江藤はさらに、住民自治の制度化にも取り組みました。江戸時代の農民統制の象徴だった「五人組」を廃止し、住民の自治組織である組合(村)を設置しました。組合の意思決定は、月に三度、20歳以上の男子が集まる寄合で行われました。寄合の議長や組合の執行部(庄屋、村役)は入札(選挙)で選ばれました。寄合(議事・監督機関)と庄屋(執行機関)はそれぞれ独立しており、牽制しあう関係として議会制の原理(立法と行政の分立)が反映されていました。佐賀藩改革においても、江藤は自分の政治理念の具体化に努めていたのです。

新政府高官への道

 佐賀藩政改革の方向性が見え始めた明治2年(1869)10月、江藤は中央政府に呼び出され中弁(ちゅうべん)に任命されました。中弁を含む弁官(大弁、中弁、少弁)の任務は、今日の内閣官房と法制局を併せたようなものでした。中弁になって二か月後の夜、江藤は六名の刺客に襲われ大けがをします。犯人は佐賀藩の足軽でした。江藤の藩政改革で既得権を奪われ禄を減らされた恨みによる犯行でした。

 襲撃の傷も癒えた翌明治3年の2月、江藤は、大納言(副総理)岩倉具視の強い要望で中弁のまま制度取調専務を命ぜられました。混乱状態にあった国家の制度全般を根本的に見直し整備・合理化する仕事でした。同年7月末(または8月初)、江藤は国政の基本方針に関する答申書を起草しました。この中で特に強調したのは、「制法(立法)、政令(行政)、司法の三体」の三権分立こそ、何よりも重要だということでした。特に司法権の自立を強調しました。さらに、国家の基本とするのは君主独裁、三権分立、郡県制だと論じています。この前提に立って、具体的政策が述べられています。主なものを挙げると、──

  • 華族で構成される上議院と一般からなる下議院の二院制の提案
  • 穢多(えた)、非人を含む身分制度を簡素化しいずれは解消する
  • 商法、民法、貸借の法、財用融通の法を定めること
  • 陸海軍を整備し、正規軍のほかに民兵制を導入する
  • 工業奨励や商社の制など産業経済関係の制度化

──などです。この江藤の答申書を受け取った岩倉は、同年8月『建国策』という意見書を朝議に提出しました。内容は、江藤の意見がかなりの部分反映されたものでした。

 同年9月、制度局内に民法制定のための民法会議が発足しました。この会議は、翌4年7月に制度局が廃止されるまで開催されています。封建時代は身分によって適用する法令が異なり、士族に比べて農工商の権利が大幅に制限されていました。しかし、民法が制定されれば、一つの法の下にすべての市民の権利や義務が平等に規定されることになり、四民平等社会実現への強力な推進力となります。江藤は、この民法会議の成功のために精力的に動きました。蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授だった箕作麟祥(みつくり りんしょう)を会議の有力メンバーに加え、彼がフランスから持ち帰った近代法典である『ナポレオン法典』を手本にして新生日本の民法作成に取りかかりました。フランス語のドロワーシヴィル(Droitcivil)を「民権」と初めて訳したのが箕作でした。これに対しては、「民に権があるとは何事だ!」という反対意見もありましたが、江藤が箕作を支持して事態を収拾したこともありました。明治4年7月、制度局が廃止され新しくできた立法機関の左院に民法会議が移管されましたが、この時も江藤は左院副議長となり、引き続き民法会議を主導しました。さらに明治5年(1,872)4月、司法卿(司法省長官)に就任すると司法省民法会議を発足させ、翌6年3月、ついにフランスのナポレオン法典を土台にした『民法仮法則八八箇条』が完成しました。しかし、明治六年の政変で江藤が失脚(後述)してからは民法制定に対する政府の動きは極端に鈍くなり、17年後の明治23年(1890)になってようやく公布されました。ところが、フランスの法体系に基づいた同法に対して反対意見が続出し、ついに施行はされませんでした。代わりに、きわめて保守的色彩の強いドイツ法系の民法が制定され、明治31年(1898)に施行されることになりました。

 さて時間を少し元に戻して、明治4年(1871)7月18日(廃藩置県施行の4日後)、新たに文部省が設けられ江藤は文部大輔(たゆう:副長官)になりました。卿(長官)は不在でしたので、実質的な同省のNo1です。ここで江藤は文部省務の大綱を定め、国家は全国民の教育に積極的に責任を負うという方針を打ち出しました。この方針は後任の大木喬任(佐賀藩出身)に受け継がれ、明治5年8月、全国を学区に分けて、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置し、身分・性別に関係なく国民皆学を実現する学制が施行されました。江藤は、文部大輔辞任後に左院(立法府)の副議長を経て、明治5年(1872)4月、司法卿に任命されました。民権の擁護を第一義とする江藤のライフワークともいえる司法制度改革が、ここから本格的にスタートするのです。

江藤司法卿

 司法省のトップに立った江藤が何よりも強調したのは、人民の権利を保護することでした。そのためには、裁判は迅速かつ慎重に(冤罪を絶対つくらない)行われなければならないとしました。そして就任3か月後に『司法職務定制』を作成し(翌月制定)、司法制度の在り方や組織相互間の職務権限などについて明らかにしました。まず検事職を新設し、その役割を法令及び人民の権利の保護・犯罪の摘発・裁判の監視としました。特に裁判の監視については、検事が裁判の不正や過失を発見した場合は速やかに司法省に報告して裁判のやり直しを求めることとし、裁判の公正性確保について検事に責任を負わせています。さらに代言人(だいげんにん:弁護人)制度も、この時初めて創設されています。これも、人権擁護の観点からつくられた制度でした。

 このほか、江藤が司法卿時代に行った制度改正の主なものについて挙げておきます。まず明治5年7月には復讐禁止の意見書が左院へ上奏されました。犯した罪に対する処罰は、国家のみがその権利を持っており、個人には許されないという考え方です。この法令は翌年2月に公布されました。明治5年8月には改定律例が作成され、磔刑(はりつけ)や梟首(きゅうしゅ:さらし首)は廃止され、笞杖(むち打ち)や流刑も廃止されました。この改正律例は、翌明治6年6月に裁可されました。後年、佐賀の乱で捕縛された江藤を、大久保利通が斬首のうえ梟首の刑に処したのは明らかにルール違反でしたが、それほどまでに大久保が「江藤憎しの思い」を抱いていたことの証でもあると思われます。明治5年10月には、人身売買を禁止した司法省達第22号が発せられました。これに伴い、人身売買は違法であるから芸娼婦に対する雇い主の債権も無効であるとされ、借金のかたに売られていった女性たちは完全に自由の身になりました。同年11月に発せられた司法省達第46号は画期的なものでした。地方の役人が不当に市民の権利を侵害したときは、市民は裁判所に提訴し救済を求めることができるとしました。領主や藩の役人の命令は絶対的なもので、それに抗議するには死を覚悟しなければならなかった封建時代の悪しき制度を180度転換するものでした。これはまた、地方官の専横や勝手なふるまいを牽制するとともに、市民の権利意識を目覚めさせる効果を狙ったものでもありました。

相次ぐ汚職事件

 明治維新を成し遂げたことによる気のゆるみからか、あるいは明治新政府の中で思いもよらぬ出世をした政府高官の慢心からか、大きな汚職事件が続発しています。まずは山城屋和助事件です。元長州藩奇兵隊士の野村三千三(みちぞう)は、維新後商人となり山城屋和助と名乗っていました。陸軍省大輔(たゆう:副長官)の山県有朋(やまがたありとも)が元奇兵隊長だったこともあり、そのつてで陸軍省の御用商人となり大儲けをしていました。生糸相場に目をつけた山城屋は、陸軍省から多額の資金を借りて投資しましたが、ヨーロッパで普仏戦争(フランスとプロイセン王国との戦い)が始まると生糸相場は暴落し、山城屋は大損をしてしまいました。あきらめきれない山城屋は、さらに多額の資金を陸軍省から借り出しましたが(総額64万9千円:陸軍省年間予算の約一割)、挽回することはできませんでした。やけになった山城屋は、パリに渡り商売そっちのけで豪遊に明け暮れたといいます。このことがフランス駐在の外務省職員から本国に報告され、新政府の知るところとなりました。司法卿(司法省長官)の江藤新平は、部下に指示し徹底捜査を命じました。尻に火が付いた山県は、山城屋に貸し付け金の即時返済を求めましたが、パリで豪遊してすってんてんになった山城屋に返すあてなどあるはずがありません。明治5年11月、山城屋は一切の証拠を湮滅し、陸軍省応接室で割腹して果てました。司法省はさらに山県を追求する姿勢をみせましたが、山県の軍政能力をかっていた西郷隆盛がかばってくれたこともあり、山県は陸軍大輔の職にとどまることができました。結局、陸軍省会計監督長の船越衛がその責任を負って辞職させられ、この事件は一応の決着をみました。

 次に発覚したのが、尾去沢銅山事件です。尾去沢銅山(秋田県鹿角郡)は、元南部藩の支配下にありましたが、村井茂兵衛という南部藩の商人が藩の借金の証人になったことから、採掘権を与えられていました。銅山は、村井の資本投入と才覚により利益を上げていました。その後、廃藩置県によって旧藩の債権・債務が明治新政府に引き継がれることになりました。その際、大蔵省は旧南部藩の書類の中から、同藩御用達・村井茂兵衛が5万5千円を「内借し奉る」と書かれた証文を見つけました。村井が藩から金を借りたという表現ですが、これは封建時代の慣例で、殿さまに金を貸すとは恐れ多いとして「貸」の代わりに「借」の文字を契約書に書き込んだとものでした。このような慣例は、南部藩に限らずどこの藩でも行われていたといいます。しかし、大蔵省は文字通りに解釈して、村井に即時全額返還するよう命じました。当時の大蔵省の最高責任者は、元長州藩士・井上馨大輔(たゆう:副長官)でした。銅山の採掘権だけは何としても死守したいと考えた村井は、仕方なく、5か年年賦で支払うので鉱山業を続けさせてほしいと嘆願しました。しかし、大蔵省はこれをすべて却下して、村井から尾去沢銅山の権利を取り上げてしまいました。その直後、尾去沢銅山は長州出身の政商・岡田平蔵に36,108円の安値で払い下げられました。支払い条件は、無利息の15か年年賦だということです。破格の好条件です。

 ところが、この事件はこれで終わりませんでした。明治6年8月、大蔵大輔を辞任した井上馨は、「岡田より貰い受けた」として尾去沢へ行き、「従四位、井上馨所有」の高札を尾去沢銅山に立てたのです。これを知った村井茂兵衛は、この一連の事件が井上ら長州勢の陰謀だとして、井上を司法裁判所に提訴しました。事の次第を聞いた司法卿兼参議の江藤新平は、部下に徹底調査を命じました。井上の容疑は濃厚でした。司法省は、井上を拘引して取り調べをしたいと正院に上申しました。これに対して、外遊から帰国したばかりの木戸孝允が同郷の井上の救済のために奔走したこともあり、太政大臣の三条実美は決断を躊躇していました。その直後、明治六年の政変(後述)が起こり江藤らが失脚すると、この事件はうやむやになってしまいました。その後井上は復権し、工部卿や外務卿を歴任したということです。

 もう一つ見逃せない事件が、小野組転籍事件です。小野家は、三井家と並び称された江戸時代以来の大商人です。明治維新後は、営業の拠点を京都から神戸や東京に移していました。そのため東京への本籍移転を京都府庁に願い出ていました。しかし京都府は、転籍申請を握りつぶしたばかりか小野家の代表者を捕らえ、転籍断念を強要するという行為に出ました。京都府庁が転籍を認めなかったのは、小野組から巻き上げていた公納金を徴収できなくなるからでした。さらには、小野組が東京に進出することは、関東に拠点を置く三井組にとって脅威であったため、「三井の番頭さん」と呼ばれた大蔵大輔・井上馨の横やりがあったともいわれます。ついに小野組は、司法裁判所に救済を求めました。

 明治6年6月、京都裁判所は京都府庁に対して、小野組の転籍申請を適切に処理するよう命じました。しかし府庁側はこれを無視し、小野組幹部を府庁に呼びつけて叱責したのです。裁判所は、府庁が判決を無視したことは違式罪(法律蹂躙の罪)に当たるとして、府知事の長谷信篤に金8円、参事の槇村正直に金6円の贖罪金支払いを言い渡しました。しかし、府庁側はこれも拒否したので、司法省は知事と参事の逮捕を正院に申請しました。かくしてこの事件は、中央政府を巻き込んだ重大な政治問題に発展していったのです。この問題の本質は、裁判権と警察権を行政側から引きはがし独立させようとする司法省と、それを阻止し従来通りの既得権を守ろうとする官側の争いにありました。京都府政の実力者・槇村正直は長州藩出身であったため、同郷の木戸に助けを求めました。ここに、尾去沢銅山事件と同様に木戸対江藤という対決の図式が出来上がってしまいました。その後、槇村の逮捕・収監にまで至ったこの事件ですが、府知事の長谷信篤が木戸の説得を受け入れ小野組の送籍手続きを許可(明治7年)したため、事態は収拾しました。

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明治六年の政変

 明治6年4月19日、江藤は参議になりました。参議によって構成される内閣は立法権と行政権を兼ね備えており、国政全般に対して非常に強い権限を持っていました。この時の参議は、江藤のほかに、西郷隆盛(薩摩)・板垣退助・後藤象二郎(土佐)・大隈重信・大木喬任(佐賀)というメンバーでした。ところが、参議になって間もなく、江藤は国政を揺るがす大きな政変に巻き込まれていきます。「明治六年の政変」です。

 きっかけは朝鮮問題でした。明治新政府は、王政復古を各国に告知していました。朝鮮に対しても、慶応4年(1868)3月に対馬の宗氏を通じて書面で伝えました。しかし朝鮮側は、書中に「皇祖」「皇室」の文字があるとして受け取りを拒否しました。当時の朝鮮(李氏朝鮮)は、中国(清)を宗主国としており、「皇」の字が使えるのは中国の皇帝のみであるとして日本側の「非礼」を非難したのでした。廃藩置県により対馬藩がなくなった後は、明治政府が直接朝鮮に使者を送りました。明治3年(1870)正月、外務省権大録(部長級)の佐田伯茅(はくほう)と森山茂は公文書を携えて釜山に入りましたが、またしても朝鮮側に拒否されました。帰国した佐田は、「もはや武力によって強制的に(朝鮮を)開国させるしか手がない」として強硬な征韓論者となったといいます。その運動は、やがて全国の不平士族の共感を呼び支持を広げていきました。

 その後も何度か、日本側から使節派遣を打診しましたが、朝鮮側は拒否し続け日朝関係はどんどん悪化していきました。そしてついに、明治6年(1873)5月、朝鮮側は日本から釜山の日本公館への物資の搬入を妨害し、なおかつ、日本を「無法之国」と侮蔑する書を公館の門に張り付けるという行為に及びました。事ここに至っては見過ごすことはできないとして、外務省は太政大臣・三条実美に訴え、正院で事態収拾の方策を審議するよう求めました。

 明治6年(1873)8月3日、三条は朝鮮問題に関する閣議を開きました。出席者は三条のほかに、西郷隆盛(薩摩)・板垣退助、後藤象二郎(土佐)・江藤新平、大隈重信、大木喬任(佐賀)6人の参議でした。この会議に先立ち外務省から提出された上申書には、朝鮮半島居留民を保護するために陸兵と軍艦を派遣し、それをバックにして修好条規締結の談判を行うというものでした。まず板垣が、この案に賛成しました。しかし西郷は、それでは相手を刺激し警戒させるだけだとし、非武装のもとで責任ある大官を派遣し平和裏に談判すべきだと反論しました。そして西郷自らが特使として訪朝すると述べたのです。結局、同月17日の閣議で、西郷の朝鮮派遣が議決され、翌々日天皇の裁可を得ました。ただし、この時欧米各国を歴訪していた岩倉使節団帰国後に彼ら(岩倉具視・大久保利通・木戸孝允)の意見を聞いて正式発表することになりました。

 これだけ聞くと、西郷は征韓論者ではなく、むしろ過激な主張をする板垣らを抑えて平和裏に事を進めようとしていたように見えます。では、西郷=征韓論者という図式はどこから生まれたのでしょうか。──それは、閣議に先立って西郷が板垣に送った書簡の中にあるといいます。そこには次のような一節がありました。

「軍を送れば、必ず朝鮮国は退去を要求するでしょう。そして、こちらは引かぬと答えれば戦端を開くことになってしまいます。そうなれば初めのお考えとは異なり戦争になってしまうのではないかと愚考します。それよりも使節を先に送るべきです。そうすれば朝鮮国は<暴挙>に出るでしょうから、そうなれば<討つべし(戦争)>の犬義名分を得ることができます。」

 すなわち、──外国と一戦交えるには大義名分が必要になる。自分が丸腰で行けば朝鮮側は自分を殺すだろう(殺されなくとも、交渉がうまくいかなければその場で自刃する)。その時は、使節虐殺を理由に戦端を開けばよい──西郷は我が身を犠牲にして朝鮮を討つ大義名分をつくろうとしたというのです。これが西郷=征韓論者の根拠です。もちろんこれには反論もあります。西郷は、過激な主張を繰り返す板垣を説得するための方便として上記書簡を送ったのだと考えます。そして、あくまでも外交交渉によって朝鮮と修好することを望んでいたし、それを実現できるのは自分を置いていないという自負もあったと主張します。それゆえ、自ら訪韓して朝鮮側と交渉することを望んだのだといいます。西郷が征韓論者であったか否かは現在でも論争が行われており、興味深い問題ですが、話を先にすすめましょう。

 岩倉使節団は、明治6年(1873)9月13日に帰国しました(これに先立って大久保は同年5月、木戸は同年7月に帰国しています)。しかし、太政大臣・三条実美は一向に閣議を開こうとはしません。この間、岩倉具視は大久保利通に対して参議に就任するよう説得していました。西郷朝鮮派遣の決定を覆すためでした。また、参議の大隈と大木にも説得工作をし、彼らも西郷派遣反対に傾いていました。度重なる説得を受けて大久保は、西郷訪朝反対の意見を三条と岩倉が途中で覆さないことを条件に、参議就任を承諾しました。西郷訪朝反対の包囲網が形成されたとみた三条は、ついに閣議開催を決断しました。

 同年10月14日、閣議が開かれました。出席者は、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議の西郷・板垣・大隈・後藤・大木・江藤・大久保・副島(副島種臣は大久保とともに参議に就任していました)の10名で、参議・木戸孝允は病気のため欠席しました。閣議で西郷は、「自身が使節となって朝鮮と交渉することはすでに天皇の裁可を得ていることであり、直ちに実行すべきだ」と主張しました。それに対して大久保は、「もし使節に危害が加えられ、それがもとで開戦ともなれば、財政的負担が重くのしかかり維新の改革も一時的に頓挫する。よって、使節派遣は延期して朝鮮問題はしばらく保留にすべきだ」と主張しました。この閣議で江藤は西郷に賛同し、朝鮮派遣を実行すべきだと主張しました。司法卿の江藤にしてみれば、一度閣議で決定した案件は、よっぽどの理由がなければ容易に覆すべきではないと考えたのでしょうか。とにもかくにも、議論が白熱してなかなか結論が出なかったので、この日は結論を出さず翌日再開することになりました。

 翌日の閣議には西郷は欠席しました。いうべきことは言い尽くしたとして、これまでの経緯を記した『始末書』を三条に提出して、もし自分の意見が通らなければすべての職を辞して鹿児島に帰ると伝えたといいます(ただしこの『始末書』については、複数の異なる内容のものが残されているだけでなく、提出日も10月15日または17日あるいは両方などとあいまいな点が多くあります)。この日の閣議でも、はじめのうちは議論が白熱しました。ところが会議途中で突然、三条が西郷訪朝賛成と言い出しました。西郷が辞職をかけてでも訪朝を望むのならば、やらせてみようではないですか、と。大久保にとってみれば、いきなりはしごを外されたような感じだったでしょう。三条は、西郷が職を辞して鹿児島に帰った後に、不平士族を中心にした反乱が起こること危惧したのだと思われます。これで局面ががらりと変わってしまい、大久保以外のメンバーがすべて賛成に回り、朝鮮使節派遣は予定通り行われることと決しました。あとは三条太政大臣が天皇の裁可を得るだけという運びとなったのです。

 しかし、大久保もこれでひきさがるような男ではありませんでした。閣議の翌々日(17日)、大久保は三条と岩倉を訪問し、鋭い口調で彼らの変節をなじるとともに参議辞任と位階の返上を申し出ました。すると、大久保の剣幕に驚いた岩倉も態度を一変し、右大臣の辞意を表明したのです。全責任を押し付けられた形の三条は狼狽しました。閣議決定の天皇への奏上を1日遅らせて岩倉を訪ね、これまで通りの協力を求めました。しかし岩倉はこれを拒否したのです。すっかり憔悴しきって家に戻った三条は、その夜、心労のあまりに卒倒し人事不正に陥ってしまいました。三条が太政大臣としての政務を遂行することが不能となったのを見て、策士・大久保が子分となった伊藤(俊輔)を使って策動します。三条の代わりに岩倉を太政大臣代理とし、閣議決定を天皇に上奏する際に西郷訪朝の危険性(使節が殺されるかもしれない、そうなれば戦争が始まる)を岩倉に説明させ、閣議決定不裁可の方向に誘導しようとしたのです。明治天皇は西郷を大変お気に入りだったので、西郷が危険にさらされることを容易に認めないだろうという読みがあったのかもしれません。大久保の思惑通り、同月20日、天皇は三条邸見舞いの後に岩倉邸を訪ね、岩倉を太政大臣代理に任命しました。

 15日の閣議決定が天皇に上奏されずに一週間が過ぎた22日、西郷・板垣・江藤・副島の4参議が岩倉邸を訪ね抗議しました。その席で岩倉は、大久保から授かった秘策──天皇に上奏する際、西郷訪朝に反対という自分の意見も併せて申し上げる──を暴露しました。これを許せば、太政大臣(代理)の恣意的な思惑で閣議決定がゆがめられることになります。こんな暴挙は容認できないとして、西郷は即座に辞意を表明しました。西郷が征韓論者であったか否かは別にして、西郷が下野したのは征韓論の論争に敗れたからではなく、ルール無視で閣議決定を覆そうとしている右大臣・岩倉の暴挙に対する抗議の意思表示だったのです。その翌日、岩倉太政大臣代理は閣議の議決内容と訪朝を延期すべしという自分の意見を併せて天皇に上奏しました。そして翌24日、大久保・岩倉の思惑通り天皇は朝鮮使節派遣を不裁可としました。閣議決定が不裁可となったということは、天皇による不信任が正院のメンバーに下されたことになり、全員総辞職を余儀なくされました。ところが、天皇の不裁可の翌日には、あたかもこの状況を予期していたかのごとくに新体制が発表され、三条太政大臣、岩倉右大臣、大久保、木戸、大隈、大木参議の辞表は撤回され、政変で功績のあった伊藤などが新たに参議に就任しました。一方、西郷・板垣・後藤・江藤・副島の5参議の辞表は受理されました。さらに、大久保は内務卿となり、太政大臣や右大臣を超える絶対的な権限を手にしました。「大久保内閣」の誕生です。

民選議院設立の建白書

 明治六年の政変で下野した5参議のうち、西郷は鹿児島に帰ってしまいましたが、他の4人は東京に残り、再起を期していました。そして、明治7年(1874)1月、日本最初の政党である愛国公党を結成しました。党設立の目的は、天賦人権説(てんぷじんけんせつ:すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつという思想)のもとに市民の基本的人権の保護を求め、市民が自立して政治に参画する社会の実現を目指すというものでした。そして、民選議院設立の建白書が起草され左院(立法機関)に提出されました。特定の権力者が恣意的に物事を決めていくのではなく、市民によって選ばれた議員で構成される民選議院が国の在り方や社会の仕組みを決めていくべきだとし、市民の参政権が初めて謳(うた)われました。これを契機として、全国的に自由民権運動が広まって行きました。

佐賀の乱

 このころ士族たちは、四民平等の名のもとに従来持っていた特権を次々と剥奪され、不平不満を強めていました。特に、明治6年1月に発令された国民皆兵に基づく徴兵令により一般市民による軍隊が組織されたことは、「戦は武士の仕事」と思っていた士族にとってはショッキングな出来事だったと思われます。そこにダメを押したのが、「大久保政権」が明治6年12月に発令した「秩禄(ちつろく)奉還法」でした。これは、士族の家禄(かろく:給料)を完全に廃止し、その代わりに金禄公債証書を与えるというものです。つまり、国が士族から金を借りる形をとってその利子を支給するというものでしたが、決して十分な額とは言えませんでした。

 この状況下で、佐賀でも不満士族が声をあげました。征韓党と憂国党です。征韓党は、征韓論が実行され朝鮮国と戦争になったとき、いち早く駆け付け戦闘に参加するのはわれら士族であると主張し武装化する集団です。明治6年12月に結成した直後、代表を上京させ江藤や副島を盟主と仰ぐべく説得工作をしていました。憂国党は、きわめて保守的色彩の強い集団で、明治新政府の政策をことごとく否定していました。結成は征韓党の1か月前で、盟主に島義勇(よしたけ)を仰ぐことを望んでいました。島は佐賀出身で「北海道開拓の父」と呼ばれ、札幌の町建設の責任者であり、あの大通公園をつくった人物です。

 最初に行動を起こしたのは征韓党でした。旧藩校である弘道館の借用が認められなかったことに腹を立てた一部の党員が弘道館を不法占拠してしまったのです。これに刺激されたか、今度は憂国党が官金取扱業者の小野組を襲撃して公金を奪取し軍資金を得ようとしました(明治7年2月1日)。結局この計画は失敗に終わったのですが、佐賀の情勢はいよいよ緊迫し一側即発の状態となっていました。同じころ(同年1月14日夜)東京では、右大臣・岩倉具視が何者かに襲撃されるという事件が起こりました。征韓論がつぶされたと思った高知県士族9名の犯行でした。岩倉はかろうじて逃げおおせることができたものの、政府関係者に与えた衝撃は大きかったはずです。政府に敵対する不平士族の取り締まりはさらに厳しくなっていきました。このような状況下で、同年1月28日、大久保は岩村通俊を佐賀県令に任命しました。岩村は、熊本鎮台軍を護衛にして佐賀に入りました。民間の県令が軍隊を伴って任地に赴くことは異例中の異例です。さらに、2月9日、ついには大久保自ら軍事・刑罰の全権をもって、征討総督代理として東京を発ち博多に向かいました。博多に征討軍を集結させ一気に佐賀の「反乱軍」を鎮圧する作戦でした。

 このころ、江藤新平はどうしていたのでしょうか。明治6年12月、結成されたばかりの佐賀征韓党の代表メンバーが上京して同郷の江藤と副島を訪ねてきました。彼らにしてみれば、征韓党に多くの志士を結集させるために、前参議の肩書を持つ江藤や副島を盟主として担ぎたいという思いがあったのでしょう。その熱い思いを受け取った江藤は、自ら佐賀入りして彼らの話を聞き、軽はずみな行動に奔らないよう説得するつもりで帰郷する決断をしました。この時点で、江藤自ら征韓党の盟主になることは考えていなかったと思われます。しかし、江藤帰郷の話を聞いた板垣や後藤は、巻き込まれる危険があるとして帰郷をとりやめるよう説得しました。が、江藤の決意は変わりませんでした。そして、民選議院設立の建白書が提出される4日前の明治7年1月13日、江藤は佐賀を目指して東京を発ちました。

 九州に入った江藤は、すぐに佐賀入りはせずに嬉野(うれしの)温泉(現・佐賀県嬉野市)に宿をとり、門弟を派遣して佐賀市内の情勢を探らせました。その後2月2日には妻の弟が住む長崎県深堀に移っています。憂国党の小野組襲撃事件(2月1日)により佐賀の情勢が一気に緊迫したとき、江藤は征韓党に合流してもいなかったことになります。しかしこの長崎の地で、運命の大転換を引き起こす人物と出会うことになります。島義勇です。島も当初は、三条太政大臣の内意を受けて佐賀を鎮静化させるために九州にやってきました。ところが、東京から長崎に向かう船中で、新しく佐賀県令となった岩村高俊が軍隊を引き連れて佐賀入りし「反乱軍」を殲滅すると豪語していることを聞き知りました。これを聞いた島は憤慨し、考えを180度変えたといいます。新政府の政策に反対する人々の言い分も聞かず、いきなり武力をもってこれを弾圧するという手法に島は怒ったのです。かくなるうえは、佐賀の同胞を護るためにも共に戦うしかない──そう覚悟を決めたのでしょう。長崎に着いた島は江藤を訪ね、船中で見聞きした話を江藤にしました。江藤も岩村県令のやり方に憤慨し、ともに戦うことを決意しました。新政府の「暴挙」によって殲滅されるかもしれない佐賀の同胞たちを、見捨てるわけにはいかなかったのです。江藤は2月12日、島はその翌日、相次いで佐賀入りし、それぞれ征韓党と憂国党に合流しました。江藤は征韓党の党首となり、新政府軍と対峙することになったのです。

 明治7年(1874)2月15日、岩村高俊県令は、熊本鎮台の兵を引き連れて佐賀城に入城しました。江藤率いる征韓党は、岩村が軍を率いて入城した真意をただすため使者を派遣しました。しかし、岩村がこれを無視したため、翌16日未明、征韓・憂国連合軍が佐賀城攻撃を開始し、佐賀の乱が始まりました。この日の攻防は「反乱軍」が勝利し、籠城した政府軍はその三分の一が戦死したといいます。政府軍は一時久留米まで撤退しました。しかし、「反乱軍」の勢いもここまででした。すでに博多まで来ていた大久保率いる政府軍精鋭部隊が動き出したのです。2月19日に佐賀追討令が発せられると博多から鳥栖に移動し、2月22日には鳥栖近郊の朝日山で「反乱軍」と激突しました。物量に勝る政府軍相手では「反乱軍」はなすすべもありませんでした。各地で敗北し撤退を余儀なくされました。このままでは勝機は見えないと悟った江藤は、征韓党を解散し一路鹿児島へ向かいました。明治六年の政変でともに下野した西郷隆盛に決起を促すためでした。同様に島も鹿児島の島津久光を訪ね協力を依頼しようとしましたが、面会を拒否されその後捕縛されました。江藤が鹿児島に着いたのは3月1日でした。この時佐賀城にこもっていた「反乱軍」はすでに降伏して、佐賀の乱は完全に終結していました。

 鹿児島郊外の宇奈木温泉で西郷に会った江藤は、二日間にわたって西郷と激論を交わしましたが、西郷の決意を変えることはできませんでした。西郷の説得をあきらめた江藤は、土佐(高知県)に向かおうとします。しかし、土佐の同志たちも決起する意思がないと見た江藤は、東京に行き三条や岩倉に真意を伝えたいと考えました。ところが、すでに各県に手配書がまわっており、身動きが取れない状況になっていました。江藤が司法卿時代に整備した警察制度は完璧でした。3月28日(or29日)、江藤は高知県安芸郡甲浦で逮捕されました。

 江藤は、東京で裁判が行われ弁明の機会が与えられることを望んでいましたが、意に反して佐賀に臨時裁判所が設けられ、審理が行われることとなりました。しかも、4月7日に佐賀に護送され、翌日と翌々日の2日間の審理で判決が言い渡され、即日処刑というスピード裁判でした。江藤と島は斬首のうえ梟首(きゅうしゅ:さらし首)、他に首謀者と見られた11名が斬首されました。江藤が司法卿時代に定めた改定律例によれば、梟首は禁止されたはずでしたが無視されました。また、十分な弁明の機会が与えられず上訴も認められなかったことから、暗黒裁判と言ってもいい内容でした。福沢諭吉も、その著書『丁丑公論(ていちゅうこうろん)』で、この裁判の在り方を痛烈に批判しています。このスピード判決、スピード処刑には、内務卿・大久保利通の意向が反映されたのは間違いないと思われます。大久保は自著『大久保日記』で、江藤処刑の様子を次のように書き記しています。

「江藤醜体笑止なり」

 梟首という判決に驚いた江藤が、腰を抜かして醜態をあらわにしたという意味のようです。普段から冷静沈着と言われる大久保にしては、珍しく感情をあらわにした表現のように見えます。参議まで務めた男の最後の姿を(もしそれが事実であったとしても)、後世の人が目にするであろう公式な日記にわざわざ書き残したところに、大久保の江藤に対する憎悪の念と江藤の人格を貶めたいというむき出しのライバル意識が感じられてなりません。江藤の名誉のために付け加えますが、この裁判の裁判長を務めた河野敏鎌(江藤の昔の部下)の随員である安居積蔵氏はその著書『梟せられし司法卿』で次のように述べています。

「其宣告文を読み上る間は、君も相当の敬意を法廷に表し、首を少しく俯して居たが、『梟首申付る』と読み終るや、君は猛然として面を抬げ、唯『私は』と大喝するや否や、無情の廷丁は屹立せる君の体躯を無二無三に手取り足取り、廷外に担ぎ出した。其時、君の顔色の凄じかりしことや、その肺腑を絞り出した『私は』の一声は雷の如く、其顔色と其声は、今も尚、ありありと耳目に残って居る程である。(中略)夫れから彼の飛上ったとか、腰が立たぬとか言う諸説は、君の此行為を、遠距離から窺うて、面を抬げた姿勢を飛上ったと思い、又廷丁の君を擁して引出したる体をみて、斯く想像した者があったのであろうと推定する。此事実は、特に君の為めに、其の死後に於ける名誉上の汚点を雪ぎ置くのである」

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江藤新平の評価

 江藤新平の行動の原点には、常に人権の擁護を第一にするという考え方があったのは間違いありません。また江藤は、海外渡航の経験が全くなかったにもかかわらず、書物などから海外の事情を学びそれらを基にして日本の歩むべき道を提言するという企画力(創造力)にあふれた人物でもありました。例えば、23歳(安政3年:1856年)で起草した『図海策』では、──このころ、まだ多くの志士たちが攘夷論を唱えていましたが──攘夷は無謀であり、開国して富国強兵を図ることを提案しています。さらに国際社会に積極的に参加して国際正義を貫くことにより、日本は世界から信頼される国となりうると国際関係を重視するよう提言しています。名君とうたわれた薩摩の島津斉彬(なりあきら)が積極的開国論を基に幕閣へ建白書を提出したのが、この翌年の安政4年だったことを見れば、江藤の先見性がいかに並外れていたかがわかります。もう一つ例を挙げると、明治3年(1870)、制度取調専務となった江藤は、大納言・岩倉具視に国政の基本方針に関する答申書を提出しています。この中で江藤は、君主国家のもとに立法・行政・司法の独立(三権分立)および議会の創設を求めています。さらには中央集権体制(廃藩➪郡県制)構築と封建的身分制度の廃止を主張しています。この答申書の内容は、同年8月に岩倉が朝議に提出した「建国策」に反映され、明治新政府の国造りの基本的な考えとなりました。

 人権の擁護を第一義に考えていた江藤にとって、一部の強者が弱者を虐げている現状を見過ごすことはできませんでした。明治元年(1868)10月に会計局判事となった江藤は、東京の地主が賃貸料を勝手に決めて不当な利益をあげているとして、一律に賃貸料の半減を命じ入居権利金も廃止するよう命じました。また、仲買人が大量に米を買い占めて価格をつり上げていることを知ると、仲買を廃止して小売商が直接問屋から米を仕入れることができる仕組みを提案し、物価高に苦しんでいた市民を救済しました。司法卿時代には、地方の役人などが専横や怠慢によって市民の権利を侵害することがあれば、市民は裁判所に提訴して救済を求めることができる制度をつくりました。江戸時代には、お上に上訴するなど許されることではなく、やるからには死を覚悟の上だったのですから、人々は世の中が180度ひっくり返ったように感じたことでしょう。政府高官による汚職事件(山城屋和助事件、尾去沢銅山事件など)に対しても、厳しい追及を行ったことは前述のとおりです。

 江藤が国政において最も注力したのが、司法制度の改革でした。司法卿時代(明治5年5月~明治6年10月)に、司法省の予算を削られたことに抗議して書いた長文の「辞表」の中に、江藤の思いが込められています。その主張は次のようなものでした。

──国を富ますためには、国民の権利義務を法制化し(「位置をただす」)生活の安定(「安堵」)を図ることが一番だ。すなわち、民法や刑法を厳正に定めて裁判が迅速で公明正大に行われることにより、国民は政府を信頼し、安心して実業に励むことができる。そうすれば、民が富み、民が富めば税収が増え、税収が増えれば軍備にも産業振興にも文教政策にも十分な予算を充てることができ、改革は進み、国は豊かになる。──

 江藤は、欧米の多くの国が掲げている民主主義の原理を十分に理解し、民衆が政府を信頼して力を合わせたときに発揮されるエネルギーこそが、国を発展させ日本を強国に導く力となるということを信じて疑わなかったと思われます。アメリカ人ジャーナリストで知日家のフランク・ギブニー氏は、「文化革命としての明治維新」という論文で、「(明治維新こそは、)近代史の中で試みられた最初の全面革命であった。」と述べています。明治維新は、国家体制の変革(革命)や経済システムの変革(革命)にとどまらず、封建的身分制度を廃して市民の権利と法の下の平等を高らかに宣言し人間解放をうたった全面革命だったというのです。そして、この民権の確立と人間解放を誰よりも希求し、その実現にひたすら突き進んでいったのが江藤新平だったのです。西郷にも大久保にも木戸にも板垣にも、江藤の真似はできなかったのではないでしょうか。江藤が中央政府で活躍したのはわずか4年でしたが、その功績はもっと見直されてもよいのではないかと思います。

 民権の確立と人間の開放を目指した江藤の司法改革の大きな目玉となったのが、民法の編纂でした。明治3年9月、新政府は太政官制度局に民法制定を目的とした民法会議を創設しました。当時制度取調専務だった江藤がこの会議を主導することになりました。江藤が理想とした法体系はフランスのナポレオン法典だったといいます。そこで江藤は、フランス留学から帰ってきた箕作麟祥(みつくり りんしょう)にフランス民法の翻訳を命じ、これをベースに日本国の民法編纂作業を進めるよう指示しました。ナポレオン法典とは、近代市民社会の法の規範となったもので、法のもとには皆平等であること、私的所有権の保護、過失責任の原則、信教の自由、経済活動の自由などがうたわれています。民権の擁護を第一義とする江藤にとっては、これ以上はないお手本となったに違いありません。しかし、この江藤の考え方に真っ向から反対の意を表明する男が、彼の前に立ちふさがります。江藤の「政敵」ともいわれ、佐賀の乱では征討総督代理として自ら精鋭部隊を引き連れて九州に乗り込み、「反乱軍」を圧倒し「首謀者」江藤新平を梟首(きゅうしゅ:さらし首)の刑に処した男・大久保利通です。

江藤が佐賀の乱に参戦した本当のわけ

 大久保利通が理想とする国のかたちは、普仏戦争(プロイセンとフランスとの戦争)に勝利してドイツ帝国を建国したビスマルク宰相の治世でした。ドイツ帝国は複数の王国、公国、自由市などで構成され、プロイセン王国の圧倒的な軍事力によって統合された連合国家でした。宰相のビスマルクの権力は絶対的なもので、議会は法案審議するだけで決定権は宰相にあったといいます。立憲主義とは名ばかりで、宰相独裁の政治体制でした。岩倉使節団の一員として欧米視察に参加した大久保は、明治6年(1873)3月にビスマルクの邸に招待され、日本が手本とする国のかたちはドイツ帝国にあると確信したといいます。──日本にはあまり時間がない。富国強兵・殖産興業を強力に推し進めて欧米列強に追いつき、不平等条約を改正するためには、ドイツのような強力なリーダーシップで改革を推し進めていく必要がある。民主主義だなどと叫んでみても、封建時代に「お上」のいいなりで暮らしてきた人々に、民権だ自立だなんてわかるはずもない。それが育つには途方もない時間が必要だろう。そんな余裕はこの国にはない。ここは、少々強引にでもドイツ式で行くしかない。──これが大久保の偽らざる心境だったのではないでしょうか。実際、明治六年の政変後、大久保は内務卿に就任しました。内務卿は、太政大臣や左右大臣よりも高い地位にあり、天皇の代理として政治を遂行できる立場にありました。「大久保宰相」の誕生です。

 「独裁政治」やむなしと腹をくくった大久保にとって、目の上のたんこぶともいえる人物がいました。民権擁護を主張する江藤新平です。江藤はフランス民法を土台にした新しい民法を編纂したり、議会制民主主義や住民自治を唱えるなど、ことごとく大久保のやり方に反対してきました。海外の制度にも造詣が深く、弁もたちます。西郷訪朝を決める閣議でも大久保は論戦で江藤に敗れ、いったんは西郷訪朝が決議されてしまったという苦い経験を持っています。──江藤は危険だ。何とかせねば。──そう、大久保は思っていたに違いありません。その大久保に絶好の機会が訪れました。佐賀の不平士族が徒党を組んで、佐賀は一触即発の状態になったのです。しかも彼らは、前参議の江藤を党首にかつごうとしていました。そして、その江藤が不平士族説得のために佐賀に向かったという知らせが届いたのです。大久保は早速動きました。穏健派で知られる佐賀県令の岩村通俊(みちとし)を解任し、その弟である岩村高俊を県令に就任させました。新県令の高俊は、熊本鎮台の兵を率いて佐賀城に入城しました。さらに同年2月9日、大久保自ら征討総督代理として政府軍精鋭部隊を率いて東京を発ち、博多に向かいました。政府が武力をもって佐賀の不平士族を鎮圧しようと動いたことに、江藤新平も島義勇(佐賀の乱のもう一人のリーダー)も憤慨し、「反乱軍」に参加することを決意しました。大久保が仕掛けた挑発に、まんまと乗せられてしまったのです。

 ところで、江藤が佐賀の乱に加わる決意をした理由は、単に大久保らの挑発に乗せられたという単純なものだけだったのでしょうか。もちろん、県令・岩村高俊が軍隊を引き連れて入城し、武力をもって「反乱軍」を鎮圧しようとしたことに憤慨したことが直接の動機となったことは否定できません。しかし、一時の感情だけでこのような重大な決断をしてしまうほど、江藤か愚かだったとは思えません。その背後には、崩そうにも崩せない壁の前でもがき苦しんでいた江藤の悲痛な思いがあったように思えます。江藤は民権の擁護を何よりも優先し、議会制民主主義を確立して住民自治を根付かせることを願っていました。そのためには、フランスの民法を手本として新生日本にふさわしい民法の制定が不可欠だと考えていました。江藤は岩倉使節団に期待していたといいます。欧米の近代化された社会制度を目の当たりにすれば、必ずや江藤の考えを理解し同調してくれると。ところが、全くの期待外れでした。──大久保に至っては、議会制度を形骸化して宰相独裁を実現したビスマルクを信奉し、自ら内務卿となってビスマルク型政治を日本で実践しようとしている。西郷訪朝問題では、閣議で決定したことを一部の人間(大久保と岩倉)が恣意的に捻じ曲げて、閣議決定をなきものにした。そのトバッチリを受けて、自分(江藤)は参議と司法卿をやめざるを得ず、道半ばだった民法の編纂作業からも手を引くことになってしまった。さらには旧長州藩士が起こした汚職事件も、木戸や伊藤(俊輔)らが動いて、うやむやにしようとしている。尾去沢銅山を「強奪」した井上馨にいたっては、政変後に参議・工部卿に昇進した同郷の伊藤俊輔に手紙を送り、鉱山の免税の要求やどこかの鉱山(名前の部分が破棄)を自分に払い下げてほしいと要求をしてきているようだ。まったく反省の色がない。このままでは被害者は泣き寝入りで、巨悪を見逃すことになる。こんな政府ではダメだ。しかし今は参議も辞職し、平和裏に戦う手立てを失ってしまった。それならば正義のために(武力をもって)立ち上がるしかない。──そんなところでしょうか。しかし、江藤はあまりにも急ぎすぎました。やるならば、旧薩摩や旧土佐などの不平士族らと連携し、時機をうかがってから立つべきでした。結局は、大久保の挑発に乗せられて自滅してしまいました。

 しかし、江藤新平がまいた種は、やがて実ることになりました。明治22年(1889)2月11日に大日本帝国憲法が公布され、翌年11月に、第1回の帝国議会が招集されました。議会は、選挙で選ばれる衆議院と非公選の貴族院の二院制でした。一方では、江藤が最も精力を傾けた民法は、佐賀の乱から16年後の明治23年(1890)にやっと公布されました。しかし、大久保の遺志を継いだ(大久保は明治11年暗殺される)政府首脳からは、フランス法を土台にした民法に対して反対意見が続出して施行されませんでした。その代わりに、きわめて保守的色彩の強いドイツ法を基にした民法が編纂され、明治31年に施行されました。

 歴史にタラレバはないといいますが、もし岩倉が大久保と結託して三条太政大臣に辞表を提出する行動に出なかったなら、その後の日本はどのように変わっていったでしょうか。岩倉が三条を裏切って辞表を出さなければ、三条が病に倒れることもなく、西郷訪朝は閣議通り天皇の裁可を得たでしょう。そうすれば、佐賀の乱で江藤が梟首されることも、西郷が西南戦争で憤死することもなかったかもしれません。そして、大久保が望んだビスマルク型の独裁政治ではなく、もう少しゆるやかで民主的な政治体制になっていたかもしれません。そうすれば、経済発展のスピードは少し遅くなったかもしれませんが、異常な軍拡路線を突き進むこともなく、アメリカとの無謀な戦争に突入することもなかったかもしれません。何よりも、西郷訪朝によって日朝関係は改善され、歴史問題などでお互い無用なエネルギーを費やすこともなかったかも知れません。それほどまでに、明治六年の政変は歴史の大きな流れを決定する分水嶺だったのです。

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この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 毛利敏彦著『江藤新平』(中公新書)
  • 杉谷昭著『江藤新平』(吉川弘文館)
  • 鈴木鶴子著『江藤新平と明治維新』(毎日新聞社)
  • 司馬遼太郎著『歳月』(講談社)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史22』第3章~第5章(小学館)
  • 川道麟太郎著『西郷「征韓論」の真相』(勉誠出版)

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