ー甲斐健の旅日記ー

石田三成/三成が関が原で負けた本当のわけとは

 慶長5年(1600)9月15日、美濃国不破郡関ケ原(現・岐阜県不破郡関ケ原町)において、その後の日本の行く末を決める分水嶺となる戦いがありました。関ケ原の戦いです。豊臣政権を終わらせ新たな統治者たらんとする徳川家康率いる東軍と、あくまでも豊臣政権を守り抜こうとする石田三成率いる西軍との激突です。双方の兵力はほぼ互角で、勝敗の行方は混とんとしているかに見えました。ところが、西軍として参戦していた小早川秀秋が寝返り、同じく西軍の毛利一族(毛利秀元、吉川広家)のサボタージュ(家康の陣の背後に位置する南宮山に陣を構えながら一歩も動かず、三成の総攻撃の合図も無視した)があって形勢は一気に東軍有利に傾きました。戦いはわずか1日で決着がつき、東軍勝利で終わりました。再起を期して関ケ原から伊吹山中に逃げ込んだ石田三成でしたが、決戦から6日後に東軍の田中吉政隊に捕縛されてしまいます。家康の陣に護送された三成は、大坂や堺市中を引き回されたのち京都六条河原で斬首されました。この戦いにより、徳川家康の権勢は不動のものとなり、歴史の歯車は、徳川幕府成立・豊臣氏滅亡へと向かって回転していくことになったのです。

 ところで、以前からずっと疑問に思っていたことがあります。実はこの戦いでの東軍の主力は家康傘下の徳川部隊ではなく、豊臣恩顧の大名(福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら)だったのです。中山道を関が原に向かっていた秀忠率いる徳川主力部隊3万8千が、信濃上田城主・真田昌幸に足止めを食らって決戦に遅参したという大失態を演じたにもかかわらず、それを帳消しにするような豊臣恩顧の武将たちの行動でした。このとき西軍は、総大将の毛利輝元が大坂城に入り、豊臣秀吉の嫡男・秀頼を擁していました。場合によっては、恩義ある秀吉公の忘れ形見・秀頼に刃を向けることになるかもしれない状況下で、なぜ彼らは家康側についたのでしょうか。定説では、生前の秀吉に寵愛された石田三成への反感・恨みが原因だといわれます。しかし、いやしくも一国一城の主として国を治めている大名たちが、恨みつらみのような感情だけでこのような重大な決断をするとは、とても考えられません。そこには、家康側につかざるを得ない、もっと深い別な理由があったに違いありません。豊臣恩顧の彼らにとって、亡き主君への恩義を捨ててまでも守らなければならなかったものとは、一体何だったのでしょうか。

 関が原の戦いの勝敗を分けたもう一つの要因は、家康による毛利一族への調略作戦の成功でした。小早川秀秋の寝返り、吉川広家・毛利秀元のサボタージュが東軍勝利を決定づけたのは言うまでもありません。さらに、西軍の総大将にまつりあげられた毛利輝元が、大阪城から一歩も出ずにとどまっていたのも、三成にとっては誤算でした。もし毛利家の当主である輝元が、幼少の秀頼を擁して出陣していれば、毛利一族の寝返りやサボタージュはなかったかもしれないし、何より、東軍の豊臣恩顧の大名たちも、戦意を大幅に削がれる結果となったかもしれません。

 ある人は言います。「250万石を領有する徳川家康と、佐和山19万4千石の石田三成とでは所詮格が違う、勝負にはならなかったのだ」と。また、徳川打倒のため挙兵すると三成から打ち明けられた盟友・大谷吉継は、「勝目がないからやめとけ」と何度も説得したといいます。しかし、徳川家康を打倒しなければ豊臣政権の未来はないとする三成の信念は揺るぎませんでした。大谷吉継や宇喜多秀家はじめ多くの西国の大名を味方につけ、家康率いる東軍に匹敵する軍勢を集めて決戦にのぞむことになったのです。明治18年(1885)、日本政府の招きで陸軍大学校に赴任したドイツ軍人ヤコブ・メッケル少佐は、ある時、この関ケ原の戦いの東西両軍の配置図を見て、開口一番「これは西軍の勝利だな」と言ったといいます。これは重要な証言です。もし裏切りなどがなく、東西両軍がまともにぶつかり合っていれば、西軍が勝利する可能性は十分にあったということです。この戦いに参戦しようとした大名たちは、当然ながら、どちらが優勢かを見極め判断材料の一つとしていたはずです。実際、開戦前の時点では西軍有利という見方もできた状況でした。にもかかわらず、家康の調略にやすやすと乗ってしまった毛利一族の思惑とは、どのようなものだったのでしょうか。考えれば考えるほど、疑問は深まっていきます。本コラムでは。関ケ原の戦いに至るまでの経過を振り返りながら、これらの疑問点について考えてみたいと思います。まずは、石田三成の出自や秀吉のもとで大出世する経緯を振り返っていきます。

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 石田三成は、永禄3年(1560)、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)で、石田正継の次男として生まれました。幼名は佐吉といいます。石田家はこの地に土着した豪族で、石田村の領主であったと考えられています。現在、石田家屋敷跡には石田会館が建ち、三成ゆかりの史料が展示されており無料で開放されています(2020年11月は、新型コロナ流行の影響で閉館していましたが……)。三成の父正継は、行政手腕もさることながら和漢の学問にも通じ、和歌も詠じた教養人でした。三成も兄の正澄同様に、幼いころから学問に打ち込む環境にあったと思われます。やがて三成は、峠を越えた隣村の大原観音寺に小僧として修業に出されます。そして、ここで、三成にとって人生の最大の転機となる出会いが待っていました。

 ある日、長浜城主となっていた羽柴秀吉が、タカ狩りの帰りに大原観音寺に立ち寄り一服の茶を所望しました。すると、一人の小僧が大きめの茶盌に七、八分目ほど入れた、ぬるい抹茶を持ってきました。のどが渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干しました。そして、その小僧の立ち居振る舞いに興味を覚えた秀吉は、もう一杯の茶を所望しました。すると今度は、茶盌の半分に満たない量で、前よりも熱く点てられた茶を持ってきました。これを飲み干した秀吉がさらにもう一杯の茶を所望すると、その小僧は、小ぶりの茶盌にさらに熱く点てた茶を持ってきました。さすがの秀吉も、客の要望を汲み取り機転を利かせるこの小僧の才知に感心し、寺の住職に懇願して家来としてもらい受けたといいます。この小僧こそ、若き日の石田三成(幼名・ 佐吉15歳)でした。この秀吉との出会いから、石田三成の出世物語が始まったのです。現在も観音寺境内には、「石田三成水汲ノ池」と呼ばれる井戸の跡があります。この「三献の茶」の逸話は、江戸期のいくつかの書物に記載されたものですが、真偽のほどは不明です。しかし、この時期に三成が秀吉に認められ、小姓として秀吉の家来になったことは事実だと思われます。

 秀吉の家来となった三成は、はじめ秀吉の身の回りを世話する近習として仕えていましたが、織田信長が本能寺の変で自刃したころから、秀吉の側近として頭角を現していきます。秀吉の天下取りの初戦となった賤ケ岳の戦い(天正11年〈1583〉)では、柴田勝家軍の動きを探る偵察活動をするとともに、実際の戦闘にも加わりました。徳川家康と雌雄を決する戦いとなった小牧・長久手の戦い(天正12年〈1584〉)にも従軍し、その後、近江国蒲生郡の検地奉行を務めています。天正13年(1585)7月、秀吉が関白に就任すると、三成も従五位下(じゅごいのげ)治部少輔(じぶしょうゆう)に叙任されました。このころから三成は、豊臣政権下での取次役を任されていたといいます。取次役とは、各大名への命令伝達、政策指導などを行う重要なポストで、諸大名を豊臣政権に服属させ取り込んでいくという重要なミッションでもありました。天正14年(1586)には、当時越後国の領主だった上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛したとき、これを斡旋したのが三成でした。このころから、三成と上杉家の関係が深まっていったといわれます。また、天正15年(1587)の九州平定ののち、薩摩の島津義久が敗北を認め秀吉に謁見したいと望んだ時、これを斡旋したのも三成でした。その後、薩摩における大名検地を主導することになります。さらに、小田原の北条氏征伐ののち、北関東の常陸国領主・佐竹義宣の秀吉への謁見を斡旋するなど、節目節目で取次としての重要な任務をこなしていきました。

 秀吉の唐入り(文禄の役)では、前線部隊の士気を揚げ統制を図るためにと秀吉の朝鮮渡海を強く主張し、それに反対する徳川家康と大激論を交わします。結局秀吉の渡海は翌年春まで延期となり、三成自ら大谷吉継、増田長盛らと共に海を渡り朝鮮奉行として着任することになりました。開戦当初は快進撃を続け平壌(ピョンヤン)まで進撃した日本軍でしたが、明軍の応援を得た明・朝鮮連合軍に押し返され、戦局は膠着状態となっていきました。双方決め手を欠き、結局明との講和を結ぶことになりました。このとき講和に積極的だった小西行長や石田三成の文治派(ぶんちは:政務を担った武将たち)と、あくまでも侵攻継続を主張する加藤清正や福島正則らの武断派(ぶだんは:軍務を担った武将たち)との対立が激化し、これがその後の豊臣政権内の分断を加速させたとの見方があります。

 天正19年(1591)、三成は佐和山城の城代(城主代理)となります。佐和山城は琵琶湖の東岸(現・滋賀県彦根市)に位置し、東国と畿内を結ぶ交通の要衝で、軍事防衛上も重要な地でした。この4年後には、正式に佐和山城主となり19万4千石を与えられました。さらに、秀吉晩年の慶長3年(1598)7月には五奉行の一人に名を連ね、名実ともに豊臣政権の屋台骨を支える重臣となりました。

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 天正13年(1585)、晴れて関白となった豊臣秀吉は惣無事令(そうぶじれい)を発令します。はじめは九州地方に、その2年後には関東・奥羽地方に拡大していきました。これは大名間の領土争いなどによる私戦を禁じ、すべての紛争事は豊臣政権下で裁定するというもので、豊臣政権による天下統一を実現するための切り札となるものでした。これに違反した大名は厳しく罰せられることとなり、島津氏に対する九州征伐や北条氏に対する小田原城攻めは、この取り決めに基づいて行われたといいます。

 豊臣政権が次に目指したのは、社会経済システムの改革でした。この改革には、石田三成はじめ奉行衆が大きくかかわっており、三成はその主導的役割を果たしたと思われます。まずは、農村社会に喧嘩停止令を出し、百姓同士の水や土地をめぐる争いを「私戦」として禁止しました。その代わりに農民からの訴えを訴訟として受け付け、話し合いで解決する仕組みをつくりました。さらに、検地の全国的展開(太閤検地)をすすめました。従来も、戦国大名による検地は行われていました。耕地面積を基に収穫高を推定し、それを銭の価値に換算して年貢の取り立ての基準とするものでした(貫高制:かんだかせい)。しかしこれらの検地は、実際の収穫高を正確に反映するものではなく、また銭への換算基準も地方によって違っていたことなど不十分なものでした。それに対して太閤検地では、奉行が現地に赴き実地調査を行ってその土地の収穫量を判定しました。具体的には、まず土地の広さの単位を全国統一し(町・段・畝・歩)、それまでマチマチであった秤量用の枡(ます)も京枡に統一しました。そして、村ごとに田畑の面積や等級(収穫率:上・中・下・下々)を定め、収穫高を算定しました。収穫高は、石(こく:1石=10斗=100升:1石は一人がほぼ一年間に食べる米の量)という単位であらわすことになりました(石高制:こくだかせい)。検地によって得られた結果は検地帳にまとめられ、年貢の取り立てや大名への軍役賦課などのための基礎資料として用いられました。実際三成も、薩摩や常陸などで検地奉行として現地の測量の監督業務をこなしています。鹿児島市の尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)には、三成が検地の際に使ったとされる「太閤検地尺」(寸法は1尺、石田三成の花押あり)が現存しています。太閤検地により、年貢収入が安定化すると共に、石高に応じて兵役を課すなど、豊臣政権による大名統制の強化に大いに役立ったといいます。

 さらに太閤検地は、農村社会に重大な変化をもたらしました。戦国時代においては、農村の中に小領主(「村の侍」)が存在し、村を守る代わりに農民から年貢(小作料)を徴収するという仕組みができていました。また、大きな戦があると、農民は武器を持ち合戦に駆り出されることも多かったようです。しかし、太閤検地によって 検地帳には耕作地と耕作農民の名前のみが記されることとなり、農村における「村の侍」の既得権益は完全に否定されました。農村から追い出された武士たちは城下町に集まり、「村の侍」から解放された農民たちは、農業生産に専念することができるようになりました。生産圏(農村)と消費圏(城下町)とが明確に区分され、兵農分離が徹底されていきます。もはや農民たちは、武器をもって戦う必要はなくなり、農業に専念することができるようになったのです。農民から武器の供出を求める刀狩令の発令は、このような環境下での自然な帰結だったといえます。このような役割分担の明確化は、農業生産の安定化につながり、年貢収入に頼る藩財政の安定化にも寄与したと考えられます。このシステムは大変優れたもので、徳川幕府にも受け継がれ、以後270年間にわたって日本の社会・経済を支えていくことになります。

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 石田三成に対する世間の評価は、決して良いものではありませんでした。──頭は切れるが常に人を見下すような態度で接するあまり、多くの敵をつくってしまう。秀吉に取り入り、その権威をかさにきて陰謀をめぐらし、多くの政敵を排除してきた──などなどです。これらの評価は、おもに江戸時代の書物や物語の中で語られ定着してきました。もちろん、亡くなったのちに神にまで祀り上げられた徳川家康公に刃向かって戦を仕掛けた張本人ですから、ある程度の批判は覚悟しなければならないのかもしれませんが、それにしてもその徹底ぶりはすさまじいものがあります。

 ところで、この「三成バッシング」はいつごろから、どのようにして始まったのでしょうか。「水戸の黄門様」で有名な水戸光圀公(家康の孫)は生前、石田三成を高く評価していたといわれます。光圀が亡くなった翌年(元禄14年〈1701〉)に家臣らがまとめた『桃源遺事』(とうげんいじ)という活字本(光圀の行状・逸話をまとめたもの)には、──光圀公が石田三成を君臣として評価している──とあります。少なくとも、江戸初期には三成=悪人という評価は未だ定まっていなかったようです。ところが、家康が亡くなり日光東照宮に祀られて神格化されるようになると、家康に敵対して戦いを挑んだ石田三成を悪とする風潮が次第に強まっていきます。ついには、三成は様々な陰謀をめぐらして政敵を貶(おとし)めていったとする、まことしやかな物語が世上に氾濫していきました。その主なものを挙げてみます。

千利休切腹事件

 秀吉の弟秀長が亡くなり後ろ盾を失った千利休が、秀吉に不興を買い切腹させられた事件(天正19年〈1591〉)も、三成の讒言(ざんげん:でっち上げ)によるものだといいます。利休が切腹させられた原因の一つが、京都・大徳寺の三門の上層部に置かれた利休の木造でした。これは、三門上層部増築の際に利休から寄進を受けた大徳寺側が、利休自身の木造を楼上に安置することをすすめたものでした。しかし、大徳寺を参拝するため三門をくぐる貴人(秀吉も含む)の頭上に雪駄履きの像を置くなどとんでもないことだと秀吉に訴えた者がいました。秀吉も「利休の慢心極まれり」と怒り、利休に切腹を命じたといいます。この、秀吉に告げ口をして、利休を切腹に追い込んだ張本人こそ石田三成だというのです。ところが、この事件後も三成は大徳寺との深い関係を保ち続けました。そして、三成が関ヶ原で敗れて家康に処刑されたのちも、沢庵和尚らがその遺骸を引き取り大徳寺三玄院(さんげんいん)に葬ったといいます。三成の墓は、今も三玄院にあります(残念ながら非公開)。このことからも、三成が大徳寺三門の利休像をネタにして利休追い落としに関わったという話は、根も葉もないデマだったと言えるのではないでしょうか。

蒲生氏郷毒殺事件

 秀吉にして、「100万もの大軍の采配をさせたい人物」と言わしめた猛将・蒲生氏郷(がもううじさと:会津若松92万石藩主)が、文禄4年(1595)2月、40歳の若さで病死しました。当時著された『石田軍記』や『蒲生盛衰記』には、軍略・人物に優れた氏郷が将来豊臣家の天下を脅かす存在になると危惧した三成が、ひそかに毒殺したと書かれています。しかし、氏郷の診察に関わっていた曲直瀬道三(まなせ どうさん)以下9人の医師の診察記録には病状が詳しく記載されており、これらの記録から氏郷の病気はすい臓がんであったと、現在は推定されています。また、氏郷の死後、蒲生家の重臣・蒲生郷舎(さといえ)ら多くの家臣が三成に仕え、関ケ原の戦いでも三成と共に戦っていることからして、三成が氏郷の毒殺を首謀したと考えるのは、少々無理筋ではないかと思われます。

関白秀次失脚事件

 文禄4年(1595)7月、秀吉の甥で関白となっていた秀次が高野山で切腹させられ、翌年には、秀次の妻妾・子供30数名が京都・三条河原で惨殺された事件です。この事件も、三成が深く関与したと、『石田軍記』『伊達成実実記』などに記されています。『甫庵太閤記(ほあんたいこうき)』に至っては、秀次の側近・木村重茲(しげこれ)を嫌っていた三成が、重茲を陥れるために秀次失脚をはかったとまで書いています。しかし、この秀次事件は秀吉と秀次の路線対立(中央集権化をすすめようとする秀吉とそれに反対する秀次との意見対立)が原因ではないかという見方が、現在では主流です。三成は秀吉の最側近の一人でしたので、秀次処罰に何らかの関わりを持ったのは間違いないでしょうが・・・。一方では、事件後、三成は関係者の救出に奔走したとも言われます。実際、秀次の家臣たちを庇護し、多くの者を召し抱えました。彼らは三成に恩義を感じ、関ケ原の戦いでは三成のもとで戦ったといいます。三成が首謀したという江戸期の書物の主張は的外れだといわざるを得ません。ところで秀吉は、秀次事件に連座して、秀次と交流のあった大名をも処罰しようとしました。実際、北政所の義弟・浅野長政は能登に配流されています。伊達政宗や細川忠興も危ないところだったのですが、徳川家康のとりなしで助けられました。家康に助けられた大名の多くは、関ケ原の戦いで家康側の東軍に与することになります。

加藤清正蟄居・小早川秀秋減封

 文禄の役(天正20年〈1592〉)で朝鮮に侵攻した日本軍は、連戦連勝で一時は平壌(ピョンヤン)まで攻め入りました。しかし、明・朝鮮連合軍の猛烈な反撃にあい漢城(かんじょう:現ソウル)まで後退を余儀なくされ、戦局は膠着状態となりました。ここで日本軍の第一陣として最前線で戦っていた小西行長と、朝鮮奉行として漢城に派遣されていた石田三成は、明との講和を結ぶことに決しました。しかし行長と共に最前線で戦っていた加藤清正はあくまでも主戦論を展開して譲りません。三成はこの状況を忠実に秀吉に報告します。すると秀吉は、清正に帰還命令を出し蟄居(ちっきょ:自宅謹慎)を命じました。これが三成の「讒言(ざんげん)によるものだとして、清正は三成を深く恨むことになったというのです。しかし、小西行長と加藤清正の路線対立は現実にあったことですし、それを秀吉に報告して裁可を仰ぐことは当然の行為であって、三成が清正に恨まれる筋合いのものでもないと思われます。清正の蟄居は、三成の讒言のおかげだという批判は当たらないと思います。また、清正ほどの武将が、こんなことで相手を殺したいほど恨むものでしょうか。

 一方、慶長の役(第二次朝鮮出兵:慶長2年〈1597〉)において16歳で総大将として渡海した小早川秀秋の減封問題も、石田三成の讒言によるものだという説があります。江戸・元禄期に新井白石が著した『藩翰譜』(はんかんふ)などには次のように記されています。

──慶長の役で日本軍が苦戦していることを知った秀吉は、総大将の小早川秀秋をいったん帰国させた。作戦を無視して戦場で勝手にふるまう秀秋だったが、先頭を切って突撃するその勇猛さを、秀吉はいったんは褒めた。しかし石田三成が、「あまり褒めすぎると将来秀頼様の脅威になるかもしれません。ここは厳しく処断すべきです。」と進言したため、秀吉が態度を急変させ、秀秋を筑前・筑後33万6千石から越前・北ノ庄16万石に減封・転封させた。これを知った秀秋は、石田三成を深く恨むようになったという。──

 一見、よくできた話のように思われます。しかし、小早川秀秋を総大将とする日本軍が苦戦を強いられ、秀吉が思い描くような戦いができていなかったのも事実です。さらに、秀吉が若い秀秋の後見役として付けた宿老・山口宗永と秀秋の折り合いが悪く、宗永の忠告を聞き入れず勝手な行動が目立っていたといいます(『筑紫文書』など)。とすれば、「若い秀秋には重荷だったかな」と秀吉が考え、秀秋に帰国を命じたのもうなずけます。さらに、秀秋の所領であった筑前・筑後は、朝鮮半島への重要な兵站基地(へいたんきち)であったため、若い秀秋に任せるのは心配だとして、転封せざるを得なかったものと思われます。秀秋が北ノ庄に移った後、筑前・筑後は蔵入地(くらいりち:中央政府の直轄地)となり、石田三成が代官に任命されました。以上の経緯からも、三成陰謀説は無理筋だと考えられます。なお筑前・筑後両国は、秀吉亡き後徳川家康の差配によって小早川秀秋に戻され、59万石に大幅加増されました。秀秋にとって家康は大恩人となったのです。

 以上みてきたように、江戸期における書物の中で語られてきた「三成バッシング」は、どれも根拠の薄いものであり、権現様(ごんげんさま:神)である家康公に刃向かった不届きな人物として石田三成の評価を徹底的に貶めるという意図があったといわざるを得ません。それでは、三成という男は本当はどんな人物だったのでしょうか。その素顔に迫ってみたいと思います。

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 肥前国平戸藩(現・長崎県平戸市)第9代藩主・松浦静山が書いた『甲子夜話』(かっしやわ:文政4年〈1821〉)に、次のような記述があります。

──関ケ原の戦い後、佐和山城が陥落した。城に攻め入った兵士たちは、秀吉の重臣だった石田三成の居城で外見も立派だったので、城中も豪華で華麗なつくりになっていると期待して城の中に入った。ところが、壁は荒壁で上塗りなどはされず、床も板張りだった。庭も質素な造りで、皆がっかりしたという。──

 つまり、城の外観は豊臣政権の威信を保つために豪奢な構えにするが、内装は極力節約して無駄な金は使わないという三成の信念が伝わるエピソードです。三成は普段から、「奉公人は主君より戴いたものはすべて主君のため使って残さないものだ。残すのは盗人であり、さらに使い過ぎて借金するのは愚人である」と、口癖のように言っていたといいます(『老人雑話』)。つまり三成は、私利私欲なく主君に忠実に仕える、清廉潔白な人物だったということになります。「三成バッシング」が横行していた時代の証言ですので、注目に値します。また、徳川家康に仕えた医師・板坂卜斎(いたさか ぼくさい)が書いた『慶長年中卜斎記』によれば、佐和山城落城後、城中には金銀や金目のものはが一切なかったといいます。ほかの奉行衆が多くの金銀を蓄えていた中で、三成は賄賂などほとんど受けていなかったのでしょうか。本当に、清廉潔白で主君思いの人物だったように思われます。

 豊臣家の忠臣として私利私欲を捨てて尽くした三成でしたが、頭脳明晰のあまり他人を見下すような物言いが過ぎて、多くの敵をつくったという指摘があります。しかし、三成の生きざまを理解し認めあった友人が多くいたことも事実です。豊臣家中の同僚だった大谷吉継とは若いころから互いを認め合う仲でした。吉継がライ病を患って苦しんでいるときも、その友情は変わることはありませんでした。関ケ原の戦いでは、三成の必死の説得に応え、三成と共に戦い憤死しています。上杉家家老・直江兼続(なおえ かねつぐ)も三成の大切な友人の一人でした。二人の最初の出会いは、上杉家の当主・景勝と秀吉との越後・落水城での会見を三成が取次として斡旋した時でした。上杉家伝統の義の心を大切にする兼続と、私心なく豊臣家に仕える三成とは、すぐに意気投合しました。二人とも永禄3年(1560)生まれの同年代です。秀吉亡き後も、徳川家康の権力奪取の策謀に反発し、反徳川の旗を鮮明にして戦いました。上杉家は領地会津の防衛線を固めて、家康の会津征伐を迎え撃つ覚悟でした。三成は、西軍の実質的なリーダーとして、家康率いる東軍と関が原で相対しました。

 三成の生きざまを高く評価していた人物の一人が、沢庵和尚(たくあん おしょう)です。沢庵は、三成が関が原で敗れて処刑されたあと、師の春屋宗園(しゅんおく そうえん)と共にその亡骸を引き取り、大徳寺三玄院(京都府北区紫野)に葬りました。三成の墓は、現在も三玄院に現存しています。その後も沢庵は、三成への信義を貫きとおしたといいます。豊臣家を裏切った細川忠興から父・幽斎の供養を頼まれたときも、筑前50万石領主となった黒田長政(関ケ原の戦いで、小早川秀秋の裏切りや毛利家のサボタージュを陰で演出した男)から父・如水の供養を頼まれたときも、沢庵はこの要請をきっぱりと断っています。豊臣家に恩義がある彼らが家康に迎合して、結果的に三成を死に追いやったことが、沢庵にはどうにも許せなかったのです。

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三成蟄居

 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉は病の床で亡くなりました。秀吉の遺言で、秀頼が成人になるまでは五大老・五奉行の合議制で天下の仕置きが行われるはずでした。しかし、秀吉逝去の翌年閏3月に五大老の一人・前田利家が亡くなると、家康の天下取りに向けた動きが活発になります。まずは、家康にとって厄介な抵抗勢力・石田三成の排除です。利家が亡くなった当日の深夜、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興ら豊臣恩顧の7人の大名が鉄砲隊を加えた軍勢(一説には3,000名)を率いて、石田三成襲撃を企てました。この情報を事前に察知した三成は、大坂の屋敷を抜け出し、伏見城内にある三成の屋敷・治部少丸(じぶしょうまる)に逃げ込みました(一説には三成は家康の屋敷に逃げ込み助けを請うたとあります。物語としては面白いのですが、敵の襲撃に備えた防衛能力を持った治部少丸に逃げ込んだという方が現実的だと思われます)。このとき、5大老の一人・宇喜多秀家は8,000の兵を待機させ、三成を支援しようとしていました。また、薩摩の島津、筑後の立花、常陸の佐竹も、三成支援のために動こうとしていたといいます。まさに一触即発の状態だったわけです。結局、徳川家康が仲裁に入り、加藤清正ら七将は武器をおさめ、三成は自分の城・佐和山城に蟄居(ちっきょ:自宅謹慎)することで事態は一応収拾しました。家康としては、口うるさい三成を中央政界から追放出来て万々歳というところでしょう。定説では、清正ら七将が三成を襲撃したのは、三成への恨みつらみが爆発した結果だといわれます。しかし、本当にそうだったのでしょうか。単に恨みをはらすためなら、このような大事にはせずに陰で暗殺してしまえば良いわけです。七将そろって軍まで繰り出して三成襲撃を企てるというのは、一種の「政治的パフォーマンス」だったのではないかと思えるのです。そして彼らの行動には黒幕が関与していたのではないか。その黒幕とは……もちろん、家康しかいないでしょう。とすれば、家康は、どんな手を使って彼ら七将をけしかけたのでしょうか。それについては、あらためて述べることにします。

家康動く

 三成を中央政界から追放することに成功した家康は、天下取りに向けた動きを一層活発にしていきます。まずは秀吉存命中に取り交わされた大名間の私婚禁止の約束を反故にし、六男忠輝と伊達政宗の娘、自分の養女と福島正則の子・正勝との縁談をすすめました。次に、北政所を大阪城西ノ丸から追い出し、自ら大阪城に入りました(一説には、北政所が家康の大阪城入城を望んだともいわれます)。これにより家康は、豊臣家の嫡子・秀頼(7歳)を手中におさめ、政権を意のままに操ることを画策したと考えられます。次に家康は、あろうことか自分の居住する西ノ丸にも天守を建造しました。大阪城は本丸と西ノ丸に二つの天守を持つ城となったのです。天下人を目指す家康の、並々ならぬ執念が感じられます。

 家康は、各大名を取り込むための工作を次々と実行していきます。まず、毛利家や島津家に対して旧領を安堵するという誓書を与えました(秀吉の遺訓では個人的な誓書の取り交わしは禁じられていたのですが)。さらに、家康襲撃を企てたとして、5奉行の一人・浅野長政、豊臣秀頼の側近・大野治長らが処分されました。細川忠興にも疑いがかけられましたが、懸命の弁明の結果、誓書を出すことで許されました。しかし、忠興と姻戚関係にある加賀藩・前田家については疑惑が晴れないとして、家康は加賀征伐に繰り出す姿勢を見せました。慌てた前田家は、当主利長(利家の嫡男)の母・芳春院(まつ)を江戸に人質に出すこと、家康に従うという誓書を出すこと、そして家康の嫡男・秀忠の次女を利長の弟に嫁がせることを約束し、事なきを得ました。家康の大名懐柔計画は着々と進んでいきます。そしてその総決算ともいうべき仕事が、会津征伐でした。

 会津藩主・上杉景勝は、領内の城塞の修築や新城建設、武器の調達などをすすめており、謀叛の疑いがあるという報告が家康に届けられました。これを受けて家康は、会津征伐を決断します。これには、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家、五奉行の長束正家、増田長盛らが反対しますが、家康の決意は変わりません。幼い秀頼を動かし、豊臣家から軍資金と兵糧米を提供してもらう形にし、この会津征伐が秀頼の命令で行われるかのように演出して見せました。そして、慶長5年(1600)6月16日、家康は大阪城を発ち会津に向かいました。秀頼の命令ということもあって、福島正則、細川忠興ら多くの豊臣恩顧の大名たちもこの征伐に参加しました。

三成決起

 家康は、7月2日に江戸に到着し態勢を整えると、同月21日に江戸を出発し会津に向かいました。ところが、その途中で突然会津征伐は中止となりました。上方で石田三成らが不穏な動きを見せているという情報が家康のもとに届いたからです。実際、家康が上方を留守にしているすきをついて三成らが決起しました。それに呼応するように、毛利輝元(毛利家当主)が1万余りの軍を率いて広島を出て、7月16日に大阪城に入城しました。そして、家康が置いていた留守居役の佐野剛正を追い出し、西ノ丸に入りました。これにより、大阪城本丸にいる秀頼を家康の手から取り戻すことに成功したのです。さらに、家康の行状について糾弾する「内府公違ひの条々」という十三箇条の文書を三奉行の連署で諸大名に送りつけました(7月17日付)。

家康ピンチ

 一説によれば家康は、わざと大坂を留守にして三成の決起を促し、三成に味方する藷将を一気に討ち果たそうと考えたのだといいます。しかしこれは、危険な賭けだったように思えます。実際、毛利輝元により秀頼という錦の御旗を奪われ、東の上杉と西の毛利・石田をはじめとする連合軍とで挟み撃ちにされるという、戦術的にも厳しい状況になってしまいました。この時点では、家康をめぐる状勢は決して楽観できるものではなかったと思われます。しかし、家康にとって幸運だったのは、会津征伐に参加していた豊臣恩顧の藷将たちの考えが、上方の情勢変化にもかかわらず変わらなかったことでした。あくまでも家康に味方すると約束してくれた彼らを上方に向かわせたのち、家康は一旦江戸へ戻り作戦を練ります。まずは上杉の背後にいる伊達政宗に対して、秀吉に召し上げられ上杉領となっていた旧所領49万石の自力回復を許す覚書(「100万石のお墨付き」)を与えます。北方から政宗に攻め込ませることで上杉の注意を北に向けさせ、南下(江戸攻撃)を阻もうとしたのです。さらに家康は、江戸において藷将に書状を書きまくります。その数は、160通にも及んだといいます。特に重視したのが毛利家に対する対策でした。もし万が一、毛利輝元が幼君・秀頼を擁して出陣することにでもなれば、豊臣恩顧の藷将たちも動揺し家康から離れる危険がありました。何としても、毛利一族を懐柔する必要があったのです。家康は、豊臣恩顧の七将の一人・黒田長政を使い、吉川広家(輝元の従兄弟)に裏切りを持ち掛けます。広家は、毛利家の所領安堵と引き換えに中立の立場をとることを約束しました。さらに家康は、毛利一族の一人で、小早川隆景の養子・秀秋(北政所の甥)にも目をつけ、これを調略することに成功しました。ここまでくれば勝ったも同然です。裏工作の成果に満足した家康は、慶長5年(1600)9月1日、ようやく江戸を離れ西に向かいました。この2週間後、関が原で、石田三成率いる西軍との天下分け目の戦いが始まるのです。

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 ご存じの通り、関ケ原の戦いは石田三成率いる西軍の惨敗に終わりました。再起を期して伊吹山山中に逃れた三成でしたが、東軍の田中吉政隊に発見され捕縛されました。そして、大坂・堺の市中を引き回されたのち、京都六条河原で斬首されました。享年41歳でした。三成が敗れ去った原因はどこにあったのでしょうか。前述したように、明治になって日本政府の招きで陸軍大学校に赴任したドイツ軍人・ヤコブ・メッケル少佐は、関ケ原の戦いの東西両軍布陣を見て、「これは西軍が勝ったでしょう」とつぶやいたといいます。戦いの戦術面では、三成は決して家康に負けてはいなかったのです。やはり、小早川秀秋や吉川広家など毛利一族の裏切りを見抜けなかったのが敗因だったのでしょうか。さらに言えば、豊臣恩顧の武将たちを味方にすることができず、家康側の主力部隊にしてしまったのも痛かったと思います。豊臣政権を守るための戦いなのに、最もそれに協力すべきと思われた豊臣恩顧の武将たちを敵に回してしまったのです。一体、彼らが三成を敵視し家康についたのはなぜなのでしょうか。本当に、「三成憎し」の感情だけで、豊臣家を裏切ることになってしまったのでしょうか。

 日本史学者の太田浩司(おおた ひろし)氏は、その著書『近江が生んだ知将 石田三成』(淡海文庫44)で、次のように述べています。

──この天下分け目の大合戦(関ケ原の戦い:筆者註)は、そんな「忠義」とも「友情」とも無縁な戦いであった。本質は、三成と家康の国家構想をめぐる戦いだったと結論できる。この戦いの後、三成が目指した豊臣家による先鋭な中央集権国家は生まれず、地方分権にも重きをおく温厚な中央集権国家が出来上がった。──

 つまり、三成と家康の国家構想の違いが大きな対立を呼び、やがて日本国を二分する「天下分け目の合戦」に発展してしまったということです。

 江戸期に著された多くの書物によれば、──三成は豊臣家への忠誠を誓うあまりに、家康を憎み反抗的な態度をとった。そして、自分の才知を鼻にかけ他人を見下すような傲慢(ごうまん)さがあり、多くの武将を敵に回してしまった。豊臣恩顧の七将による三成襲撃も、関ケ原の戦いでの小早川や吉川ら毛利一族の裏切りも、その人望のなさゆえの結果だ。──ということになります。しかしこれは、神にまで祀り上げられた家康公に刃向かい戦いを挑んだ三成という人物の評価を不当に貶(おとし)めるための、徳川幕府による「プロパガンダ」ではないかと思えるのです。関ケ原の戦いの対立の構図は、三成と家康の国家構想の違いにあり、この「天下分け目の戦い」は、その後の日本の進むべき道を決める分岐点となる戦いだったのではないか……そのように思えてきました。それでは、その国家構想の違いとはどのようなものだったのでしょうか。

 豊臣政権の本質は、強力な中央集権体制の構築にありました。惣無事令(そうぶじれい)により、大名同士の争いごとは「私戦」としてすべて禁じられました。これら争いごとの裁定は、関白の名のもとに中央政府が行うことにしました。そして、これに違反するものは征伐の対象となったのです。薩摩・島津氏に対する九州征伐や北条氏への小田原攻めなどは、この法令違反を根拠として行われました。一方、農村社会には喧嘩停止令を出し、百姓同士の水や土地をめぐる争いも「私戦」として禁止しました。問題の解決には、農民からの訴訟を受け付け話し合いによって解決することにしました。さらには、全国的な「太閤検地」により、正確な農業生産高を中央政府が把握できるようになりました。検地帳には耕作者の名前のみが記載され、それまで農村を支配し小作料をせしめていた小領主(いわゆる「村の侍」)の既得権益は否定されました。いわば「戦国の農地解放」が行われたのです。これらの政策により、農民は農業に専念することができるようになり、安定した収入が得られるようになりました。これら一連の政策は、豊臣政権下で石田三成ら奉行衆が中心となって進められていきました。しかし、中央政府の締め付けが厳しくなればなるほど、地方大名の不満も高まっていきます。これまで、武力を持って領土拡張に心血を注いできた武断派の戦国大名にとっては、特に受け入れがたい政策だったと思われます。全国的な検地(太閤検地)によって、自領の農業生産高が丸裸にされ、その石高に準じてさまざまな賦役が課せられることとなりました。さらには、大名間のトラブルに関して中央政府の思惑で裁定がなされることで、下手をすれば「お取り潰し」の憂き目ににあう心配もしなければならなくなりました。このような不安と不満が渦巻く状況下で、次のような甘いささやきがあったら、どうでしょうか。

「わしは秀吉とは違うよ。地方のことは地方の大名が自分らの裁量で決めていけばいいんじゃよ。わしは干渉しないから、自由にやってくれ……」

 家康が実際このような言葉を発したかどうかは分かりませんが、同様の主旨で多くの武将たちを説得していったのではないでしょうか……そう思うのは、勘繰りすぎでしょうか。官僚としての能力に長けている石田三成ら文治派(ぶんちは)の人々は、政府部内の重要な役職に就くことで自分の存在感を発揮することができます。強い政府であればあるほど、彼らにとって居心地の良い場所となるはずです。一方、軍事的能力を武器にのし上がってきた武断派(ぶだんは)の武将たちにとってみれば、中央政府の力が強まり地方大名への締め付けが強まることは、ありがたくない話です。ゆるやかな連合体で大名の自主性をある程度保証するという家康の構想は、多くの、特に武断派の武将たちに受け入れられていったのではないでしょうか。

 三成と家康の戦いは、どれだけ多くの武将をそれぞれの構想に同調させ味方に引き込むかの戦いでした。しかし、戦国の世がようやく静まったとしても、まだまだ武断派の武将の方が多かったのです。最後まで悩みに悩んだ小早川秀秋も、結局家康に同調してしまいました。三成が決起した時、いち早く軍を繰り出し大坂城に入った毛利輝元(毛利家の当主)が、その後毛利家分家の吉川広家らの説得に応じてやる気をなくしてしまった(大坂城を出ることなく、こもったままだった)のも、三成ら文治派の国家観に疑問を持ったからではないかと思えるのです。多数派工作については、家康の方が一枚も二枚も上だったということです。三成の性格からすれば、国のあり方や進むべき道を熱く説くことは得意でも、それぞれの武将の個人的な利害を考慮することまで思い至らなかったのかもしれません。結局、嫡男・秀忠の失態により徳川主力部隊が遅参するというハプニングがあったにもかかわらず、家康率いる東軍が圧倒的な勝利をおさめる結果となりました。しかし忘れてはならないのは、石田三成という男がこの国の進むべき道を真剣に考え、自らの理念を実現するために巨大な敵(家康)に立ち向かっていったという事実です。忠義の人であると同時に実行力を伴った信念の人でもあったのです。この事実は、江戸期に「徳川史観」で書かれた多くの「三成バッシング」などによって覆い隠されることがあってはならないと思います。石田三成という男は、もっともっと正当に評価されるべきではないでしょうか。



この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 桑田忠親著『石田三成』(講談社)
  • 三池純正著『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(宮帯出版社)
  • 小和田哲男『石田三成 「知の参謀」の実像』(PHP研究所)
  • 太田浩司著『近江が生んだ知将 石田三成』(淡海文庫)
  • 谷徹也著『石田三成』(戒光祥出版)
  • 童門冬二著『石田三成』(成美堂出版)
  • 火坂雅志編『実伝 石田三成』(KADOKAWA)
  • 笠井和比古著『関ケ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)
  • 白峰旬著『関ケ原合戦の真実』(宮帯出版)
  • 松本清張他『決闘 関が原』(実業之日本社)
  • 司馬遼太郎著『関ケ原』(新潮文庫)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史12(第一章)』(小学館)

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