ー甲斐健の旅日記ー

大原観音寺/石田三成と豊臣秀吉の出会いにまつわる「三献の茶」の舞台

 大原観音寺(おおはらかんのんじ)は、滋賀県米原市朝日にある天台宗のお寺です。山号は伊富貴山(いぶきやま)、本尊は十一面千手観音(じゅういちめん せんじゅかんのん)です。豊臣秀吉と石田三成の出会いにまつわる「三献の茶」の舞台としても有名です。

 観音寺の創建は、仁寿年間(851~854)にさかのぼります。伊吹山四大寺の一つとして、三修沙門(さんしゅう しゃもん)によって開かれました。その後、正元年間(1259〜1260)に伊吹山から現在の地に移ったとされます。さらに、弘和(永徳)3年(1383)には、法相宗(ほっそうしゅう)から天台宗のお寺に改められました。伊吹山から移転した当時、近江国守護・佐々木信綱の嫡男重綱が大原氏と称してこの地を治めていました。観音寺は、この大原氏から様々な寄進をうけ、大原氏の氏寺として栄えました。室町時代以降は、浅井氏や長浜城主となった羽柴秀吉の庇護を受けています。さらに、江戸時代以降も、時の領主から手厚く庇護され、現在に至っています。

 大原観音寺を有名にしたのは、何といっても、秀吉と三成の出会いの舞台となった「三献の茶」の逸話です。そのあらすじは、以下のようなものです。──石田三成は、幼くして隣村の大原観音寺に小僧として修業に出されていました。ある日、長浜城主となっていた羽柴秀吉が、タカ狩りの帰りに大原観音寺に立ち寄り、一服の茶を所望しました。とその時、一人の小姓が大きめの茶盌に七、八分目ほど入れた、ぬるめの抹茶を持ってきました。のどが渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干しました。そして、その小姓の立ち居振る舞いに興味を覚えた秀吉は、もう一杯の茶を所望しました。すると今度は、茶盌の半分に満たない量で、前よりも熱く点てられた茶を持ってきました。これを飲み干した秀吉がさらにもう一杯の茶を所望すると、その小姓は、小ぶりの茶盌にさらに熱く点てた茶を持ってきました。さすがの秀吉も、客の要望に応えて機転を利かせるこの小姓の才知に驚き、寺の住職に懇願してこの子を家来としてもらい受けたといいます。この小姓こそ石田三成(幼名・ 佐吉15歳)その人でした。この秀吉との出会いから、石田三成の出世物語が始まったのです。──

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 大原観音寺へのアクセスですが、JR北陸本線長浜駅から湖国バス近江長岡線に乗ってバス停・観音寺前で下車します。所要時間は26分です。ただし本数が少ないので、あらかじめ時刻表を確認するか、タクシーを利用する、あるいは駅前のレンタサイクルを利用する手もあります(途中登りがあるので少々きついですが)。県道沿いにあるバス停から北に5~600mほど歩いたところに、大原観音寺の入り口となる惣門(そうもん)があります。惣門のそばには、観音寺境内案内図の看板が立っています。

 惣門は、創建時期は不明とのことですが、長浜城の裏門を移築したものと伝えられます。桟瓦葺(さんがわらぶき)の重厚な門です。国の重要文化財に指定されています。惣門の前には、常夜灯として使われていた大きな石燈篭が左右に二基配置されています。これは江戸時代中期の作だそうです。

 惣門の脇を通って境内に入ると、左(西側)奥に「石田三成水汲ノ池」があります。「三献の茶」の逸話の中で、三成が秀吉に茶を献じるために使った水汲みの井戸の跡だといわれます。

 参道を奥(北)に進むと、本堂に突き当たります。現在ある建物は、正徳5年(1715)に再建されたものです。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)で、正面に一間の向拝(こうはい)が施されています(建立当初は葦葺き〈あしぶき〉だったのですが、明治元年の改修で桟瓦葺に改められたようです)。向拝の虹梁(こうりょう:虹のように弓なりに曲がった梁)や蟇股(かえるまた)などに、見事な彫刻が施されています。この本堂も、国の重要文化財です。

 本堂の右手に鐘楼(しょうろう)があります。享保10年(1725)の建立で、こちらも国の重要文化財です。また、右手奥の一段高いところに建つ入母屋造の建物は薬師堂です。こちらは天保5年(1844)の建立といわれます。

 観音寺の境内には、ほかにも、芭蕉が奥の細道の旅の途中に大垣に立ち寄って伊吹山を詠んだといわれる句碑があります。

  そのままよ 月もたのまじ 息吹やま

 また、後鳥羽上皇が大原観音寺に立ち寄られた際に休息のために腰を掛けられたという「後鳥羽上皇腰掛の石」などの見所があります。



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