ー甲斐健の旅日記ー

関ヶ原/天下分け目の戦いに集った
「兵どもの夢の跡」

 関ヶ原は、岐阜県の南西端に位置し、周囲を山に囲まれた盆地です。岐阜から米原を経由して京都に至る中山道が東西に走り、北に向かっては日本海に至る北国海道、南へは伊勢街道が分岐する交通の要衝地でもあります。この地において、日本の歴史を大きく転換させる大事件(合戦)が過去に二度も起きています。

 一度目は、672年に起きた壬申の乱(じんしんのらん)です。これは、天智天皇のあとを継いだ太子・大友皇子(弘文天皇)と天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)による権力奪取の戦いです。いったん吉野に身を引いた大海人皇子は、東国から多数の兵を集結させ、不破の地(現・関ケ原)に入りました。対する大友皇子側(近江朝廷軍)も軍を繰り出し、関ヶ原を流れる藤古川(ふじこがわ)を挟んで両軍対峙します。同年7月1日、ついに両軍は激突し、激しい戦闘となりました。結果、大海人皇子の軍が勝利し、勢いに乗った軍勢は大津京にまで攻め入りました。防戦一方となった大友皇子軍は戦意を喪失し、近江朝廷は滅亡しました。敗れた大友皇子は自決し、大海人皇子が新しい天皇(天武天皇)となったのです。都も大津から飛鳥に戻され、天皇による中央集権体制が強化されていきました。

 二度目は、慶長5年(1600)に起きた関ケ原の戦いです。通説によれば、関ケ原の戦いのあらすじは以下のようであったといわれます。

 豊臣秀吉の死後、五大老の一人・徳川家康の「専横」ぶりが目に付くようになりました。まずは、太閤様御置目(おきめ:秀吉が死の直前に定めた掟)により固く禁じられていた私婚を強引にすすめていきました。具体的には、六男忠輝と伊達政宗の娘との婚姻、養女にした松平康元の娘と福島正則の嫡子・正之との婚姻、そして姪で養女でもある小笠原秀正の娘と蜂須賀家政の嫡子・豊雄との婚姻などです。さらには、北政所を大坂城西ノ丸から追い出し(一説には北政所自ら城を出て家康に譲ったともいわれます)居座ると、あろうことか西ノ丸にも天守を造営しました。大坂城は、豊臣秀頼のいる本丸と家康のいる西ノ丸に二つの天守をいただく城となったのです。もはや「天下人」になったかのような振る舞いが目立っていました。このような状況下、再三再四の上洛要請を拒み続けていた会津藩主・上杉景勝の行状(領内の城塞の修築や新城建設、武器の調達などをすすめており、謀叛の疑いがあるとした)に激怒した家康は、上杉征伐を実行するため自ら軍を率いて会津に向けて出陣します。慶長5年(1600)5月の事でした。

 このチャンスに、石田三成が黙ってはいませんでした。家康が会津征伐のため大坂を留守にした隙に、佐和山城に蟄居(ちっきょ)していた三成が反家康の旗を掲げて立ち上がり、大坂城に入城しました。そして同年7月、増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行により「内府ちがひ(違い)の条々」という家康への弾劾状が諸大名に発せられました。まさに家康への宣戦布告です。会津に向かう途中これを伝え聞いた家康は、同月25日、上杉征伐のために家康と帯同していた豊臣恩顧の藷将を北関東の小山に集め、上杉征伐を中止して石田三成を討つべく西上すると訴え、藷将もこれに同意しました(小山評定)。藷将を上方に向かわせたのち、家康は江戸城にこもり、じっと動きませんでした。この間家康は、160通もの書状を各方面に送りつけており、味方を増やすための工作活動に専念していたのではないかと思われます。

 同年9月1日、満を持した家康は江戸城を出発して上方に向かいました。そして9月15日、運命の決戦が関ヶ原において幕を開けることになります。関ヶ原に集結した兵の数は、東軍(家康方)7万5千、西軍(三成方)7万7千と、ほぼ互角でした。しかし、家康軍の背後の南宮山に配置された毛利勢1万6千は戦況を見つめるだけで動かず、関ケ原の南西・松尾山に陣取った小早川秀秋隊1万5千は、何と味方であるはずの大谷吉継隊に襲い掛かり、西軍は大混乱の中であっけなく敗北しました。このとき、東軍・西軍どちらにつくか逡巡していた小早川秀秋に対して、家康が“松尾山に鉄砲を撃ちかけよ”と命じ、慌てた秀秋が裏切りを決断したといわれます(問鉄砲:といでっぽう)。

 関ケ原の大敗北で、三成の盟友・大谷吉継、側近の島左近は討ち死にしました。三成は再起を期すため追っ手を逃れて山中に潜んでいましたが、徳川方の田中吉政隊に見つかり捕縛されてしまいます。そして、大阪・堺市中を引き回されたのち、京都・六条河原で斬首されました。享年41歳。三成の亡骸は、京都・三玄院に葬られました。

 三成がなぜ関ヶ原で敗北してしまったのかについては、コラム『石田三成/三成が関ヶ原で負けた本当のわけとは』に詳述しています。興味のある方は、ご参照ください。今回は、主に西軍の各部将の陣跡を巡りながら、往時の戦国武将の「夢の跡」をたどっていきたいと思います。

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 関が原観光協会発行の「関ケ原合戦史跡めぐり」(マップ)に基づいて、各史跡を巡っていきます。スタートは、JR東海道本線関ケ原駅です。

*関ヶ原合戦史跡めぐりマップ(PDFファイル)

       MAP ☜クリック

松平忠吉・井伊直政陣跡

 JR関ケ原駅を出て右(西)に進み、信号のあるT字路を右(北)に曲がり、線路をまたぐ高架橋を越えると左手に松平忠吉・井伊直政陣跡があります。井伊直政は、徳川四天王の一人として家康の天下取りを支えた功臣です。関ヶ原には、同僚の本多忠勝と共に軍監として参戦していました。松平忠吉は家康の四男で直政の娘婿です。この関ヶ原が初陣でした。そのため、後見役の直政と共に行動していました。東西両軍の陣立てもすみ、まさに開戦の火ぶたが切って落とされようとしていたその時、数十騎の一団が東軍先鋒・福島正則隊の脇をすり抜けて西軍・宇喜多隊に向かって突進し発砲しました。この発砲を機に、関ケ原の戦いの幕が切って落とされたのです。この戦端を開いた一団こそ、松平忠吉・井伊直政隊でした。 抜け駆けされた福島正則は地団太を踏んで悔しがったといいます。関ヶ原の戦いののち、井伊直政は石田三成の旧領・佐和山18万石を与えられました。その後、家康の命で佐和山から彦根に移るべく彦根城の築城を手がけましたが、その完成を見ることなく、関ヶ原での戦傷がもとで亡くなりました。享年42歳でした。

東首塚

 松平忠吉・井伊直政陣跡の西隣に東首塚があります。関ケ原の戦いでは、たくさんの兵が戦死しました。戦いの翌日、勝者となった家康は、戦いに巻き込まれて破壊された神社の修復を指示するとともに、戦死した兵を弔うよう命じました。この地の領主だった竹中重門(しげかど)は、東軍・西軍の別なく野ざらしになった遺体を収容・埋葬し、東西二か所に首塚を造営しました。東首塚は、その一つです。円塚は風化のためにその原型をとどめていませんが、塚の跡には、大きなスタジイの木がそびえています。敷地内には、文化14年(1817)関ケ原宿本陣の主だった古山平四郎によって造られた首級墳碑(しゅきゅうふんひ)が建っています。この碑は、この地で一大決戦があり多くの兵が戦死したことを長く記憶にとどめておきたいという願いから建設されたといいます。敷地内にある唐門と供養堂は、名古屋市にあった山王権現社(さんのうごんげんしゃ)から昭和17年(1942)に移築されたものです。

徳川家康最後陣跡

 東首塚の唐門を出て細い道を北西に300mほど歩くと、右手に小さな公園があります。ここが徳川家康最後陣跡です。午前8時に始まった関ケ原の戦いは、一進一退の攻防が続き膠着状態になっていました。この状況に業を煮やした家康は、桃配山(ももくばりやま)から関ケ原中央部のこの地に本陣を進めてきました。笹尾山の三成本陣からは直線距離で約800mのところです。さらに家康は、逡巡している小早川秀秋の裏切りを促すため、松尾山の小早川陣に向けて鉄砲を撃つよう伝令をとばします(問鉄砲:といでっぽう)。家康の逆鱗に触れた小早川秀秋は、ようやく決意し、西軍の大谷吉継隊に向けて総攻撃を仕掛けました。小早川の裏切りにより西軍は大混乱に陥り、勝敗は決したといわれます。

 関ケ原の戦いに勝利した家康は、論功行賞のためにこの地で敵将の首実検を行いました。家康は床几(しょうぎ:携帯用簡易腰掛)に腰掛け、味方が討ち取った敵将の首を自ら確認したといいます。そのため、この地は床几場とも呼ばれます。正面の土壇や周囲の土塁は、天保12年(1841)に幕府の命でこの地の領主が築いたものです。

関ヶ原古戦場記念館

 徳川家康最後陣跡と道を挟んだ向かい側に関ヶ原古戦場記念館があります。関ケ原の戦いの発端から終結まで、および江戸時代以降この戦いがどのように語り伝えられてきたかを、様々な史料や映像などで知ることができます。1階には、床面スクリーンに映し出されるグランド・ビジョンがあり、関ケ原の戦いに至る流れをわかりやすく説明しています。体感型シアターでは、大型の楕円型スクリーンによる映像と共に風や振動を体感できる臨場感あふれる演出で、関ケ原合戦の模様を体験できます。2階には常設展示室が設けられており、関ケ原の戦い当時の武器や防具、古文書・地図などの史料が展示されています。なお、私が訪ねた時には、事前予約が必要でした(2020年11月)。

細川忠興陣跡

 徳川家康最後陣跡と古戦場記念館の間の道を道なりに300mほど進むと、左手の奥まった場所に細川忠興陣跡があります(注意深く標識を確認しながら進めば迷うことはないと思います)。細川忠興は多芸多才の文化人でした。利休七哲(りきゅう しちてつ)の一人としても知られます。忠興は豊臣恩顧の武将でしたが、加藤清正や福島正則と同様に徳川家康に与し東軍に加わりました。関が原では5千の兵を率い、笹尾山に陣取る石田三成隊と直接刃を交え、東軍勝利に貢献したと伝えられます。石田三成が反家康を旗印に決起し、家康に従って上杉討伐に向かった大名の妻子を人質に取ろうとしたとき、忠興の妻・玉(洗礼名ガラシャ:明智光秀の三女)が頑なにこれを拒否して命を絶ったという話は有名です。

関ケ原決戦地

 細川忠興陣跡から北西に15分程歩いたところに、決戦地の看板があります。交差点にある標識を注意深く見ながら進んでいきましょう。関ケ原の北西・笹尾山には石田三成、南東の南宮山には毛利秀元・吉川広家、南西の松尾山には小早川秀秋がそれぞれ着陣し、東軍を取り囲むように見下ろすその布陣は明らかに西軍有利に見えました。しかし、松尾山の小早川は、東西両軍どちらににつくかいまだ決めかねており、南宮山の毛内秀元は、家康に内通していた吉川広家に行く手を阻まれ身動きが取れない状況でした。それでも、石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長の精鋭部隊が奮戦し、一進一退の攻防を繰り広げていました。しかし、小早川の裏切りによって形勢は一気に東軍有利と傾き、西軍は総崩れとなったのです。この決戦地一帯は、最後まで奮戦した石田隊に押し寄せた東軍兵士でうめつくされたといいます。多勢に無勢。結局石田隊も退却を余儀なくされ、三成も再起を期して伊吹山中へと逃れていきました。

島左近陣跡

 決戦地から北へ150mほど行った笹尾山のふもとに、石田三成の重臣・島左近(しまさこん)の陣跡があります。豊臣秀保(ひでやす:秀吉の甥で、弟・秀長の婿養子)の死後、主を失った島左近の才知にほれこみ、石田三成は三顧の礼を尽くして家来に召し抱えようとしました。当時4万石の石高しかなかった三成は、その半分の2万石をあたえることで左近を説得したといいます。三成の家臣となった左近は終生忠節を尽くし、朝鮮出兵の折りも三成と行動を共にしました。関ヶ原では、三成が陣取る笹尾山のふもとに陣を構え、東軍の黒田長政隊・田中吉政隊と対峙しました。騎馬武者を防ぐ馬防柵と竹矢来(たけやらい:竹を縦・横に粗く組んでつくった囲い)を配した陣形は強固でした。勇猛で知られる島左近は竹矢来を背にして並み居る敵を撃破し、一時は家康本隊まで迫ったといいます。しかし、敵の銃撃が致命傷となり戦死してしまいました。享年61歳でした。異説では、傷を受けて戦場を離れた左近でしたが、京まで逃げ延びて立本寺(りゅうほんじ:京都市上京区)の僧となり天寿を全うしたと伝えられます。立本寺境内には、今も島左近(本名:清興)の墓があります。

石田三成陣跡

 島左近陣跡の左手(西側)にある長い石段を登りきると、笹尾山の石田三成陣跡にたどり着きます。陣跡には、現在見晴らし台がつくられており関ヶ原原を一望のもとに見渡すことができます。ここからだと、松尾山の小早川秀秋隊や南宮山の毛利一族の動きも見て取ることができたように思えます。三成はこの地に6,000の兵を配し、戦況を眺めながら各隊に指示を出していたのでしょう。午前8時に戦端が開かれると、東軍の黒田長政隊・細川忠興隊が笹尾山に攻撃を仕掛けてきましたが、島左近を中心にした西軍諸隊がこれらを迎え撃ち、戦局は膠着状態になっていました。西軍諸隊の多くは奮戦していましたが、薩摩の島津義弘は「専守防衛」と称して、三成の再三の説得にも応じず戦線に加わることはありませんでした。午前11時ごろ、三成は総攻撃の合図として狼煙をあげるよう命じました。しかし、島津はおろか、松尾山の小早川も南宮山の毛利も動こうとはしません。そして運命の瞬間がやってきました。家康の命で松尾山に銃撃が浴びせられると(問鉄砲)、家康の怒りに恐れをなした小早川秀秋がついに寝返りを決断しました。1万5千の小早川隊が松尾山を駆け下り、大谷吉継隊に襲い掛かったのです。と同時に、味方であるはずの脇坂・朽木・赤座・小川の諸隊も小早川隊に呼応して大谷隊に襲い掛かりました。これで西軍は総崩れとなり、最後まで踏ん張った石田隊も敗走し、三成は再起を期して伊吹山中に逃れていきました。

島津義弘陣跡

 島左近陣跡から南に7~800mほど行ったところにある神明神社の西隣に、島津義弘陣跡があります。島津義弘は、甥の豊久と共に約1,500の手勢を率いて関が原に参戦していました。当初義弘は、家康の家臣で伏見城を守っていた鳥居元忠を援護するため伏見城に入城しようとしました。しかし、義弘の真意をはかりかねた元忠は、これを拒否してしまいます。義弘は親豊臣だったはず、これは怪しい──元忠はそう考えたのかもしれません。結局義弘は、当初の意思を翻し、西軍につくことになったといいます(『島津家代々軍記』より)。しかしこれは、徳川幕府に「忖度(そんたく)」した島津家の記録なので、真偽のほどはわかりません。島津隊はこの地に布陣し(実際はここから北西250mほどの薩摩池付近だったともいわれます)、石田隊の側面の守りと北国街道(畿内から越後に通ずる街道)の抑えを担当しました。しかし義弘は、再三の三成の出撃要求にも応えず、自陣にこもり、ひたすら「専守防衛」に徹していたといいます。一進一退の攻防の中、小早川の寝返りにより西軍が劣勢を強いられると、孤立した島津隊は、家康本陣に突入して正面突破をすると見せかけたのち、急遽方向転換して撤退を試みました。これに対して、徳川方の井伊直政や松平忠吉らが追撃し、激戦となりました。このときの負傷がもとで、井伊直政も松平忠吉も関ケ原後まもなくして亡くなってしまいます。命からがら伊勢街道に抜け、かろうじて薩摩に戻ることができた薩摩の兵士はわずか60名あまりだったといいます。義弘は無事でしたが甥の豊久は討ち死にしました。この島津の退却戦は、「島津の退き口(しまずののきぐち)」と呼ばれ有名になりました。関が原ののち家康は、一旦島津征伐のため軍を九州に送りましたが、結局、義弘の行動は私的なもので当主の義久(反豊臣系で義弘とは対立していた)は関与していないということになり、島津家は本領安堵となりました。

開戦地・小西行長陣跡

 島津義弘陣跡から南に200mほどのところに、開戦地と小西行長陣跡があります。開戦地は運動公園内にあり、「関ケ原古戦場 開戦地」の石碑が建っています。慶長5年(1600)9月15日午前8時、東軍の井伊直政・松平定吉軍が先鋒の福島正則隊を出し抜いて西軍・宇喜多隊に鉄砲を撃ち放ったことをきっかけに、天下分け目の戦いは始まりました。抜け駆けされた福島正則は地団太を踏んでくやしがったといいます。実は、本当の開戦地はここから南に400mほど行った宇喜多秀家陣跡の近くだったといいます。しかし、農地整備の名目でこちらに移されたそうです。マアあまり固いことは言わずに・・・この場でしばし、歴史の決定的瞬間を思い起こして感慨に浸るのもいいかもしれません。

 開戦地の西隣に、小西行長陣跡があります。行長はキリシタン大名で、肥後国(熊本県)南半国の領主でした。同じく肥後国北半国を治めていた加藤清正とはソリが合わず、同じ豊臣恩顧の大名でありながら東軍に与していた清正に対して、行長は三成と行動を共にしていました。関ケ原の戦いが始まると、行長はここから狼煙をあげて味方に知らせたといいます。小早川の裏切りで西軍が総崩れになったのち、敗走した行長は、関ケ原の庄屋・林蔵主(りん ぞうす)に匿われていましたが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと観念し、自首して徳川方に捕縛されました。そして同年10月1日、市中引き回しの上、京都・六条河原で三成と共に斬首されました。享年43歳でした。

宇喜多秀家陣跡

 開戦地から南西に400mほど行った天満山の南に、宇喜多秀家陣跡があります。宇喜多秀家は五大老の一人で、備前岡山城主として57万4千石を領していました。関が原では石田三成と行動を共にし、西軍の副大将として参戦していました。午前8時、井伊直政・松平忠吉の遊撃隊が宇喜多隊に発砲したことにより、合戦の火ぶたが切って落とされました。宇喜多隊は西軍最大の17,000の兵を擁し、東軍先鋒の福島正則隊と激闘を繰り広げました。しかし、小早川の裏切りによって西軍の敗色が濃厚になると、秀家は激怒し、「小早川は許せぬ。秀秋と1対1で決闘し決着をつけてやる」と豪語したといいます。結局は、忠臣・明石掃部(あかしかもん)の説得に応じ戦場を離れ、伊吹山中に逃れていきました。秀家は、その後京を経て薩摩に逃れ島津家に匿われていました。しかし、徳川方の知るところとなり家康の元へ身柄が引き渡されました。慶長11年(1606年)4月、かろうじて死罪を免れた秀家は、八丈島に配流となりました。このとき秀家28歳でした。八丈島に流された秀家は浮田久福と名を改め、穏やかな余生を送り84歳で亡くなったといいます。

大谷吉継陣跡・墓

 宇喜多秀家陣跡から直線距離で西に400mほどの山中に、大谷吉継の墓があります。さらに南へ2~300mほど歩くと大谷吉継陣跡があります。大谷吉継は、当初は家康の会津征伐に参戦する予定でした。しかし、刎頚(ふんけい)の友である石田三成に説得され、反家康の旗を掲げることになります。この陣地からは、関が原を東西に走る中山道を見下ろすことができ、小早川隊が布陣した松尾山をも正面に見ることができます。吉継は、関ケ原開戦前から小早川秀秋の裏切りを警戒していました。そのため、松尾山の小早川隊を監視できるこの地を選んだのだと思われます。急斜面に陣を構え、空堀を左右に巡らせるという要害の地でした。重い病を患っていた(ライ病だといわれます)吉継は、馬にも乗れず輿に乗って部隊を鼓舞し指揮を執っていたといいますが、その奮戦ぶりは見事で、東軍の藤堂高虎や京極高知らと一進一退の攻防を繰り広げていました。しかし、裏切りを決意した小早川隊が大谷隊めがけて攻撃を仕掛け、さらには味方と思っていた脇坂・赤座・朽木・小川の諸隊も踵を返して大谷隊に攻めかかったのですからたまりません。大谷隊は壊滅状態となり、吉継はその場で自害して果てました。享年42歳(または36歳)でした。吉継の首は、側近の湯浅五郎によって関ケ原の某所に埋められ、東軍側に発見されることはなかったといいます。

 穏やかな日差しの中、関が原の史跡を巡り歩いていると、420年前にこの地で天下分け目の戦いがあったことなど、遠い昔に見た夢の中の出来事のように感じられます。それでも、この狭い盆地に両軍合わせて15万以上の武者が集い、激闘を繰り広げたことは紛れもない事実です。豊臣家あるいは徳川家のために命を惜しまず戦った者たち、これをチャンスとばかりに手柄を立てて立身出世を夢見た者たち、あるいは、主君の命に逆らえず、いやいやながらも参戦せざるを得なかった者たちもいたかもしれません。様々な人々の思いがこの地に交錯して、歴史の大転換を演出する天下分け目の戦いが繰り広げられたのです。そんな人々の「夢の跡」をしのびながら秋の関が原を散策するのも、旅の醍醐味の一つです。



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