ー甲斐健の旅日記ー

妙満寺/エキゾチックな仏舎利大塔がある寺院

 妙満寺(みょうまんじ)は、京都市左京区にある顕本法華宗(けんぽん ほっけしゅう)の総本山です。山号は妙塔山(みょうとうざん)と称します。開基は京都の豪商天王寺屋通妙、開山は日什(にちじゅう)です。

 日什上人はもともと天台宗の僧でした。名を玄妙といい、比叡山三千の学頭(一宗の学問の統率者)にまでなった人です。その玄妙が、故郷の会津で日蓮上人の教えに触れ、67歳で改宗し、名を改めて日什とし、日蓮門下に入ったといいます。そして翌年、日蓮上人の遺命である帝都弘通(ていとぐづう:京都での布教)を実現するため、都にのぼり後円融天皇に上奏しました。ここで日什は、二位僧都の位と「洛中弘法(ぐほう)の綸旨(りんじ)」を受け、康応元年(1389)に、六条坊門室町(現在の下京区烏丸五条あたり)に一寺を建立し、根本道場としました。これが妙満寺の始まりです。

 日什上人は、広くかつ深く学問を修めた人でしたが、一巻の書物も残していません。。これは「その書物のために仏の教えを誤解されてはならない」と配慮したためで、釈迦仏より日蓮聖人に受け継がれた正しい教えを、自分の意見をはさまず素直に受けとめるように戒めたといいます。これを「経巻相承・直受法水(きょうがんそうじょう・じきじゅほっすい)」といい、妙満寺の宗是となっています。

 妙満治はその後、応永2年(1395)の火災により伽藍(がらん)を焼失し、綾小路東洞院(現京都市下京区)に移転、再建されました。さらに、応仁元年(1467)の応仁の乱による焼失後は、四条堀川(現京都市下京区)に移転します。そして最も大きな災難が、天正5年(1536)に起きました。比叡山の僧兵約15万が、近江の大名六角定頼の援軍約3万と共に洛中に乱入し、京都の法華宗21の本山を焼き討ちしたのです(天文法華の乱)。これを迎え討つ法華宗側は、2~3万の勢力だったといいます。下京一帯は悉く焼失し、上京も三分の一が焼け、法華宗21本山はすべて焼失し、法華宗側の死者は1万とも3,4千ともいわれました。女性や子供にも数百の犠牲が出たといいます。この兵火による被害は応仁の乱をはるかに上回り、天明の大火に匹敵するといわれます。この戦が起こった原因は、法華宗が京の商工業者たちの信仰を集めたこと、つまり「われわれの縄張りを乗っ取られた」と比叡山側が危機感を感じたことによるといいます。いずれにしても、妙満寺もこの乱によって全焼し、一時は泉州堺に逃れていきました。その後、天文11年(1583)に一旦元の地に戻ったのですが、同年豊臣秀吉の命令で寺町二条に移され、その後400年にわたり「寺町二条の妙満寺」として存続してきました。

 近代になって都市化が進み、寺町界隈も騒がしくなったため、昭和43年に現在の岩倉の地に移築して今日に至っています。

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 妙満寺へは、出町柳駅から叡山電鉄鞍馬線に乗り、「木野」駅で降り、南側の広い道路を東に進みすぐのT字路を右(南)に曲がります。このバス道路を300mほど歩くと、右手に妙満寺の山門に至る細い道があります。あるいは、京都駅から京都バス45系統に乗って、「幡枝」で降り、バス道路を300mほど北に歩くと、左手に妙満寺の山門に至る細い道があります

 妙満寺の山門の周りには、様々な季節の花が咲きほころびます。毎年5月初旬~中旬にはつつじ園のつつじが、5月中旬以降はカキツバタやスイレンが、そして7月~8月には蓮の花が咲き、参拝者を迎えてくれます。山門をくぐると、思った以上に広い境内に出ました。右手にある水屋(参詣人が口をすすぎ手を洗い清める所)の奥には、カエデやツツジが植えられています。また大書院を中心とした一角には妙満寺桜園があり、毎年4月初旬~中旬頃には満開となった枝垂れ桜が、訪れる人々を楽しませてくれるそうです。さらにこの期間中は夜間ライトアップも行われます。山門を入って左側には、鐘楼があります。

 山門をくぐって正面に見えるのが、本堂です。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。堂内には、本尊の釈迦如来、多宝如来の二仏が安置されています。本堂に向かって左に建つのが仏舎利大塔です。昭和48年に檀信徒の寄進により、インドのブッダガヤ大塔を模して建立されました。ブッダガヤ大塔は、釈迦が悟りをひらいた地に建つ高さ52mの大塔(ユネスコ文化遺産)で、その原型は紀元前3世紀のアショカ王によって建てられたとされます。この塔の最上階には、仏舎利が納められています。一階には、釈迦牟尼仏座像が安置されています。またこの塔は、全国檀信徒の納骨堂となっていて、豊田佐吉(トヨタグループの創始者)及び豊田家の人々の遺骨も安置されているそうです。建立33周年の平成18年から3年かけて、檀信徒らの寄進により、外壁にお釈迦様の仏像486体が奉安されています。

 本堂に向かって右手前にある寺務所入口から建物の中に入ることが出来ます。本坊の東にある枯山水の庭園は、俳諧の祖といわれる松永貞徳(1571~1653年)が造営したといわれます。妙満寺が寺町二条にあった時、子院成就院にあった庭を、妙満寺移築時に一緒に移し復原したものといわれています。 比叡山を借景にした冠雪の眺望が特に美しく、「雪の庭」と呼ばれています。洛中「雪月花」三名園の一つとされます。他は、清水寺成就院の「月の庭」、北野成就院の「花の庭」(現存せず)で、いずれも松永貞徳の造営といわれます。貞徳は寛永6年(1629)11月25日、妙満寺を会場に正式俳諧興行として「雪の会」を催しました。これにより俳諧は、それまでの連歌から独立した文芸として認められるところとなり、後に松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立し今日に至っているといいます。それゆえ、妙満寺は俳諧(俳句)の発祥の地といわれます。 現在も句会が催され、春の「花の会」、秋の「月の会」、冬の「雪の会」が行われています。

 本坊の奥に展示室があります。ここには、「安珍清姫」の道成寺(どうじょうじ)の鐘が収蔵されています。この鐘の由来は次のようなものです。

 醍醐天皇の時代、延長6年(928)、奥州白河の安珍という修行僧が熊野に参詣する途中、紀州の庄司清次の館に泊まりました。するとその家の娘の清姫が安珍を見そめて言い寄りました。安珍は、参詣の帰りに必ず立ち寄ると約束しました。しかしその約束を破って、帰途についてしまいます。怒った清姫は、安珍の後を追いかけ、日高川にかかると蛇身となります。そして道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。蛇身となった清姫は鐘に巻き付いて火を吐き、安珍を焼き殺した後日高川に身を投じてしまいました。

 この400年後の正平14年(1359)3月、道成寺に二つ目の鐘が完成した祝儀の席で、一人の白拍子が現れ、舞いながら鐘に近づいていきました。するとその白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引き摺り下ろすとその中に身を隠してしまいました。「清姫の怨念」と思った僧たちが、一心にお祈りをして鐘は元に戻ったのですが、その怨念の為か音が悪くなり、また近隣に悪病災厄が立て続けに起こったため、山林に捨てられたということです。この話が脚色され、長唄、舞踊、能楽(「娘道成寺」)になりました。

 この話はまだ続きます。それから200年余り過ぎたころ、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州征伐(根来攻め)の時の話です。秀吉の家来仙石権兵衛は、この鐘を拾って陣鐘(合戦の時の合図の鐘)として使い、そのまま京に持ち帰りました。そしてその鐘は、時の妙満寺住持であった日殷大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったといいます。この鐘が、現在展示室にあるものだそうです。その由緒から「娘道成寺」を演じる芸能関係者が妙満寺に参詣して舞台の無事を祈ったといいます。かつては、市川雷蔵、若尾文子などが訪れ、現在も芸道成就を願う多くのの芸能関係者がお参りに訪れるそうです。

 インドのブッダガヤ大塔を模した仏舎利大塔は、日本では珍しい形をした塔です。エキゾチックな感じにさせてくれる建物です。また季節の花々や紅葉が人々の目を楽しませ、冬は、雪が降れば比叡山を借景とした「雪の庭」の美しさが映え、一年中見どころの多い寺院だと思います。



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