ー甲斐健の旅日記ー

南禅寺/京都五山の上という破格の評価を受けた寺院

 南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区にある、臨済宗南禅寺派の大本山です。正式の寺号は、太平興国南禅禅寺(たいへいこうこく なんぜんぜんじ)といい、山号は瑞龍山(ずいりゅうさん)です。日本最初の勅願禅寺(ちょくがんぜんじ)であり、室町三代将軍足利義満によって、京都五山の上(別格)に列せられています。開基は亀山法皇、開山は無関普門(むかんふもん)です。

 正元元年(1260)亀山天皇は皇位(第90代天皇)につきましたが、当時は東アジア情勢が緊迫しており、上皇時代には、二度にわたる蒙古襲来を経験しました。その国難が去った正応2年(1289)、上皇は自ら営んでいた離宮の禅林寺殿で出家します。ところがこの離宮で不可解な事件が起きました。かつてこの地に住んでいた者の死霊が出没するというのです。様々な祈祷を行いましたが効き目がありません。ここで、東福寺三世だった無関普門が弟子と共に離宮に留まり、坐禅、掃除、勤行(ごんぎょう)の生活を送ったところ、死霊は退散してしまったといいます。このことがあって、亀山法皇は無関普門に深く帰依(きえ)し、離宮を禅寺にしようと思い立ちました(正応4年:1291年)。これが南禅寺の始まりです。伽藍(がらん)の建設は、第二世の規庵祖圓(きあんそえん)禅師に委ねられ、15年の歳月をかけ、七堂伽藍が完成したといいます。その後南禅寺は、足利義満によって京都五山の上におかれ、隆盛をきわめました。

 しかし、応仁の乱(応仁元年:1467年)の戦火に巻き込まれ、伽藍を悉く焼失してからは、なかなか復興を果たせないでいました。これを救ったのが、徳川家康の側近として政治的手腕をふるっていた金地院崇伝(こんちいん すうでん)でした。慶長10年(1695)に崇伝が南禅寺に入寺すると、復興事業がすすみ、伽藍も整えられていったといいます。現在見る建物は、この時以降の再建によるものです。

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 南禅寺へは、地下鉄東西線蹴上(けあげ)駅から行くのが近道です。地上に出て三条通りを少し北に歩くと、右手にインクラインの下を通るレンガ造りのトンネルがあります。インクラインとは、標高差の大きい二つの水路の間の輸送路をつなぐため、レールを敷いてワイヤロープで船などを載せた台車を昇降させるラインです。琵琶湖から京都市伏見までつなぐ琵琶湖疏水(びわこそすい)の途中にあります。また、このトンネルは、レンガを横積みではなく、ねじったような形で積むことによって強度を増しているそうで、通称「ねじりまんぽ」と呼ばれています。この赤いレンガのトンネルをくぐって、金地院(こんちいん)などの塔頭(たっちゅう)のある参道を300mほど歩くと、南禅寺中門に出ます。ここから、中門のすぐわきにある勅使門(ちょくしもん)三門法堂(はっとう)方丈‘ほうじょう)が西から東に直線状に並ぶ境内に入ります。

 勅使門は、もともとは天皇やその勅使の来山の時のみ開かれる門でした。寛永18年(1641)に、御所にあった「日の御門」(建立は慶長年間:1596~1615年)を移築したものとされます。切妻造(きりつまづくり)檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門です。隣の中門は、慶長6年(1601)に、伏見城松井邸の門を移築したもので、当初は勅使門として使われていました。「日の御門」の拝領に伴い現地に移築され、幕末までは脇門と呼ばれていたそうです。

 勅使門の東、石段の上に堂々とそびえたつのが三門です。現在の建物は、寛永5年(1628)、徳川幕府の重臣藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したといわれます。五間三戸の二重門で、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)ぼ建物です。高さは約22mあります。両側にある山廊は、一重切妻造、本瓦葺で、ここから三門の二階の回廊に上ることが出来ます。歌舞伎「楼門五三桐(さんもん ごさんのきり)」で、南禅寺の三門の屋上に登った石川五右衛門が、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」という名セリフを吐いたのはあまりにも有名です。実際五右衛門が亡くなったのは、文禄3年(1594)で、南禅寺の三門は文安4年(1448)の火災で焼失した後、五右衛門が死んだ後の寛永5年(1628)に再建された訳ですから、この歌舞伎の中の話は全くの作り話ということになるのですが。とにもかくにも、山廊から骨太な木組みの少し急な階段を登り、板敷きの回廊に立ってみました。やっぱり絶景です。私が訪ねたのは紅葉の時期でしたが、特に天授庵(てんじゅあん:南禅寺の塔頭)周辺の紅葉はまるで超特大キャンバスに描かれた絵画のようです。また、遠く東山の風景や鴨川を望む景色も素晴らしいものでした。なお、楼上内陣には本尊の宝冠釈迦如来座像、脇侍として月蓋長者(がっかい ちょうじゃ)善財童士(ぜんざいどうじ)、その左右に十六羅僕像(らかんぞう)が安置されています。また、金地院崇伝、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。  

 三門の東に法堂があります。法式行事や公式の法要が行われるところで、仏殿も兼ねているようです。文明11年(1479)に再建され、その後豊臣秀頼の寄進により改築された建物は、明治26年の火災により焼失してしまいました。現在の建物は、明治42年に再建されたものです。一重入母屋造、本瓦葺で裳階(もこし)が施されています。内部には、南禅寺の本尊である釈迦如来三尊像(脇侍として文殊菩薩普賢菩薩)が安置されています。また天井には、仏法を守り、水を司る神とされる、今尾景年(いまおけいねん)画伯の蟠龍図(ばんりゅうず)が描かれています。

 法堂の東にある方丈は、隣の庫裏(くり)から中に入れます。方丈は、大方丈と小方丈とに分かれています。大方丈は、慶長16年(1611)に、内裏(だいり)の清涼殿(せいりょうでん)または女院御所の対面御殿を移築したものとされ、一重、入母屋造、杮葺き(こけらぶき)の建物です。小方丈は、大方丈に接続する形で、寛永年間(1624~1644年)に、伏見城の一部を移築したものといわれます。切妻造、杮葺きの建物です。方丈内部では、狩野派の絵師たちが描いた数多くの障壁画(一部復元画像)を見ることが出来ます。また、方丈の周りにはいくつかの庭園があります。

 大方丈南にある方丈庭園は、小堀遠州作庭といわれる枯山水式庭園です。薄青色の築地塀で囲んで細長い空間をつくり、築地塀に沿って石組みが配置されています。方丈から見て左奥に大きな石が配置されますが、それらを立てずに横に寝かしてある点が、仏教的世界観から逸脱している点で珍しいのだそうです。通常、大きな石を立てて配置し、須弥山(しゅみせん:世界の中心にあり、帝釈天四天王が住む山)や蓬莱山(ほうらいさん:仙人が住むという山)をイメージするのが仏教的なのだそうです。またこの庭は、俗に「虎の児渡し」とも呼ばれています。母虎が、一匹の豹(ひょう)と二匹の子虎を、豹が子虎を食べないように川を渡すという故事にちなんだ呼び名だそうです。

 小方丈の西にある庭園は、「如心庭」と呼ばれます。元管長の柴山全慶が昭和41年に作庭したものです。「心を表現せよ」という指導のもと、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭です。解脱(げだつ)した心を表現しているそうです。これに対して、小方丈の北にある六道庭は、六道輪廻(りんね)の戒めの庭です。六道輪廻とは、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観のことです。杉苔の中に配された石は、煩悩に迷い輪廻をさまよい続ける人々のはかなさを表現しているということだそうです。

 方丈を出て北側に、唐破風(からはふ)の大玄関があります。この大玄関は、特別な行事のときにのみ使用されるそうで、普段は閉ざされています。

 法堂の南側に、インクラインを通す石橋があります。大寺院と、明治時代の文明の象徴であったインクラインとは、なかなか結び付きにくいのですが、以外にもあまり違和感を感じないのは私だけでしょうか。南禅寺境内の風景に見事に溶け込んでいる感があります。

 南禅寺は大寺院でありますが、むしろ観光寺院という色合いが濃いと感じました。来て楽しい、見て楽しいお寺です。境内の紅葉も見事で、特に亀山法皇の離宮の遺跡で、南禅寺発祥の地ともいわれる南禅院(南禅寺の別院)の紅葉は鮮やかで感動的でした。



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