ー甲斐健の旅日記ー

仁和寺/門跡寺院として最高位の寺格を持ち続けた寺院

 仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室(みむろ)にある真言宗御室派の総本山です。山号は大内山で開基は宇多天皇です。代々、皇室や貴族が住職を務める門跡(もんぜき)寺院として最高位にあったといわれます。

 仁和寺は、仁和2年(886)光孝天皇が「西山御願寺(にしやまごがんじ)」という一寺の建立を発願したことに始まります。翌年光孝天皇は亡くなりましたが、次に即位した宇多天皇がその遺志を受け継ぎ、仁和4年(888)に完成させ、寺号を元号から取って仁和寺としました。宇多天皇は、藤原氏の権力を抑え込み、菅原道真を重用して、寛平の治(かんぴょうのち)といわれる天皇による親政を行った帝です。この親政は、続く醍醐・村上天皇の時代まで続いたといわれます。

 さて、その宇多天皇ですが、息子の醍醐天皇に譲位して昌泰2年(899)に仁和寺で出家し、仁和寺第一世となりました。延喜4年(904)には、宇多法皇が法務を行う僧坊が設けられ、それが御室と呼ばれるようになりました。これが現在の地名の由来です。仁和寺は、その後も次々と皇族が入寺して住職を務め、門跡寺院として最高位を占めるようになりました。

 しかし、応仁の乱の戦火に見舞われ伽藍(がらん)の殆どを焼失してしまいます。その後一時衰退していましたが、寛永11年(1635)に第21世覚深法親王(かくしん ほっしんのう)が上洛していた徳川家光に仁和寺再興を申し入れ承諾されたことにより、再興事業が始まります。家光は、このために21万両を寄進したといわれます。また御所からも、紫宸殿(ししんでん)清涼殿(せいりょうでん)などの建物が下賜(かし)され、正保3年(1646)には伽藍が再建され、創建時の姿に戻ったといいます。現在見る姿は、その時の再建時の姿ですが、御殿だけは明治になって火災にあい、その後再建されました。

このページの先頭に戻ります

 仁和寺へは、京都駅から市バス26系統に乗っていきました。御室仁和寺で降りると、道路沿いにそびえたつ二王門が目に飛び込んできます。二王門は江戸初期に徳川家光の寄進により再建されたもので、二重、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)五間三戸の門です。左右に金剛力士像を安置しています。

 二王門をくぐると、広々とした参道が現れ、正面に見える朱塗りの中門が遠くに感じられます。中門は、金堂(こんどう)、五重塔、御影堂(みえいどう)などのある伽藍中心部に至る門です。江戸初期の建立で、切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺、三間一戸の八脚門です。

 中門をくぐると、左手(西側)に「御室桜」と呼ばれる遅咲きの桜の園があります。御室桜は、背の低い木で、市中の桜が散り始めたころに咲き始めます。江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれていたようで、数多くの和歌にも詠われています(与謝蕪村他)。御室桜の園の北には観音堂があるのですが、半解体工事中でした(2013年11月現在)。平成30年3月完成予定だそうです。ちなみに、観音堂は江戸初期の建造物で、入母屋造、本瓦葺の建物で前後に向拝(こうはい)が付いています。内部には、本尊の千手観音菩薩と、脇侍として不動明王降三世明王(ごうざんぜ みょうおう)が安置されているそうです。  

 視線を転じて右手(東側)には、五重塔がそびえたっています。寛永21年(1644)の建立とされます。高さ36mで、各層の屋根の大きさがほとんど同じという特徴があります。初層西側には、大日如来を示す梵字の額が飾られています。内部には、大日如来はじめ五智如来(ごちにょらい)が安置されているそうです。

 中門からまっすぐ歩いていくと、正面に金堂(こんどう)が見えます。寛永年間(1624~43)に、内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)を移築したものとされます。もともとは慶長18年(1613)に建立されたものといわれます。現存する紫宸殿としては最古のものだそうです。単層入母屋造、本瓦葺の建物です。内裏にあった時は檜皮葺(ひわだぶき)であったものを、仏堂用途のために改造したそうです。しかし、向拝や高欄が配されているところは、御殿の雰囲気を残しています。内部には、仁和寺の本尊である阿弥陀如来三尊像が安置されています。また、四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれているそうです。金堂内部は通常非公開です(春と秋に特別公開があります)。

 金堂の西には、鐘楼(しょうろう)、御影堂(みえいどう)があります。鐘楼は、江戸初期の建立とされ、二層、入母屋造、本瓦葺の建物です。上層部は朱塗りで高欄が周囲に配されています。下層は袴腰式(はかまごししき)といって、袴のような板張りの覆いが特徴です。御影堂は、やはり江戸初期に、内裏の清涼殿(せいりょうでん)の一部を下賜(かし)され再建されたものです。宝形造(ほうぎょうづくり)、檜皮葺の建物で、弘法大師像、宇多法皇像などを祀っています。現在御影堂も屋根ふき替え修理中で平成30年3月完成の予定だそうです。

 金堂の東に位置するのが経蔵(きょうぞう)です。江戸初期の建立といわれ、宝形造、本瓦葺の建物です。板唐戸(いたからど)と青色の花頭窓(かとうまど)が禅宗様式を表しています。内部には、天海版の一切経(いっさいきょう)を納めた八角輪蔵(りんぞう)が設けられています。

 二王門を入ってすぐ左手に、白書院、黒書院、宸殿などの御殿がある区域があります。これらの建物は、明治20年の火災で焼失し、その後再建されたものです。

 御殿の大玄関を入るとまず白書院があります。明治20年の火災の後、仮宸殿(しんでん)として建てられましたが、その後宸殿が建てられ、白書院と呼ばれるようになりました。昭和12年に福永晴帆(せいはん)によって描かれた松の襖絵があります。

 白書院の北に宸殿(しんでん)があります。現在の建物は、大正3年に再建されたものです。単層、入母屋造、檜皮葺の建物です。宸殿は、儀式や式典などに使用され、御殿の中心となる建物です。南側には、白砂に松や杉を配した南庭があります。庭越しに勅使門(ちょくしもん)や二王門を見ることが出来ます。また、邸内には内裏の紫宸殿と同様に、東側に左近の桜、西側に右近の橘が植えられています。また、宸殿の北側には南庭とは対照的な池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園(北庭)があります。元禄3年(1690)作庭され、その後整備され現在に至っているといわれます。築山には、第117代光格天皇が好んで使われたという茶室、飛濤亭(ひとうてい)の入母屋造、茅葺(かやぶき)の屋根が望め、またその奥には五重塔が望めます。

 宸殿の西に位置する黒書院は、明治42年花園の地の旧安井門跡(蓮華光院)の寝殿を移築改造したものとされます。室内の襖絵は、昭和12年に堂本印象(いんしょう)氏が描いたものです。

 黒書院の北にある霊明殿は御殿唯一の仏堂で、本尊の薬師如来座像が安置されています。明治44年に建立されました。薬師如来坐像は、全高10.7cmの像で、平安時代後期の円勢(えんせい)、長円(ちょうえん)の作といわれます。また、仁和寺歴代の門跡の位牌を祀っています。

 霊宝館は、中門手前東側にあります。毎年、春と秋に名宝展が開催され、多くのお宝を拝観することが出来ます。本尊の阿弥陀三尊像(創建当時)や聖徳太子座像(鎌倉期)、国宝の薬師如来坐像や吉祥天立像(ともに平安期)、文殊菩薩坐像(鎌倉期)などが拝観できます。そのほかにも、高倉天皇宸翰消息(しんかんしょうそく:自筆の書状)や後嵯峨天皇御宸翰消息、および弘法大師空海が、唐で書写したという、「三十帖冊子」という経典類などを見ることが出来ます。絵画では、宋画の名品といわれる「孔雀明王像」(二つの鬼の顔、六つの臂を持つという明王)や精細描写の「聖徳太子像」などを見ることが出来ました。

 ゆったりとした空間の中に、格式の高い建物が立ち並ぶ仁和寺を歩いてみると、まさに最高位の門跡寺院であったということを、強く実感させられました。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります


追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image