ー甲斐健の旅日記ー

二尊院/釈迦如来と阿弥陀如来のニ尊を本尊とする寺院

 二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院です。山号は小倉山と称します。正式名称は「小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)といいます。

 承和年間(834~48)に、嵯峨天皇の勅願により慈覚大師円仁(第3代天台座主)が開創したニ尊教院華台寺が始まりとされます。その後一時期荒廃していましたが、鎌倉時代初期に、法然が九条兼実(関白・太政大臣)の援助を得て中興したとされます。さらに、法然の高弟である湛空(たんくう)が尽力して諸堂が整えられていきました。二尊院の名は、人間が生まれて人生に旅立つ時に現れる「発遣(はっけん)の釈迦如来」と、寿命がつきるときに極楽浄土より迎えにくるという「来迎の弥陀如来(阿弥陀如来)」の二尊像を本尊とするところに由来するといわれます。この思想は、中国唐代の善導大師(ぜんどうだいし)が広めたもので、やがて日本に伝わり、法然上人が受け継いだといわれます。

 二尊院は鎌倉時代(天台宗の僧叡空の時代)、後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇、伏見天皇の帰依(きえ)を受けて隆盛を極めたといいます。そして、天台、真言、律、浄土宗の四宗兼学の寺院となりました。南北朝時代(1333~92年)の焼失は、室町第6代将軍足利義教によって再興されましたが、応仁の乱(1467年)では、伽藍(がらん)は悉く焼き尽くされました。その後永正18年(1521)に、本堂と唐門が三条西実隆父子によって再建され復興しました。明治維新以降は、天台宗山門派(延暦寺)に属しています。

 二尊院境内の西には小倉山がそびえています。そして、鎌倉時代初期の歌人藤原定家が『小倉百人一首』を撰じた「時雨亭」が、この小倉山の山腹にあったとされ、現在、二尊院の境内南西の高台に「時雨亭跡」が残されています(この定家の時雨亭山荘は、近くにある厭離庵または常寂光寺にあったともいわれています)。

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 二尊院へは、京都駅からですと市バス28系統に乗り「嵯峨小学校前」で降ります。バス停のある交差点を北(釈迦堂方向)に進み、最初のT字路を左に曲がり、つきあたりのT字路を右に曲がると、左手に二尊院の総門が見えます。

 総門は、室町末期に建立された薬医門を、慶長18年(1613)に京都の豪商角倉了以(すみのくら りょうい)が伏見城から移築したものとされます。本瓦葺(ほんがわらぶき)の四脚門です。この門をくぐると、まず平坦な参道が続き、やがてゆるやかな坂道になります。ここは「紅葉の馬場」と呼ばれ、道の両脇の楓の枝が低く垂れて、紅葉の時期には絶好の撮影スポットとなります。この「紅葉の馬場」を登りきると、築地塀につきあたり、左手に進むと黒門、勅使門(唐門)そして本堂があります。

 勅使門(唐門)は、永正18年(1521)に、三条西実隆により再建されましたが、現在の門は、さらに昭和63年に再建されたものです。本堂は、永正18年(1521)に、三条西実隆により再建されたままの姿を現在に残しています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)を模した建物で、内陣も内裏のお内仏(おないぶつ:仏壇)と同じように造られているとのことです。本尊である二尊像を安置しています。また外陣は「うぐいす張り」となっています。本堂前庭は龍神遊行の庭と呼ばれます。当寺の和尚の説法により竜女が昇天したということからこの名がつけられたといいます。円形の低い垣(蛇腹を表しているという)の中に、白砂、苔、植栽が配されています。

 本堂の北隣りに弁財天堂があります。かつて境内の東にあった池に住みついていた鬼女の魂を鎮めるためにこれを祀っているといいます。その北には、慶長年間(1596~1615年)に建立された鐘楼があります。慶長9年(1504)に鋳造された梵鐘がかけられていましたが、平成4年に再鋳造され、「しあわせの鐘」と名付けられました。世界平和を祈願して一般参拝客が自由に撞けるようになっています。弁財天堂と鐘楼の間の長い石段を登っていくと、二尊院中興の祖の一人といわれる湛空上人を祀る湛空上人廟があります。ここには、湛空の師である法然上人の遺骨も分骨されて納められているといわれます。その廟からさらに南へすすむと、藤原定家が『小倉百人一首』をここで撰定したとされる「時雨亭跡」があります。藤原定家は、藤原北家御子左流(みこひだりりゅう)で歌人藤原俊成の次男として生まれました。冠位は正二位権中納言で、京極中納言と呼ばれました。承久の乱(1215年)の際に後鳥羽上皇によって幽閉された時、事前に乱の情報を幕府に密告して幕府の勝利に貢献し、その後太政大臣にまで上りつめた西園寺公経(きんつね)は、定家の義弟にあたります。平安末期から鎌倉初期にかけて、御子左家の歌道における支配的地位を確立し、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』(勅撰集)の編集に携わりました。また、鎌倉御家人でもあり歌人でもあった宇都宮頼綱に依頼されて撰定したのが『小倉百人一首』でした。この「時雨亭跡」のある高台からは、京都嵯峨野の街並みが一望できます。

 二尊院は公家との関係が深く、藤原五摂家の二条家、鷹司家、清華家(せいがけ:太政大臣になれる家格)の三条家、香道(こうどう:香木の香りを鑑賞する芸道)を創始した三条西家などの菩提寺となっています。境内西の小倉山山麓に広がる墓地は、10,000平方メートルほどの広さです。著名人としては、京都の豪商角倉了以や儒学者の伊東仁斎、日本画家の富田渓仙の墓があります。比較的新しい人では俳優の坂東妻三郎の墓もあります。また、境内北西の奥には、土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を安置する三帝陵があります。

 二尊院は、大変格式の高い寺院であることを理解しました。広大な墓地の中を歩いていると、あちこちで「やんごとなき」君の墓を目にすることが出来ます。自分自身が、平安か鎌倉の時代にタイムスリップしたかのような錯覚さえ覚えたほどです。歴史を感じさせてくれる、二尊院の境内でした。



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