ー甲斐健の旅日記ー

阿弥陀寺/織田信長・信忠父子の「遺骨」が眠る寺

 ここで紹介する阿弥陀寺(あみだじ)は、京都市上京区寺町通にある浄土宗の寺院です。山号は、「蓮台山(れんだいさん)」と称します。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)です。阿弥陀寺は、天文24年(1555)、清玉上人が近江国坂本(現・滋賀県大津市)に創建したのが始まりとされます。その後、戦国武将の織田信長が清玉上人に帰依(きえ)するようになり、信長入洛後に、京都市上京区大宮町に移転しました。

寺伝によれば、天正10年(1582)、明智光秀が謀反を起こし信長が宿所としていた本能寺に攻め入ったと聞いた清玉上人は、僧徒20人余りを引き連れて本能寺に駆け付けたといいます。表門は明智軍が厳重に固めていたため、裏の生垣の間から寺内に侵入しましたが、時すでに遅く信長は自刃して果てていました。やむなく上人らは、本能寺を包む紅蓮の炎で信長を火葬にし、その遺骨を阿弥陀寺に持ち帰ったということです。本能寺境内では、明智勢13,000名余りが信長の遺骸を血眼になって探していたといいますから、清玉上人らが明智勢に悟られずに信長の遺骨を持ち出すことができたかどうか、真偽のほどは定かではありませんが、阿弥陀寺の寺伝(『信長公阿弥陀寺由緒之記録』)には、そう記述されています。また、上人らは、二条御所で自刃した信忠(信長の嫡男)の遺骨も阿弥陀寺に持ち帰り、墓を建てて供養したといいます。さらに、本能寺の変により討ち死にした多くの者たちも、阿弥陀寺に葬って供養しました。その中には、信長を守るために憤死した、森蘭丸(乱丸)・坊丸・力丸兄弟も含まれていました。

 以上の話には、後日談があります。信長亡き後、その後継を狙っていた羽柴秀吉は、阿弥陀寺に信長・信忠父子の遺骨が眠っているという話を聞きつけました。信長の一周忌を自分が取り仕切ることにより、後継者争いで優位にたとうともくろんだ秀吉は、清玉上人に圧力をかけて、遺骨を引き渡すように要請しました。しかし、主家である織田家をないがしろにして、信長の後継の地位を固めようとしていた秀吉に対して、清玉上人は「人の道にあらず」と反発し、この申し出を拒絶しました。結局秀吉は、大徳寺で行った信長の追善供養では信長公の木像を造って棺に納めることにしたのです。しかし、このことで阿弥陀寺は秀吉に睨まれる羽目になりました。天正15年(1587)、天下人になった豊臣秀吉の命により、阿弥陀寺は寺領の大半を没収され(もとは寺領が900平米で塔頭が13もあった)、都市計画の名目で寺町の現在地に強制的に移転させられ、現在に至っています。

 阿弥陀寺では、信長の命日である6月2日には、「信長忌」として追善供養が行われています(毎年)。この日には堂内も公開され、織田信長・信忠公木像や信長公のご位牌、森蘭丸・坊丸の位牌などが拝観できるそうです。

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 阿弥陀寺へは、京都駅からですと京都市バスに乗って(4、17,205系統など)河原町今出川で下車するのが近いです。河原町今出川交差点の1ブロック西の十字路(出町郵便局や京都書店のある交差点)を北へ進み、8分ほど歩くと右手にあります。

 山門をくぐって境内に入ると、正面に本堂が見えます。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。堂内には、本尊の阿弥陀如来像のほかに、織田信長・信忠父子の木像が安置されていますが、通常は非公開です。前述したように、毎年6月2日の「信長忌」に一般公開されます。

 本堂奥の墓所には、信長・信忠父子及び本能寺の変で討死した人々の墓所があります。またそのわきには、信長の小姓として本能寺の変で討ち死にした、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓石があります。さらに、墓所の奥には、阿弥陀寺開山の清玉上人の墓石があります。



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