ー甲斐健の旅日記ー

織田信長が比叡山を焼き討ちした本当のわけとは?

 戦国時代、抜群の先見性と決断力をもって天下統一に邁進し、あと一歩のところで、謀反のために悲願達成を逃した織田信長は、現在でも人気度No.1の戦国武将だといわれます。しかし、信長が行ったとされる数々の「残虐行為」のゆえに、どうしても好きになれないという意見も少なからずあることは事実です。その「残虐行為」の中でもっとも有名なのは、元亀二年(1571)の比叡山焼き討ちでしょう。その時、浅井長政軍や伊勢長島一向一揆と対峙していた信長軍は、急きょ向きを変え、比叡山に向けて進撃しました。そして根本中堂(こんぽんちゅうどう:延暦寺の総本堂)をはじめ、山上にあった堂塔を一宇(いちう)も残さず焼き払いました。山内にいた僧侶ら3~4000名を殺戮したといいます。比叡山延暦寺は、延暦7年(788)に伝教大師最澄が大乗仏教を広めるために創建した寺院で、多くの名僧を輩出し、日本仏教の主要な宗派を開いた法然、栄西、道元、親鸞、日蓮らが若き日に修行をした聖地でもあります。その地を焼き討ちし、しかも「無抵抗」な僧侶たちを惨殺するなどとんでもない・・・ということになるわけです。これ以外にも、伊勢長嶋の一向一揆に対して、投降してきた信者二万人を柵で囲んだ城に閉じ込め焼き殺した話など、信長の「残虐性」を語る話は枚挙にいとまがありません。それでは、信長は残虐行為を好む単なる殺人鬼だったのでしょうか。それとも、信長の「残虐行為」にはしかるべき理由があり、天下統一の目標を実現するためには、避けられない行為だったというのでしょうか。当時の時代背景も勘案しながら、考えてみたいと思います。まずは、当時の寺社勢力がどういう性格の組織だったのか見ていきましょう。

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 守護大名が群雄割拠した戦国時代、寺社勢力も軍事・行政・経済分野に大きな力を持つていたといいます。特に比叡山延暦寺のような大寺院は、広大な寺領による経済力を背景に、政治権力に物申す場面が数多くありました。多数の僧兵を抱え、自分たちの要求を押し通すためには、神輿を担いで強訴(ごうそ:集団で朝廷・幕府などに対して行なった訴えや要求)に打って出ることもたびたびでした。一方、法華宗(日蓮宗)のように、「我々の教えが正しく、他はすべて間違いだ」と主張し、他派を論破して法華宗に改宗させる(折伏:しゃくふく)ことに強い使命感を持つ寺社勢力もありました。いきおい、宗派間の対立は激しいものとなり、血で血を洗う争いに発展したことも何度もあったといいます。以下に、いくつか例を挙げます。

 天文元年(1532)8月、京都の法華宗(日蓮宗)徒が近江の守護大名・六角定頼と結託して、山科本願寺を攻撃し、本願寺境内を一宇も残さず焼き討ちしました(山科本願寺合戦)。この事件ののち、本願寺は山科から石山(大坂)に移ることとなったのです。その4年後の天文5年(1536)、こんどは比叡山僧兵と六角近江衆が京の街に乱入し、京都法華宗の21本山を焼き討ちし、洛内のあちらこちらに放火しました(天文法華の乱)。下京区域は完全に焼失し、上京区域も三分の一が焼失したといいます。その被害は応仁の乱をはるかに上回り、天明の大火(天明8年:1788年)に匹敵すると伝えられています。法華宗側には僧侶など3,000~10,000人の犠牲者が出て、女や子供も数百人含まれていました。これは、もはや事件ではなく戦争でした。この戦いの動機は、「縄張り争い」だったといいます。つまり、京都は我々の縄張りだと思っていた比叡山延暦寺に対して、法華宗徒が断りもなしに布教活動を活発化させ、特に下京区域の商工業者の信仰を集めていったことが、比叡山側の癇にさわったというのです。「俺たちの縄張りを勝手に荒らす輩は、実力で叩き潰せ」といったところでしょうか。

 戦国時代の寺社勢力は、私たちが知る現在のお寺とは全く違うモノだったと思われます。一大名並みの軍事力を持ち、それを背景に他宗派との軍事衝突も辞さず、また、時の権力者に自分たちの要求を突き付け認めさせるという圧力団体でもあったのです。他の大名と結託して利害の対立する相手に軍事行動を起こすこともありました。

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 信長の「残虐性」について評価する前に、戦国時代とはどういう時代だったのか考えてみましょう。まず想像できるのは、「食うか食われるか」の状況で、常に緊張状態を強いられる環境だったということです。戦国大名にとっては、他国からの侵攻のみならず家臣の謀反や同盟国の裏切りにも常に気を配っていなければなりませんでした。だからこそ、敵との戦いとなれば、相手が再び立ち上がれないように完全に殲滅する必要がありました。敵兵は全員処刑し、敵将の一族郎党は女や子供までも殺害するのが当たり前でした。まして、相手が宗教勢力ともなれば、女性信者でも、いざとなれば武器を持って立ち向かってきます。戦闘員と非戦闘員の区別がつかない状況では、女子供まで皆殺しということが頻繁に行われていたと考えられます。それが戦国時代なのです。たとえば武田信玄は、佐久地方の志賀城を攻略した際、城にいた兵士を皆殺しにしています。さらに、戦地で女子供を生捕りにし、奴隷として甲斐の黒川金山に強制連行し働かせています。あの上杉謙信ですら、小田城(現・つくば市)を攻め落としたとき、占領地の住民を奴隷として売り買いすることを許したと伝えられます。豊臣秀吉が甥の秀次を謀反の疑いで処刑(切腹)したとき、秀次の幼い若君4名と姫君・側室・侍女・乳母ら39名を京都三条河原で惨殺したのはあまりにも有名です。繰り返しますが、これがこの時代では当たり前だったのです。

 以上みてきたように、信長が行った「残虐行為」は、この時代において特段に「残虐性」が高かったとは言えないように思われます。ただし、あえて言えば、信長は、他の武将のように宗教勢力に対する攻撃をタブー視しなかったことは事実でしょう。伝教大師が創建した「聖地」であろうが、天下統一事業に障害をもたらす敵とみれば、徹底的に(容赦なく)叩いていったのです。そこには信長の天下統一への並々ならぬ執念が感じられます。さて、それでは、信長はなぜ比叡山を焼き討ちしたのでしょうか。その理由について考えていきます。

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 信長は、なぜ比叡山を焼き討ちしたのか……。このことを考えるために、元亀元年(1570)前後における信長の行動とそれを取り巻く情勢について振り返ってみます。

 永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしました。そして、山城から摂津一帯を支配していた三好三人衆(三好長逸<ながゆき>,岩成友通,三好政康)を撃退し、義昭を第15代将軍に擁立します。当初は、信長と義昭の仲はよかったようですが、次第にその関係は悪化していきます。そのわけは、信長が義昭の権力を規制し自由に政治が行えないようにしたためといわれます。その証となるものが、元亀元年(1570)1月に信長が定めた「五か条の事書(ことがき)」でした。この内容を要約すると、将軍が大名に出す書状はすべて信長の承認を得ること(第一条)、将軍の命で与える恩賞も、すべて信長の所領から与えること(第三条)、天下のことは信長に委任し、将軍の決断を仰ぐ必要はない(第四条)など、将軍の権威は名目だけで、実質の支配者は信長であることを高らかに宣言するものでした。これでは、義昭が怒るのも無理はありません。信長と義昭の仲は悪化していきます。しかし、これも信長の作戦でした。将軍家嫡男としての義昭の権威を利用して上洛を果たし、大名の中でも優位な地位を確保し、朝廷との結びつきを強めていった信長ですが、利用価値がなくなれば義昭を捨てるつもりだったのです。

 さて、天下統一に向けて大切な一歩を踏み出した信長は、同年4月、義昭の上洛命令を拒否し続けた朝倉義景(義景は信長が陰で糸を引いていた事を見抜いていた)の越前領に攻め入ります。しかしここで、信長にとっては驚天動地のことが起きました。妹のお市を嫁がせ同盟関係を結んでいた北近江の浅井長政が反旗を翻し、信長軍の背後から攻め込んできたのです。さらに南近江の六角勢が旗揚げをし、信長軍は袋のねずみとなってしまいました。このとき信長は、少数の伴を連れて素早く退却し、ほうほうの体で京に逃げ帰りました。この退却戦で殿(しんがり)を務めたのが秀吉と家康でした。この浅井長政の裏切りは、信長をめぐる周囲の環境を一変させました。それまで中立的立場をとっていた寺社勢力が反信長で立ち上がるきっかけをつくったからです。その寺社勢力とは比叡山延暦寺であり、石山本願寺(一向一揆)でした。 

 京からいったん岐阜へもどった信長は、同年6月、北近江の浅井領に侵攻し、浅井・朝倉連合軍を打ち破りました、しかし浅井の居城である小谷城は落とせませんでした。続く8月、今度は三好三人衆が摂津国に侵入して反信長の旗を挙げました。信長はこれを排除すべく摂津天王寺に進攻しました。しかしこのとき、顕如(けんにょ)率いる石山本願寺(現・大阪市)が反信長で決起したのです。さらに、浅井・朝倉連合軍が、南近江の坂本まで攻め込んできました。まさに四面楚歌の状態です。信長は、岐阜と京を結ぶ重要な地である南近江を守るために、摂津から南近江へ兵を動かしました。すると浅井・朝倉連合軍は兵を比叡山延暦寺に移動して体制を整えました(同年9月)。比叡山延暦寺も、反信長陣営についたということです。この状況で、伊勢長嶋一向一揆勢は活気づき、尾張小木江城(こきえじょう)が攻め落とされ、城主・信興(信長の弟)は切腹しました(同年11月)。まさに絶体絶命の状況の仲、信長は対立していた義昭を説得して何とか和議に持ち込んだといいます(同年12月)。義昭が信長の説得を受け入れ、和議の仲裁をしたわけについては、興味深い問題です。兄・義輝(第13代将軍)を殺害して傀儡将軍を擁立しようとした(第14代・義栄)三好三人衆にくみすることを嫌ったのか、はたまた、自分の将軍就任に尽力した信長に、いまだに恩義を感じていたのかは今となっては知る由もありません。いずれにしても信長は、最大の危機を脱しました。しかし、四面楚歌の状態は続いています。このとき信長は、天下統一の夢を実現するために、反信長の抵抗勢力を各個撃破する意志を固めたと思われます。そして、最初のターゲットは‥‥‥。

 元亀2年(1571)9月12日、北近江に兵を進めていた信長軍に、突然命令が下りました。

「比叡山を焼き討ちせよ」

信長軍3万は、琵琶湖を押し渡り、坂本から比叡山に攻め上がり、根本中堂や山王21社はじめ500余りの堂塔をことごとく焼き払い、僧侶や信者ら3~4,000人を殺戮したといいます。これにより、比叡山は丸裸になり、「軍事力」を背景に、戦国時代に大きな影響力を持っていた武装集団としての比叡山延暦寺は消滅しました。

 信長が比叡山を焼き討ちしたのは、浅井・朝倉連合軍に味方したことへの単なる復讐ではなく、戦略的な意味があったといわれています。実際、焼き討ちの前年、信長は比叡山に使者を送り警告をしていました。「浅井・朝倉軍と手を切り中立を守れば、接収した領地は返還する。さもなくば、全山焼き払う。」と…。信長は、比叡山の地の戦略的価値を理解していました。東に琵琶湖を望み、北国街道が越前から直江津に通じています。西側に若狭街道(八瀬から敦賀に通じる)が走り、京の街は西南に位置しています。また、山上には500以上の堂塔があり、数万人の兵を配備することが可能といわれます。京を攻めるにも、東から攻めてくる敵を迎え撃つ防衛基地としても、重要な拠点となります。信長は、比叡山が反信長の姿勢を変えないのならば、この地を焼き尽くして戦略的価値をなくすことを考え実行したのだと思われます。

 信長が比叡山を徹底的に焼き討ちしたもう一つの理由は、堕落した中世的権威へ鉄槌を下すためでした。修行をおろそかにし神仏への奉仕の心を忘れ、圧倒的な武力を背景に強訴などで自分たちの要求を強引に通そうとする姿に幻滅した信長は、そのベールをはがし、堕落した中世的権威の象徴である寺社勢力を焼き討ちし、本来あるべき姿に戻そうとしたのではないかと思えるのです。本来あるべき姿とは、日々修行を積み、神仏を護り、迷える信者に救いの手を差し伸べる営みでしょうか。信長は、比叡山焼き討ち後に天台宗禁教令を出したわけでもなく、全国にある末寺の信者に弾圧を加えたわけでもありません。信長は、宗派の存続や布教活動は認めていたのです。

 信長の寺社勢力への弾圧の例としては、伊勢長嶋一向一揆の信者惨殺、安土城での浄土宗と法華宗との宗論で敗れた法華宗側に詫び証文を書かせて折伏(しゃくふく)禁止を認めさせた例があります(これは、法華宗が負けるよう信長が仕組んだ八百長だったという説もあります)。信長が、中世的権威を笠に着て好き勝手なふるまいをしていた寺社勢力に対して行った弾圧が、宗教による政治への介入をやめさせ、政教分離を加速させたという見方があります。江戸時代初期の政治家であり朱子学者である新井白石は、「長く僧徒の兇悪を除いた功労は天下一」と信長を評価しています。また、現代の作家・塩野七生(ななみ)氏は、その著書『男の肖像』で、

「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は、比叡山焼打ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである。(中略)このときをもって、日本人は宗教に免疫になったのである。いや、とかく守備範囲の外にまで口を出したがるたぐいの宗教には、免疫になったと言うべきかもしれない。」

と書いています。唯一の神を絶対のものとするキリスト教やイスラム教と「あらゆるものに神が宿る」という思想がベースにある日本人の宗教観とは違うのかもしれませんが、その日本においても、中世社会では宗教が政治にちょっかいを出していたのは事実です。信長の徹底的な弾圧によって政教分離がはかられたとしたら、我々現代人は、信長に大いに感謝しなければならないのかもしれません。

 それでは最後に、信長が天下統一後にどのような社会を目指していたのか考えてみたいと思います。

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 信長が行った経済政策に楽市・楽座の制度があります。信長の時代には、商工業者による同業者組合である「座」が、まだ存在していました。この同業者組合は、公家や寺社などの本所に座役(ざやく)を納める代わりに、本所から営業・販売の独占権を得ていました。また、商品の流通路や運送手段も独占し、本所の政治力のもとに通行税や営業税も免除されていました。一方で、座に属しない商人や職人は、営業活動ができなかったのです。信長は、これらの特権を持つ商工業者を排除して、自由な取引市場を奨励しました。座を解散して既得権を取り上げ、誰もが、その才覚と努力によって成功できる市場環境をつくり上げようとしたのです。また信長は、関所における通行料(関銭)を撤廃し、交通を自由にしました。これにより、物流コストは大幅に削減されました。これら一連の政策で、経済は活性化し城下町は大変な賑わいを見せたといいます。その一方で、今までは何もしなくても座役や関銭が転がり込んでいた公家や寺社などの本所は、既得権益をはく奪された格好になり、猛反発したことは言うまでもありません。

 信長の宗教政策についてみてみます。確かに信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちし僧侶など3~4,000人を殺戮しました。しかしこれは、比叡山が信長の忠告に反して、朝倉・浅井軍に加担し反信長の旗を鮮明にしたから叩いたのであって、天台宗という宗派を弾圧することが目的ではなかったといえます。一方、信長は本願寺・一向一揆とも敵対していました。浅井長政の裏切りにあった信長は、東は朝倉・浅井連合軍、西は三好三人衆と対峙し、緊張状態にありました。そのような中で、元亀元年(1570)9月、石山本願寺の住職・顕如(けんにょ)が本願寺門徒に檄を飛ばし、信長に宣戦布告をしました。これにより、信長は四面楚歌の状態となり、一歩間違えば天下統一どころか滅亡の危機さえあったといいます。信長と石山本願寺との戦いは、途中何度か休戦状態がありましたが、11年間の長きにわたり続きました。そして天正8年(1580)、朝廷の仲裁で和解が成立し、顕如が石山本願寺を退出してこの地を信長に明け渡すことで合意し、終戦を迎えました。この戦で信長は、弟・信興はじめ多くの有力武将を失いました。また先に述べたように、信長による伊勢長嶋一向一揆の信者惨殺もありました。しかし、和議を結んだ後は、本願寺の宗教団体としての存続を認めています。本願寺やその信者に対する弾圧はしていません。ここに、信長の基本的な考え方が見て取れます。「神や仏を信仰して救いを求めることは自由であり、信者を導く僧侶たるものは、経済的利益や俗世の快楽に溺れることなく修行に励むべきだ。ましてや、自分らの利益のために政治に介入し、武力をもってその要求を押し通そうとするなど言語道断だ。」ということでしょう。信長は信仰の自由は最大限尊重していました。ポルトガル人宣教師が京でキリスト教の布教活動を願い出たときも、これを快く許しています。安土では、セミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関=小神学校)の建設までも許可しています。しかし、修行を怠らず人々を救いの道に導くという本分を忘れ、俗世のアカにまみれ、自らの要求を通すために武力をもって対抗してくるものに対しては、徹底的に立ち向かいこれを殲滅するというのが信長の行動哲学だったのです。

 信長が目指す理想の社会とは、一部の特権階級だけが甘い汁を吸うのではなく、誰にでも平等にチャンスが与えられ、汗を流して頑張った者が報われる社会だったように思います。そして、社会の秩序を乱したり、不公正な取引で自分だけが利を得るような行為でなければ、基本は自由な社会なのです。信仰の自由や職業の自由が認められ、他人が思いもつかないような優れたアイデアが求められ、評価される社会でもあります。もし本能寺の変がなければ、日本が歩む道は大きく変わっていたのかもしれません。

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この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳・信長公記』(新人物文庫)
  • 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史2』織田信長編(中公文庫)
  • 朝尾直弘著『日本の歴史8』天下一統(小学館ライブラリー)
  • 童門冬二著『織田信長に学ぶ』(新人物文庫)
  • 和田惟一郎著『織田信長常識のウソ』(PHP研究所)
  • 今谷明著『信長と天皇』(講談社現代新書)
  • 塩野七生著『男の肖像』織田信長(文春文庫)
  • 神田千里『織田信長』(筑摩新書)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史9、10』(小学館)


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