ー甲斐健の旅日記ー

西大寺/聖武天皇が創建した東大寺に対して、その子の称徳天皇が都の西に創建した寺院

 西大寺(さいだいじ)は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院です。奈良時代に孝謙上皇(後に再度即位してして称徳天皇となる)の発願により、僧・常騰(じょうとう)を開山として創建されました。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍(がらん)を誇りましたが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊(えいそん:興正菩薩)によって復興されました。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来です。

 寺伝(『西大寺資財流記帳(さいだいじ しざいるきちょう)』)によれば、西大寺の創建の経緯は次のようなものです。天平宝字8年(764)9月、謙上皇(後に再度即位してして称徳天皇となる)は、当時太政大臣として権勢をほしいままにしていた藤原仲麻呂の乱の平定を祈願して、鎮護国家の守護神とされる四天王像の造立を誓願しました。翌天平神護元年(765)、乱を平定した孝謙上皇は重祚(ちょうそ:再度即位すること)して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造しました。そして父である聖武天皇が平城京の東に東大寺を創建したのに対し、都の西に西大寺を創建し、四天王像を安置しました。これが西大寺の始まりです。

 この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されていますが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世(鎌倉~室町時代)の作といわれます。西大寺の創建当時は僧・道鏡が称徳天皇の信頼を得て、太政大臣禅師として強大な権力を握っていました。そのため、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと考えられています。護国のために四天王像を安置するのは「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に基づくものです。

 西大寺の創建当時の伽藍(がらん)は広大なものであったといいます。薬師金堂と弥勒金堂の二つの金堂に加え、四天王像を安置する四王堂、十一面観音像を安置する十一面堂、さらに東西に二基立ち並ぶ五重塔など多くの堂宇(どうう)が配置されていました。五重塔は、初めは八角形で計画されていましたが、後に四角形に改められたということが、塔跡の基壇の調査で判明しています。寺伝によれば、薬師金堂には、薬師三尊像をはじめ21体の仏像が安置され、密教系の孔雀明王像もあったといいます。弥勒金堂には、77体の仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土(とそつてん じょうど)を表現していたといいます。

 しかし、平安時代に入って寺は火災や台風で多くの堂塔が失われ衰退していきます。ついには、興福寺の支配下に入ってしまいました。これを再興させ西大寺の中興の祖となったのが、鎌倉時代の僧・叡尊(えいそん:興正菩薩)です。叡尊は建仁元年(1201)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれました。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235)、35歳の時に初めて西大寺に住しました。その後、一時他の寺院に移った後、嘉禎4年(1238)西大寺に戻り、90歳で亡くなるまで50年以上もの間、荒廃していた西大寺の復興に尽くしました。叡尊は、当時多くの密教行者が邪道に陥ることを嘆き、悟りの道を切り拓くには、その前提として釈尊が定めた(とする)戒律を遵守することが肝要だと唱え、密教と戒律を兼修する「真言律」の根本道場を創設しました。さらに叡尊は、社会的に疎外された貧者、病者などの救済に奔走し、社会福祉事業にも尽力したといいます。

 その後西大寺は、文亀2年(1502)の火災で大きな被害を受けました。そのため、現在見る伽藍はすべて江戸時代以降の再建です。なお、西大寺は明治28年(1895)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っています。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)のほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがあります。

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 西大寺へは、近鉄線大和西大寺駅で下車し、南口駅前の道路を南下して3分ほど歩くと、右手に東門があります。また、境内周囲の道を四分の一周ほど歩くと、南門に出ます。

 南門をくぐると、正面にかつて東塔が建っていた跡が見えます。その向う側に建つのが本堂です。本堂は、天平神護元年(765)の創建以来、度重なる兵火や火災によって焼失を繰り返しました。現在見る建物は、文化5年(1808)頃完成したものとされます。正面(桁行:けたゆき)7間(間は柱の間の数)、奥行(梁行:はりゆき)5間で、寄棟造(よせむねづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)のお堂です。土壁を使わず総板壁です。外側には、連子窓(れんじまど)桟唐戸(さんからど)が配され、軒下の組み物には、様々な彫刻が施されています。堂内には、西大寺の本尊である釈迦如来立像が安置されています。建長元年(1249)、仏師善慶(ぜんけい:善派の仏師)の作といわれます。「清凉寺式釈迦如来像」で、京都清凉寺(せいりょうじ)にある三国伝来(インド、中国、日本)の釈迦像の模刻です。釈迦37歳の時にインドで造られた生前の姿の像をモデルにしたもので、特徴は、縄に巻きつけたように大きく渦を巻く頭髪(ガンダーラ様)、袈裟の衣は両肩を包み体に張り付くように密着して、流水文という木目のような彫り(インドグプタ様式)があり、裾は三段に重なっています。他に、獅子に乗った文殊菩薩像(興正菩薩が、生前特に信仰していたという)、善哉童子像他3体が安置されています。いずれの像内にも、多数の納入品(弟子達の経巻文書類など)が、納められているそうです。

 本堂南にある塔跡は、奈良時代にあった東西両塔のうちの東塔跡です。創建当初のものはともに平安時代に焼失、東塔は平安時代後期に再建されましたが、これも室町時代の文亀2年(1502)に焼失してしまいました。壇下の八角の小石列は、創建期に計画され途中で断念されたという八角七重塔の基壇の跡であることが、先年発掘調査によって確認されました。

 本堂の左(西)にある愛染堂(あいぜんどう)は、もともとは京都の近衛政所御殿であったものを、宝暦12年(1762)に移建した宸殿造りの仏堂です。正面11間、奥行き8間、入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。内部は三つに区切られており、中央内陣の厨子(ずし)内には、本尊愛染明王(あいぜんみょうおう)坐像が安置され、左側の部屋には、西大寺代々の霊牌をまつる御霊屋(おたまや)、右側は正式の閲見の場所である客殿となっています。 中央内陣に安置される愛染明王坐像は宝治2年(1247)、仏師善慶作とされます。日本の愛染明王像の代表作の1つといわれます。当初の彩色や切金文様(きりがねもんよう)がよく残っているそうです。また、小さな像ですが、体内に多数の納入品が納められているそうです。愛染明王像は秘仏ですが、特別開扉日があります(2015年は、1/15~2/4、10/25~11/15)。

 堂内向かって左の間には、西大寺中興の祖・叡尊(興正菩薩)の肖像彫刻が安置されています。興正菩薩坐像です。弘安3年(1280)、叡尊80歳の時の肖像で、作者は仏師善春(ぜんしゅん:善慶の子)です。長い眉毛、団子鼻の風貌は叡尊上人の面影をよく伝えるものといわれます。西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内に多数の納入品が納められているのが特色ですが、中でもこの像には叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納められていました。

 東門の西に建つのが四王堂(しおうどう)です。創建期の由緒を伝える唯一の堂といわれます。四王堂も再三の火災で焼失、再建を繰り返しました。現在見る建物は、延宝2年(1674)の再建です。正面9間、奥行き7間。寄棟造、本瓦葺で、重厚な裳階(もこし)が施されています。堂内には、本尊の十一面観音立像が安置されています。平安時代後期の仏師円信作とされます。像高1丈8尺(約5.45m)、木造漆箔(うるしはく:漆を塗った後に金箔を貼ったもの)です。この像は、正安2年(1289)に亀山上皇の院宣(いんぜん)で鳥羽上皇の御願寺(ごがんじ)であった京都白河十一面堂院から移されたものといわれます。本尊の両側に四天王像が祀られています。しかし、奈良時代の創建時に製作された像は、足下の邪鬼の部分のみが残っているだけで、他は鎌倉時代以降に製作されたものです。持国天・増長天・広目天像(銅造)は鎌倉時代、多聞天像(木造)は、室町時代の作といわれています。

 本堂の右(東)隣に建つのは、不動堂(護摩堂)です。寛永年間(1624~45年)に建立されました。方三間、寄棟造、本瓦葺の建物です。もともと愛染堂南辺にあったのですが、昭和54年(1979)に現在地に移建されました。宝山湛海(ほうざんたんかい;江戸初期の仏師)作の不動明王が安置されています。この不動堂の奥にあるのが聚宝館(しゅうほうかん)です。昭和36年(1951)に竣工されました。国宝 金銅宝塔や、吉祥天立像、行基菩薩坐像などの重要文化財をはじめ多くの寺宝を収蔵し、また一部を公開しています。今はなき五重塔の初層に安置されていたと考えられている塔本四仏坐像のうち、阿弥陀如来坐像、宝生(ほうしょう)如来坐像の2体(平安時代作、木心乾漆造)が安置されています。4体のうち、阿閦(あしゅく)如来像は奈良国立博物館に、釈迦如来像は東京国立博物館に寄託されていて、聚宝館にはそれらの模刻象(現代)が展示されています。

 境内の北西にある奥の院は、正式には、法界体性院といいます。中興の祖である興正菩薩は正応3年(1290)に90歳の高齢でその生涯を閉じましたが、西大寺の西北の林間で荼毘(だび)にふされここに葬られました。1丈1尺(約3.33m)に及ぶ立派な石造五輪塔は、興正菩薩没後すぐに、弟子達によって建てられたといいます。

 西大寺の「中興開山」である叡尊(興正菩薩)の根本理念は、「興法利生」でした。これは、仏教を盛んにするという「興隆仏法」と、民衆を救済するという「利益衆生」の略語だといいます。この二つの言葉は別々のものではなく切っても切れない関係にあるということでしょう。すなわち、民衆の救済が実現できなければそ仏教者の面目はたたないとし、また人々の平安を実現させるものこそ、仏法そのものであるということでしょうか。この考えが、叡尊を社会福祉事業に尽力させる結果になったのは、興味深いことです。この叡尊の高徳をしのんで、正安2年(1300)7月、亀山法皇は叡尊上人に「興正菩薩」という貴号を贈ったといいます。



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