ー甲斐健の旅日記ー

清凉寺(釈迦堂)/三国伝来の釈迦如来像で信仰を集めた寺院

 清凉寺(せいりょうじ)は京都市左京区にある浄土宗知恩寺派の寺院です。山号は五台山(ごだいさん)と称し、別名嵯峨釈迦堂とも呼ばれています。

 清凉寺のあるこの地には、平安時代初期には源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観(せいかかん)があったといいます。源融は嵯峨天皇の皇子で、臣籍降下(しんせきこうか)で源姓を与えられ左大臣にまでなった男です。風流をこよなく愛し、鴨川のほとりに河原院を建て庭に海水を運び込み、陸奥塩竈(宮城県塩釜市)の風景さながらに塩を焼く煙を眺めていたといいます。一方では、女性関係も華やかで、源氏物語の光源氏のモデルとなったともいわれます。

 この融の死の翌年(寛平8年:896年)、その子息が山荘に阿弥陀堂(あみだどう)を建立し、阿弥陀三尊像を祀り棲霞寺(せいかじ)としました。この阿弥陀如来像は、源融の「うつし顔」といわれ、源融の顔だちを写しとったものといわれます。源融が生前に造立を願っていたものを、その子らが実現させたというわけです。その後、天慶8年(945)、醍醐天皇の皇子重明(しげあきら)親王妃が新堂を建立し、等身大の釈迦如来像を安置しました。釈迦堂の名が起こったのは、このことに由来するといわれています。

 棲霞寺草創から数十年後、中国の宋に渡って五台山(中国仏教三大霊場の一つ)で修行していた東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、宋で見た釈迦如来(しゃかにょらい)像の模刻を持ち帰り、帰国しました。この釈迦如来像は、釈迦37歳の時の生き姿を刻んだもので、栴檀(せんだん)の香木で彫られた像の体内に、中国の尼僧が絹でつくった五臓六腑が入っていることが、昭和28年のX線を使った調査で判明しいています。とにかく、奝然は、この釈迦如来像を本尊とした大寺の造営を志します。しかし志半ばで亡くなってしまい、弟子の盛算(せいさん)がこれを引き継ぎ、長和5年(1016)に釈迦堂に本尊の釈迦如来像を安置して、華厳宗清凉寺を開創しました。これが清凉寺の始まりです。開基は奝然、開山が盛算です。

 本尊の釈迦如来像は、釈迦37歳の時にインドで彫られたものが、中国にわたり、それの模刻という形で奝然が日本に伝えたということで、「三国伝来の釈迦像」と呼ばれます。また、他の釈迦如来像と違う特徴を持つことから、清凉寺式釈迦如来像とも呼ばれています。その特徴とは、縄に巻きつけたように大きく渦を巻く頭髪(ガンダーラ様)、袈裟の衣は両肩を包み体に張り付くように密着して、流水文という木目のような彫り(インドグプタ様式)がみられること、三段に重なった裾(すそ)等です。

 この釈迦如来像は、多くの人々の信仰を集め、清凉寺は、天台、真言、念仏宗を兼学とする寺院として隆盛を極めていきます。のちに浄土宗を開き多くの庶民を救うため専修念仏の教えを説いた法然上人も、24歳の時に清凉寺を訪れ(保元元年:1156年)、三国伝来の釈迦如来像の前で7日間参籠し、自らの心をみつめて、改めて不退転の誓願をたて、その成就のための加護を祈念したといわれます。

 多くの人々の信仰を得ていった清凉寺でしたが、平安時代末期以降は、度々の火災に遭い、また応仁の乱の戦火では諸堂の殆どが焼失してしまいました。その後、江戸時代になって、徳川家康や五代将軍綱吉の母桂昌院らの援助により伽藍(がらん)は少しづつ復興を遂げ、現在の姿になりました。また、その過程で改宗し浄土宗知恩寺派の寺院に生まれ変わっています。

 蛇足ですが、清凉寺の「凉」は、「涼」ではありません。

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 清凉寺は、京都駅からですと、市バス28系統に乗り、「嵯峨釈迦堂前」で降り、交差点を西に少し歩いたところの右手にあります。

 まずは重厚な仁王門が迎えてくれます。この門は、安永5年(1776)に再建されました。三間一戸の二重門で、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。上層には十六羅漢(らかん)像、門の入り口左右には、阿吽(あうん)の金剛力士像が安置されています。この仁王門をくぐると、嵯峨野の地には珍しく、予想外に広い境内にでます。すぐ左手に法然上人像があります。前述したように、24歳の若い法然上人が、清凉寺を訪れて7日間釈尊像の前に籠り続けたときの姿を像にしているそうです。

 法然上人像の西側に多宝塔があります。元禄16年(1703)に建立されたものとされます。下層は本瓦葺、上層は銅瓦葺となっています。多宝塔は、釈迦が説法しているときに、突然地中から七宝塔が現れ、その宝塔に住む多宝如来(たほうにょらい)が釈迦の教えを正しいと認め、半座をあけて共に座ったという法華経の教えに由来するものです。多宝塔の背後にある宝筐印(ほうきょういん)石塔は源融の墓です。さらにこの石塔に並んで、嵯峨天皇、壇林皇后の宝塔、開基の奝然(ちょうねん)の墓が立っています。嵯峨天皇宝塔は、宝篋印塔で平安末期、壇林皇后宝塔は、層塔で平安中期のものとされます。

 多宝等の西に、聖徳太子殿(夢殿)があります。法隆寺の夢殿を模したもので、扉には皇室の印である菊の文様が見えます。何故清凉寺に、夢殿を模した建物があるのか、ミステリィです。また多宝塔の北には鐘楼、北西には狂言堂があります。鐘楼は江戸期のものとされます。梵鐘には、文明16年(1484)の日付と、寄進者名として室町8代将軍足利義政、その妻日野富子、子の足利義尚らの銘があります。嵯峨十景の一つ五台の宸鐘と呼ばれています。狂言堂で、4月の第二土曜、日曜と第三日曜日に行われる「嵯峨大念仏狂言」は、壬生(みぶ)大念仏狂言と千本閻魔(えんま)堂狂言と並ぶ京都三代念仏狂言の一つとして有名だそうです。

 仁王門をくぐった右手には、八宗論池(はっしゅうろんち)、一切経蔵(いっさいきょうぞう)があります。八宗論池は、弘法大師空海が南都八宗の学僧たちとここで議論し論破したとされる地です。現在は危険ということで、鉄柵で囲まれていて残念ながら当時の面影をしのぶことはできません。また、この池の東にある弥勒多宝石仏には、表面に石仏、背面に多宝塔が刻まれています。鎌倉時代前期の空也上人の作といわれています。

 一切経蔵(いっさいきょうぞう)は江戸中期の建立とされ、内部の輪蔵には明版一切経(いっさいきょう)が納められています。この輪蔵の周りを一周すると、一切経を読破したのと同じ功徳があるとされます。入場料(100円:2014年11月)を納めると、輪蔵一周の体験ができます。

 仁王門の北正面に建つのが本堂(釈迦堂)です。16世紀になって清凉寺が浄土宗の寺となった後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されましたが、火災で焼失してしまいました。その後、徳川五代将軍綱吉やその生母桂昌院らの寄進により、元禄14年(1701)に再建されました。単層、入母屋造、本瓦葺の建物です。内部には、清凉寺本尊の釈迦如来像、開祖奝然の木像と厄除け地蔵尊像が祀られています。本堂の裏庭には、放生池(ほうじょうち)と弁天堂があります。放生池の中小島に建つ忠霊塔は戦争犠牲者の霊を弔う供養塔です。塔の地下には、沖縄などの戦いの場で拾った血染めの小石や、一万数千個の写経石(1石1字)が納められています。弁天堂は、宝形造(ほうぎょうづくり)で、正面に軒唐破風(のきからはふ)が施されています。江戸時代後期の建築物とされます。正面扉には、「梅鉢」、「牡丹唐草」の彫刻が、また両脇の腰羽目には、「松に親子獅子」の彫刻が施されています。

 本堂の東には、源融公が亡くなった翌年に創建された棲霞寺(せいかじ)の名残をとどめる阿弥陀堂があります。現在見る建物は、文久3年(1863)に再建されたもので、入母屋造、本瓦葺です。この阿弥陀堂は、通常と違って、本尊が西を向く配置で建てられています。なお、源融公の「うつし顔」といわれる阿弥陀如来像は、現在霊宝館に安置されています。

 阿弥陀堂の北には大方丈があります。現在の建物は、享保年間(1716~1735年)の再建といわれます。狩野探幽筆といわれる襖絵や、小堀遠州作庭といわれる庭があります。

 本堂の西には、豊臣秀頼の首塚があります。昭和55年、大坂城の三の丸跡地から出土された豊臣秀頼の首が、昭和58年、秀頼ゆかりの清凉寺に納められました。首に介錯の後があったといいます。この首塚の側には、大坂の陣諸霊供養塔が建っています。さらにこの首塚の西には、薬師堂があります。かつては竜幡山薬師寺といい、弘仁9年(818)、嵯峨天皇の勅により空海が建立したといわれます。薬師如来像を安置しています。

 境内東にある霊宝館では、多くの寺宝を観ることが出来ます。国宝の阿弥陀三尊坐像は、平安期の896年に製作されたといわれます。中尊の阿弥陀如来像は、前述したように源融の「うつし顔」と呼ばれます。脇侍は観音菩薩勢至菩薩です。三体いずれもヒノキの一本造だそうです。国宝の釈迦如来立像体内納入品は、清凉寺本尊である三国伝来生身釈迦如来の体内に見つかった26件の品々です。特に、五色のシルクでつくられた五臓六腑の内臓模型や、その周りに張り巡らせた絹織物や網が筋肉や血管、神経を示しているとみられています。さらに頭の部分には脳とみられる鏡がはめ込まれているなど、まさに37歳の釈迦の生身の姿を表現した像を示すものとして、大変貴重なものだそうです。この他にも、十六羅漢図、釈迦十大弟子像、四天王像、清凉寺式釈迦如来模刻象、狩野探幽筆の襖絵など、見ごたえのあるお宝が満載でした。

 清凉寺は、三国伝来の本尊(生身釈迦如来)を護り、多くの人々や修行僧ら(若き日の法然上人も)から信心を得てきました。あらゆる人々に救いの手を伸ばし続けてきた優しさに満ちた寺だと感じました。



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