ー甲斐健の旅日記ー

泉涌寺/皇室の菩提寺としての寺格をそなえた寺院

 泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区にある、真言宗泉涌寺派の総本山です。山号は「東山(とうざん)」または「泉山(せんざん)」です。

 伝承によると、天長年間(824~834年)に弘法大師空海が、この地に創建した法輪寺が起源とされます。斉衡2年(855)には、左大臣藤原緒嗣(おつぐ)によって仙遊寺と改められたといいます。その後、寺勢は一時衰えていましたが、鎌倉時代の建保6年(1218)に、月輪大師俊芿(がちりんだいし しゅんじゅう)が寺を再興しました。俊芿は肥後国に生まれ、34歳で宋に渡り、13年にわたって律と天台を学び、多くの文物を持って帰国した学僧です。その彼に、源頼朝の家臣であった宇都宮信房が、仙遊寺の再興を託しました。俊芿は朝廷はじめ多くの人々から寄付を受け、この地において、宋風の大伽藍(がらん)を完成させたといいます。また、境内の泉から霊泉が湧き出たことから、寺名も泉涌寺と改めました。泉涌寺の始まりは、実質的にこの時といえます。開山は俊芿です。

 この後、泉涌寺は律を中心として、天台、真言、禅、浄土の五宗兼学の道場として栄えていきます。貞応3年(1224)には、後堀河天皇により、勅願寺(ちょくがんじ)と定められました。また、仁治3年(1242)、四条天皇が亡くなった時には、ここ泉涌寺で葬儀が営まれ、山内に月輪陵(つきのわみささぎ)と呼ばれる墳墓が造営されました。その後は、歴代の諸天皇特に江戸時代の後陽成天皇から明治天皇の父である孝明天皇に至る天皇、皇后の葬儀はすべて泉涌寺で行われ、山陵が設けられていったといいます。こうして皇室の香華院(こうげいん:菩提寺)となった泉涌寺は、寺格も上がり「御寺(みでら)」と称されるようになりました。

 勅願寺として隆盛を誇った泉涌寺でしたが、応仁の乱の戦火に巻き込まれ、諸堂悉く焼失してしまったといいます。その後、織田信長や豊臣秀吉の援助によって再建事業が始められ、江戸期になって後水尾天皇の綸旨(りんじ)による仏殿の再建によって、復興がすすめられていきました。

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 泉涌寺へは、京都駅から市バス208系統に乗って泉涌寺道で降り、バス停のある交差点から泉涌寺道(南東)に入って数分歩くと、総門に着きます。ここからは、道の左右にある石垣の上に背の高い樹木が生い茂る参道です。この参道を登っていった先に泉涌寺大門があります。

 大門をくぐると、左手奥に楊貴妃観音堂があります。堂内には聖観音菩薩座像が安置されています。寛喜2年(1230)、泉涌寺二世湛海(たんかい)が中国より持ち帰ったものとされます。伝承によれば、唐の玄宗皇帝が、こよなく愛していた楊貴妃が亡くなったのを悲しみ、その冥福を祈って楊貴妃に似せた観音像を彫らせたのですが、それを湛海が手に入れ日本に持ち帰ったものと伝えられています。そのため、楊貴妃観音とも呼ばれています。現在は、観音堂内でその絶世の美人の美しさを拝顔することが出来ます。

 大門の正面に建つのが仏殿です。泉涌寺では、大門から仏殿までの道が長い下り坂になっています。門をくぐってすぐには、はるかかなたにある仏殿を見下ろす感じですが、ゆっくり坂を下っていくと建物が視野の中に大きく入ってきて、近くまで来ると、見上げるような位置になります。仏殿の威容さを実感させる演出なのでしょうか。仏殿は、応仁の乱での焼失後、寛文8年(1668)に、徳川四代将軍家綱によって再建されました。一重、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)裳階(もこし)が施されています。仏殿内部には、運慶の作といわれる阿弥陀仏釈迦仏弥勒仏の三尊仏が泉涌寺本尊として祀られています。このような安置の方法は日本にはあまり例がなく、南宋仏教の影響だといいます。なお、この三尊仏のことを、三世仏(さんぜぶつ)とも言います。阿弥陀如来を過去仏とみたて、釈迦如来を歴史上の人物ということで現在仏とみて、弥勒菩薩は、将来如来として現れることが約束されているので未来仏とみます。過去から未来にわたって、人類の平安と幸福を祈る人々の信仰を集めているといわれます。また、堂内の鏡天井には、狩野探幽筆といわれる蟠龍図(ばんりゅうず)が描かれています。仏法を保護するという龍の図です。また龍は「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられてきました。

 仏殿に隣接するのは、舎利殿です。現在の建物は、慶長年間(1596~1615年)に京都御所の建物を移築、改造したものです。入母屋造、本瓦葺の建物です。舎利殿は、開山俊芿律師の弟子の湛海律師が、安貞2年(1228)に宋より持ち帰った仏牙舎利(ぶつげしゃり:釈迦の歯)を奉安(ほうあん)するお堂です。同時に宋より持ちこんだ、韋駄天(いだてん)像、月蓋(がつがい)長者像と共に内陣に安置されています。舎利殿は通常非公開ですが、毎年10月8日には舎利会法要が行われ、特別公開されるそうです。天井には狩野山雪筆の蟠龍図が描かれ、鳴き竜として知られています。堂内のある場所で手を叩くと、それが反響して龍の鳴き声に聞こえるのだそうです。

 舎利殿の南東に位置する霊明殿は、明治15年に火災で焼失し、明治17年に明治天皇によって再建されました。入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)で、宸殿風の建物です。内陣には、四条天皇像や天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の位牌が安置されているそうです。

 霊明殿に隣接する御座所も、明治15年の火災で焼失しました。その後、京都御所の皇后宮の御里(みさと)御殿が移築され、現在に至ります。なお、この御里御殿は文化15年(1818)に造営されたものです。六室に分かれ、南側には侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側には女官の間、門跡の間、皇族の間があります。特徴ある違い棚や襖絵など、宮廷生活の華やかさが感じられます。この御座所は両陛下や皇族方が御陵参詣をするときの御休所として現在も使われているそうです。

 仏殿の南西には、寺名の起源となった霊泉が今も湧き出ているという、泉涌水屋形(せんにゅうすい やかた)があります。この建物は、仏殿と同時期に建てられたと伝えられています。  

 霊明殿の東には、月輪陵(つきのわみささぎ)と呼ばれる陵墓があります。四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25の陵、5つの灰塚(かいづか:皇室の墳墓で宮内庁が管理するもの)、9つの墓が営まれています。

 深い緑に囲まれて静かにたたずむ泉涌寺は、その名の通り気品漂う「御寺」でした。



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