ー甲斐健の旅日記ー

真如堂/特に女性に人気があった、正真正銘の極楽の寺といわれる寺院

 真如堂(しんにょどう)は、正式名を真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)と称し、京都市左京区にあり、比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院です。山号は鈴聲山(れいしょうざん)といいます。世に極楽寺という名の寺は多いですが、正真正銘の極楽の寺であるという意味でこの名がつけられました。通称の真如堂は、もともと本堂の名であったようです。

 永観2年(984)、比叡山延暦寺の戒算(かいざん)上人が、一条天皇の母、東三条院藤原詮子(せんこ)の離宮に(現在地の北東100mほどのところ)一宇(いちう)を建て、延暦寺常行堂の本尊阿弥陀如来像(慈覚大師作)を移して安置したのが、真如堂の始まりとされます。その後、正暦3年(992)には一条天皇の勅許を得て本堂が創建され、一条天皇の勅願寺として、また不断念仏(特定の日時を決めて、その間、昼夜間断なく念仏を唱えること)の道場として多くの人々の熱い信仰を集めていったといいます。特に、慈覚大師円仁(第3代天台座主)が阿弥陀如来像を完成させたとき、「都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言うと、如来がうなづいたという言い伝えから、多くの女性の帰依(きえ)を受けたといわれます。この故事から、この阿弥陀如来は、「うなずきの弥陀」と呼ばれています。

 天台宗の巨刹として荘厳な伽藍(がらん)を誇った真如堂でしたが、応仁の乱でほとんどの建物を失い、寺地は各地を転々とすることになりました。室町8代将軍足利義政の寄進による旧地への復帰や、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う寺町今出川への移転命令などを経て、元禄6年(1693)に、東山天皇の勅により、ようやく現在地に落ち着くことが出来ました。

 真如堂は、三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいます。また、浄土宗の重要な行事である「お十夜(おじゅうや)」は、ここが発祥といわれています(毎年、11/5~11/15に法要が行われます)。

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 真如堂へは、市バスですと京都駅から 5系統に乗り、「真如堂前」で降ります。バス停の少し北のT字路を左(西)に曲がり道なりに坂を上っていくと、左手に東参道の石段の入り口があります。それを登りきると、真如堂の境内(本堂裏)に着きます。正式に総門から入るには、金戒光明寺の北門を抜け、100mほど歩いたところの右手(東側)に真如堂総門に通じる参道があります。

 総門は、 元禄年間(1688~1704年)に建立されたとされます。赤く塗られているところから「赤門」とも呼ばれています。敷居がないのは、神楽岡の神々が毎夜真如堂に参詣する際につまずかないようにするためだとの言い伝えがあります。

 総門をくぐって、緩やかな石段を登っていくと、正面に本堂(真如堂)が姿を見せます。本堂に向かう途中の右手に、鎌倉地蔵堂と三重塔があります。地蔵堂には、殺生石(せっしょうせき)で造られた地蔵菩薩が安置されています。殺生石のいわれは以下のようなものです。「白面金毛九尾」という、金色の毛と九つの尾をもつ狐が天竺から、殷の時代の中国に渡り、美女に化けて殷の紂王(ちゅうおう)を虜にし、国を滅ぼしたといいます。この狐が、その正体がばれて日本に逃げてきました。日本でも玉藻の前(たまものまえ)という才色兼備の女性に化けて、鳥羽上皇の寵愛を受けます。やがて上皇は病に臥せってしまいます。狐が化けた玉藻の前は上皇の兄をそそのかし、皇室乗っ取りをはかりますが、見破られ那須野に逃げていきます。しかし、上皇が派遣した武者に退治され石になってしまいます。この石には悪霊が取りついていたため殺生石と呼ばれたといいます。室町時代になって、源翁(げんのう)禅師が石を杖でたたき三つに割って悪霊を退散させました。そのうちのひとつの石で造られた地蔵菩薩が、この鎌倉地蔵堂に安置されているというわけです。三重塔は、宝暦年間(1751~1763年)に建立されましたが焼失し、現在見る建物は文化14年(1817)に再建されたものです。本瓦葺(ほんがわらぶき)で高さは30mあります。もともとは四天王像が安置されていたのですが、腐食が激しくなったため、現在は多宝塔が安置されています。

 本堂は、応仁の乱の戦火などで何度か焼失を繰り返し、現在見る建物は、元禄16年(1703)に上棟されたものです。ケヤキ造、単層、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。本尊の阿弥陀如来像が祀られています。また、内陣と内々陣の結界には、観経曼荼羅(かんぎょうまんだら:2014年11月)が祀られていました。天井から畳に届くほどの大きなものです。さらに、室町8代将軍足利義政寄進の油壷や後醍醐天皇より拝領したとされる仏舎利(ぶっしゃり)を見ることが出来ます。足利義政やその妻日野富子は、真如堂に厚く帰依(きえ)していたとされます。仏間正面には、中央に文殊菩薩、両脇に天台大師と伝教大師の木像が安置されています。

 本堂を出て渡り廊下を進むと書院に着きます。書院の仏間には、正面に親鸞上人像、向かって左に阿弥陀如来立像、右に不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)像が祀られています。親鸞聖人は、真如堂の阿弥陀如来をあつく信仰していて、比叡山から六角堂(京にある聖徳太子創建の寺)へ参詣する際には、真如堂を参拝していたといわれます。書院には、二つの庭があります。一つは、「涅槃の庭」です。枯山水(かれさんすい)の庭で、昭和63年に曽根三郎氏によって作庭されました。その教えを広めるために各地をめぐっていた釈迦が、あるとき死期を悟って、生まれ故郷の北インド地方に向かいます。その途中のガンジス川支流の沙羅の林の中で入滅する姿をこの庭は表現しています。向かって左(北)を頭にした釈迦が右脇を下にして横たわり、その回りを弟子や生類たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子が、石によって表現されています。また、白砂はガンジス川を、ヒノキなどは沙羅の林を表しています。もう一つの庭は、「隨縁(ずいえん)の庭」です。平成22年に重森千靑(ちさお)氏によって作庭されました。背後にある仏堂の蟇股(かえるまた)にある「四つ目の家紋」がモチーフとなってデザインされたといいます。「隨縁」とは、その縁によって物事はさまざまに変わっていき違う姿を見せるものだという意味で、この庭も、季節や朝夕の日の当たり方で様々な表情を見せてくれるのだそうです。

 三重塔南に宝形造(ほうぎょうづくり)の県井(あがたい)観音があります。県井とは井戸の名前で、染井、祐井(さちのい)と共に御所三名水の一つです。菅原道真公や明治天皇の皇后の産湯に使われたとも伝えられています。順徳天皇(在位1210~21年)の代、洛中洛外に疫病が流行しました。この時、橘公平が県井の水を飲んで観音様に念じたところ、10日ほどで疫病が治ったといいます。その後井戸に水を汲みに行くと、井戸の中から如意輪観音(にょいりんかんのん)が現れ、「この井戸の水を飲めば、病は癒えるだろう」と告げたといいます。この話を聞いた天皇は、この如意輪観音像を宮中に祀ったといいます。その後この像は、一条東洞院を経て真如堂に移されました。なお、県井は現在も京都御所内にあり、水も湧き出ていますが、硬度が高くとても名水とは言えない状況だそうです。

 県井観音の東に鐘楼があります。元禄年間(1688~1704年)に建立されました。切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。梵鐘は、宝暦9年(1759)造営されました。太平洋戦争中に、軍部から金属品供出の命を受け、一旦軍需工場に引き取られましたが、スズの含有量が少なく割りにくかったので、後回しにされ助かったとのことです。

 本堂の南側には、江戸時代の木食上人(もくじきしょうにん)が造立した(享保4年:1719年)とされる阿弥陀如来露仏があります。木食上人とは、コメなどの五穀を絶ち、木の実を生のままで食べる修行をする僧のことを言います。

 本堂の北東に位置する薬師堂は、伝教大師作といわれる石薬師像を祀っています。この石薬師の由来は平安時代にさかのぼります。平安遷都の時に、大地より蓮華のつぼみのような形をして光沢のある大きな石が出てきました。桓武天皇は、めでたいことの前触れだとして、その霊石で薬師如来をつくらせ祀ったといいます。するとその後、禁中では数々の奇蹟が起こったといいます。時代は下って、正親町(おおぎまち)天皇(在位1557~1585年)が、この石薬師を真如堂に移し、真如堂の僧全海に祀らせました。真如堂の僧たちが、この石薬師の前で護摩行(ごまぎょう)を行っていたため、煙や煤で今は真っ黒な姿になっています。外から覗いても暗闇と同化して、その姿を確認するのが難しい状態です。なお、現在建っているお堂は、昭和41年に、東山五条の金光院より寄進・移転されたものだそうです。

 本堂の北西に元三大師堂(がんざんだいしどう)があります。元禄9年(1696)に建立されました。入母屋造、本瓦葺の建物です。本尊として元三大師良源の画像を祀っています。また、地蔵菩薩、不動明王が安置されています。良源(913~85)は、延暦寺で第18代天台座主を務めた高僧で、火災で荒廃していた延暦寺の復興に貢献し、比叡山中興の祖と呼ばれています。降魔厄除けや富貴栄達の御利益があるとされ、また元三大師良源はおみくじの原形を考えた人としても有名です。なお、元三大師堂の前にある石灯籠は、琵琶湖疏水の難工事の総責任者として貢献した田辺朔郎(さくろう)氏の功績を讃え、地元の人々が贈ったものだそうです(田辺氏の住居は真如堂の門前にありました)。

 元三大師堂の隣に、新長谷寺があります。新長谷寺は、かつて吉田神社の神宮寺でしたが、明治初期の神仏分離令(1868年)により廃仏毀釈の動きが高まりを見せたころに、真如堂に遷されました。新長谷寺の由来は次のようなものです。平安時代、陽成天皇(在位877~884年)の在位中、越前守藤原高房は三歳の子を連れて西国を旅していました。すると、漁師が亀を殺そうとしていたので、高房はこれを助け海に逃がしてあげました。翌日、高房たちは出帆しましたが、海が荒れ狂い三歳の子が海に投げ出されてしまいました。すると、あの亀がその子を助けてくれたのです。高房は信心している長谷観音のご加護であると深く感謝しました。やがてその子が成長し、中納言藤原山陰となります。妻子と共に幸せに暮らしていましたが、妻が病死したため後妻を迎えました。その後妻に子が生まれると、彼女は先妻の子に冷たくなります。そして、山陰が大宰府長官に任じられ九州に向かう船から、その子を海に突き落としてしまいます。ところが、またもやあの亀がその子を助けてくれました。山陰は、自分と我が子を救った大亀は、観音菩薩のご加護であるとして、神楽岡に新長谷寺を建立したということです(何やら、あの有名な昔話に少し似ている気がします)。

 真如堂には、多くの逸話が残されています。それを一つ一つたどりながら往時をしのび、境内を散策するのもいいかもしれません。紅葉も大変きれいです。



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