ー甲斐健の旅日記ー

青蓮院/門跡寺院として、多くの名僧を輩出した青蓮院

 青蓮院(しょうれんいん)には山号はありません。天台宗三門跡(もんぜき)寺院(他は三千院、妙法院)の一つで、粟田(あわた)御所とも呼ばれます。日本の天台宗の祖である最澄が、 比叡山山頂に作った僧侶の住まいの一つ「青蓮坊」がその起源といわれます。平安時代末期に、第12代僧正行玄(ぎょうげん:藤原師実の子)に鳥羽上皇が帰依(きえ)し、 その第七皇子を行玄の弟子としました。そして、現在の地に寺院を移し、名を青蓮院と改めたのが始まりとされます。第一世門主は行玄です。行玄の弟子となった法皇の皇子は、第二世門主となり、さらに天台座主(てんだいざす)にもなり、青蓮院は門跡寺院となりました。その後は、明治に至るまで、門主(もんしゅ)は皇族もしくは五摂家の子弟が継いできました。

 第三代門主の慈円(九条家の祖、藤原兼実の弟)は、四度も天台座主を務め、歴史学者としても秀でていて、「愚管抄(ぐかんしょう)」という名著を著しています。この中で彼は、源頼朝の政治を一定程度評価しており、この書が幕府と朝廷が激突した承久の乱(承久3年:1221年)の直前の完成であったため、幕府と朝廷間の緊張状態の緩和を目的として書かれたともいわれています。また、九歳で出家した親鸞は、青蓮院で慈円のもとで得度(とくど)しています。さらに慈円は、旧仏教に迫害を受けていた 浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞を擁護する立場もとっていたようです。このため、今でも青蓮院は浄土真宗の聖地の一つとなっています。また慈円は、歌人としても秀でていて、「新古今和歌集」に80首を収め、歌集「拾玉集(しゅぎょくしゅう)」を出しています。慈円という人は、既成の概念にとらわれない自由な発想で正しい道(道理)を貫いた人のように思えます。

 第17代門主の尊円法親王(伏見天皇の第6皇子)は、名筆化で青蓮院流という書風を開きました。江戸時代には、この書体が公文書に用いられるようになったといいます。

 天明8年(1788)の天明の大火で内裏が焼失した時は、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となり、庭内の好文亭が御学問所として使用されたということもありました。 青蓮院の建物は、応仁の乱で灰燼と帰し、その後再興されましたが、明治26年(1893)の火災でほとんどが焼亡してしまいました。現在見る建物は、その後再建または他所から移築されたものです。

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 青蓮院へは、地下鉄ですと、東西線東山駅で降りて、三条通りを東に行き、神宮道との交差点を南(右)に曲がって100mほど歩きます。 京都駅から市バスですと、206系統に乗り知恩院前で降り、交差点を東に進むと、T字路に突き当たります。ここを北(左)に曲がって数十mほど行ったところにあります。

 クスノキの巨樹(京都市天然記念物)を右手に見ながら表門をくぐり、玄関に入ります。門跡寺院らしく、お寺というよりも御殿に入ったという感じです。順路に従って進むと華頂殿(かちょうでん)に入ります。華頂殿は客殿(白書院)として使われていたようです。三十六歌仙の額絵がかけられ、 60面の蓮の襖絵は色彩も鮮やかで、華やかさを演出しているかのようです。また、華頂殿から南東に見える庭は、室町時代の相阿弥作庭といわれ、池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園です。龍心池(りゅうしんち)を中心にして、半円形のそりの美しい石橋(跨龍橋:こりゅうのはし)がかかり、 池の中心に配された大石は、あたかも沐浴する龍の背のようであるといわれます。

 華頂殿から先に進むと小御所(こごしょ)があります。もともとは門主の居間でしたが、後桜町上皇が青蓮院を仮御所としたとき 使用された建物といわれます。明治の火災焼失後、江戸中期建立の御所の小御所を移築したもので、入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。

 小御所の近くの渡り廊下に面して、一文字の自然石の手水鉢(ちょうずばち)が置かれています。これは、豊臣秀吉が寄進したものといわれます(「一文字手水鉢」)。3月から4月に咲く紅梅が、手水鉢の水面に映るさまは見事なものだそうです。

 小御所の裏に本堂(熾盛光堂 しじょうこうどう)があります。方三間宝形造(ほうぎょうづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。 青蓮院の本尊である熾盛光如来(しじょうこうにょらい)の曼荼羅(まんだら)が祀られています(通常非公開)。熾盛光如来(しじょうこうにょらい)とは、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊で、仏身の毛孔から熾盛の光明を放ち、一切の災難を除くといわれます。また本堂裏には、青不動画像(複製写真)が安置されています。これは、三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動と並ぶ日本三不動の一つとされています。

 小御所の西側に建つ、ひときわ大きい建物が宸殿(しんでん)です。徳川秀忠の娘で御水尾天皇の女御(にょうご)となった東福門院の御所を移転したとされますが、明治の火災で焼失しその後再建されました。入母屋造、䙁瓦葺の建物です。宸殿は、門跡寺院特有の建物で、重要な法要が行われています。また有縁の天皇や歴代の門主の位牌を祀る堂でもあります。さらにここは、親鸞聖人が第三代門主慈円により得度した場所でもあります。

 玄関のすぐ近くから、庭園内におりることが出来ます。相阿弥の庭を右手に見ながら北へ進むと、小堀遠州作と伝えられる霧島の庭を間近に 見ることが出来ます。五月の連休の頃には、霧島つつじが一面を真っ赤に染めてくれるそうです。霧島の庭からさらに進むと、好文亭があります。今は茶室ですが、御桜町上皇が仮御所としていたときは、御学問所として使われていたそうです。 さらに、庭園出口付近には、親鸞聖人童形像が立っています。

 帰りしなに、表門を入ってすぐ左手にある植髪堂(うえがみどう)をお参りしました。ここには、親鸞聖人得度の際に剃髪した髪の毛が 祀られているといいます。

 天台宗門跡寺院としての地位を守りながら、慈円に代表されるように、新しい政治体制や新しい考え方にも道理をもって接していったこの寺は、格式と新しさとが融合した特異な存在だったのかも知れません。


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