ー甲斐健の旅日記ー

天龍寺/二人の権力者の思いが交錯する寺院

 天龍寺は、正式名を霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざん てんりゅうしせいぜんじ)といい、臨済宗天龍寺派の大本山です。 暦応2年(1339)に、足利尊氏が、彼が帰依していた禅僧夢窓疎石のすすめにより、後醍醐天皇の菩提を弔うために創建しました。開基が尊氏、 開山が夢窓疎石(むそうそせき)です。

 この地は、もともとは嵯峨天皇の皇后が建てた壇林寺の跡地で、その後御嵯峨上皇が仙洞御所(せんとうごしょ)を造営し、 亀山天皇が仮御所を営んでいました。亀山天皇の孫にあたる後醍醐天皇も、幼少時代にここで修学した場所でもあります。このゆかりの地に、光厳上皇の院宣(いんぜん)を得て夢窓疎石は寺の建築を始めました。尊氏や光厳上皇から荘園の寄進を受けましたが、資金はまだ十分ではありませんでした。 そこで疎石は、尊氏の弟の直義と計って、元寇(げんこう)以来途絶えていた元との貿易を再開させます。そして、それによる利益を博多商人から前借する形で造営費用を捻出しました。この時、元に渡った交易船が、「天龍寺船」と呼ばれました。この疎石の尽力により、貞和元年(1345)の後醍醐天皇七周忌の年に、天龍寺は完成します。そして、室町三代将軍足利義満の時代には、京都五山の第一位と評価され、隆盛をきわめます。

 ところで、足利尊氏と後醍醐天皇の関係は複雑なものでした。後醍醐天皇が鎌倉幕府を討幕して天皇中心の政治に戻そうと動いたとき、 鎌倉幕府の有力な御家人であった尊氏は、最終的に後醍醐天皇に味方して、楠木正成や新田義貞と共に討幕のために戦いました。このことが、後醍醐天皇の最大の勝因といわれます。この功績で尊氏は従四位下(じゅしいのげ)の位を得て鎮守府将軍となりました、尊氏の「尊」は、 この時後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治」から一字いただいたものだといわれます。これだけ強い主従関係で結ばれていた二人ですが、やがて敵対することになります。

 後醍醐天皇の理想は、天皇中心の中央集権国家の復活でした。そのために、まず現在の土地の所有権をご破算にして、新しく 天皇が出す綸旨(りんじ)によって土地所有権を分配するとしたのです。これには、今まで命懸けで土地を獲得・維持してきた武士階級からの猛反発がありました。 また、公家衆に対しては、家格によって官職が決まり、しかもそれが世襲となっている悪習を改め、実力本位の人事制度に改めようと考えました。しかしこれも、公家衆からの猛反発にあいます。改革を急ぎすぎたのでしょうか、結局後醍醐天皇の求心力は低下していきます。ここで、土地所有の権利を守るため、武士階級が立ち上がります。確かに、鎌倉幕府は制度疲労を起こして滅亡しましたが、武士による新しい幕府の創設を熱望する声が強まってきます。足利家は、八幡太郎義家(源義家)の四男義国の末裔ですから、源氏の嫡流です。尊氏を棟梁として、後醍醐天皇から政権を奪いとるという機運が高まってきました。尊氏は大いに悩んだといわれます。天子に弓を向けるなど、考えもしなかったのでしょう。しかし、弟の直義らの説得もあり、ついに決意します。尊氏は後醍醐政権を倒すべく、京へ攻め込みます。一時敗退して、九州に逃げ込みますが、また勢力を盛り返し、楠木正成や新田義貞らを打ち破り、京を征圧しました。そして、征夷大将軍となり室町幕府を起こしました。後醍醐天皇はかろうじて脱出し、吉野に逃れましたがその翌年、暦応2年(1339)年8月、52歳で亡くなりました。この時、後醍醐天皇が築いた吉野の南朝と、京で尊氏が擁立した北朝(光明天皇)とに朝廷が分裂し、足利義満の時代の明徳3年(1392)に統一されるまで、皇室が南北に分裂するという不幸な時代が始まったのでした。尊氏が、後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺の創建を決意したのは、後醍醐天皇が亡くなった年の10月のことでした。

 さて、天龍寺はその後八度の火災に遭遇しました。そのたびに焼亡、再興を繰り返しています。最後の火災は、江戸末期の元治元年(1864)に起きた蛤御門(はまぐりごもん)の変の戦火によるものでした。この時上洛した長州勢は、一時天龍寺に宿営していました。これに対して、薩摩軍の村田新八が大砲を放って攻撃したため、 天龍寺は灰燼に帰したといわれます。現在見る建物は、その時以降に再建または他所から移築されたものです。

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 天龍寺へは、京福電鉄嵐山線に乗って嵐山駅で降りるのが便利だと思います。

 総門をくぐって長い参道を歩いていくと左手に法堂(はっとう)が見えます。明治33年(1900)に、雲居庵禅堂(江戸時代後期建立)を移築したものといわれます。 単層、寄棟造(よせむねづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。内部の鏡天井には、加山又造筆の雲龍図が描かれています(平成9年作)。 法堂は、僧侶が仏教の教えを講義したり公式の法要が行われる場所ですが、古来、龍は仏法を保護する瑞獣(ずいじゅう)といわれ、禅宗の法堂の 天井にはよく描かれています。また龍は「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられてきました。正面須弥壇(しゅみだん)には天龍寺本尊の釈迦三尊像が安置され、後の壇には光厳上皇(北朝最初に即位した天皇)の位牌と歴代住持の位牌および開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像が 祀られています。この法堂は、仏殿も兼ねているようです。なお、法堂の公開日は、土、日、祝日及び春と秋の特別公開日です。

 法堂を出て石段を登っていくと、庫裏(くり)の入り口が見えてきます。ここから、諸堂の内部に入ることが出来ます。この庫裏 は明治32年(1899)に建立されました。切妻造(きりつまづくり)で、台所兼寺務所として使われています。玄関を入ると、いきなり達磨図 の衝立が迎えてくれます。前管長である平田精耕老師の筆だそうです。   

 庫裏から方丈に入ります。方丈は、大方丈と小方丈(書院)とからなります。大方丈は明治32年(1899)、小方丈は大正13年(1924)の建立です。 大方丈の東側には、白砂の庭を通して中門(ちゅうもん)が見えます。また西側には、曹源池(そうげんち)を中心に配した池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園 が広がっています。この庭は、夢窓疎石が作庭したものといわれます。曹源池中央に配置された三段の石組は龍門の滝と呼ばれています。 鯉が滝登りの難関を突破すれば龍に変身できるという「登竜門」の故事にちなんだものといわれます。鯉魚石(りぎょせき)が滝の流れの横に置かれ、まさに龍に変身する直前の姿を現しているのだそうです。大方丈の奥の小方丈は、書院として使われていて、来客や接待や様々な行事、 法要などに使用されているそうです。

 方丈から長い渡り廊下を渡っていくと、後醍醐天皇の尊像を祀る多宝殿があります。昭和9年(1934)に建立された建物です。 後醍醐天皇の像を祀る祠堂と、その前に拝堂がつくられています。また拝堂には、正面に1間の階段付き向拝(こうはい)が設けられています。

 一旦庫裏に戻って、その脇にある庭園入口から、境内を散策できます。方丈の周りをぐるりと回って、曹源池庭園を間近に見て、多宝殿の脇を通り百花苑という苑路から北門に抜ける散策コースです。この中で二か所、面白い見どころを紹介します。

 一つ目は、髙さ2mの巨大硯石の記念碑です。法堂の鏡天井に現在の雲龍図が描かれる以前には、鈴木松年画伯が描いた龍の絵がありました。 その彼が、この龍を描くときに使ったのがこの巨大硯石であったといわれます。60余人の修行僧が刷り上げた墨を使って、一気に勇壮な雲龍図を描き上げたといわれています。書画が上達するご利益があるそうです。

 二つ目は、平和観音です。平和観音像の側には、それを守るとされるカエルの像が寄り添っています。観音像の前の湧水は、地下80mの深さから湧き出る霊泉で、これを口に含むと愛と幸せを手にすることが出来るといわれます(愛の泉)。

 尊氏はどのような思いで、後醍醐天皇の菩提を弔ったのでしょうか。天子に刃を向けたことに対して、許しを乞う気持ちだったのでしょうか、 それとも、共に天下を競って争った好敵手として大切に弔いたいと思ったのでしょうか、あるいは、後醍醐天皇の無念の思いが怨霊となって現れるのを恐れたからでしょうか、いずれにせと、後醍醐天皇の菩提は現代にいたるまで多くの人々に弔われてきました。



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