ー甲斐健の旅日記ー

聖徳太子は本当に実在したのか?!

 日本人の誰もが知っている聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのおうじ)は、西暦574年に用明天皇(在位585~587年)の第二皇子として生まれ、推古天皇の時代に皇太子(摂政)となり、冠位十二階や十七条の憲法の制定など、古代日本の国家の基礎をつくった優れた政治家として知られています。その肖像画は、戦前には百円札、戦後には千円札、五千円札、一万円札の肖像として採用されていました。日本人の心の奥にしっかりと根付いていた「和」の心と、海外から伝わった新しい宗教である仏教の教えをもとにして、古い制度を打ち破り、改革を推し進めていった「聖人」として、現在も多くの人に尊敬される存在だと思います。しかし近年、日本の古代史の正史とされる『日本書紀』での聖徳太子の活躍があまりにも「神がかって」いることもあり、その実在性に疑問を投げかける議論があります。また、聖人としての聖徳太子の存在をことさら強調することにより「事実」を隠蔽し、自己の都合の良いように歴史を改ざんしようとした権力者(藤原氏一族)の意図が垣間見えるという指摘もあります。本当はどうなのでしょうか。ちょっと荷が重いテーマですが、考えてみたいと思います。

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 『日本書紀』が語る聖徳太子のエピソードは、常識をはるかに超えた尋常ならざるものがあります。いくつか例を挙げてみます。 ①聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は、出産予定日に宮中の役所を見て回っていた時、たまたま馬屋の戸に当たり、その拍子に聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのみこ)を産み落としたという。まるでキリスト生誕のエピソードのようだ。 ② 聖徳太子は生まれてすぐに言葉を発した。さらに、幼少のころ、一度に十人の言葉を聞いてもすべて理解したという。 ③聖徳太子が2歳の時に東方に向かって合掌すると、掌中から仏舎利(ぶっしゃり)が出現した。 ④予知能力があった。片岡という地に遊行したとき、行き倒れになっていたものを「賢人」と見抜いた。 ⑤ 用明2年(587)、大叔父の蘇我馬子と物部守屋が戦った時、聖徳太子は14歳で参戦した。苦戦する蘇我軍にあって、聖徳太子は霊木(白膠木:ぬるで)を取り出して四天王像を彫り、髪をたぐりあげて「もし我をして敵に勝しめたまわば、かならず護世四王のために寺を興こしましょう」という誓願をした。すると、味方の矢が敵将の物部守屋に命中し、物部勢は総崩れとなり、蘇我勢が勝利したという。 ⑥推古30年(622)2月、聖徳太子がなくなると、人々は嘆き悲しみ、老人は愛しい子を失ったように悲しみ、塩や酢の味が分からなくなった。幼子は父母を失ったように悲しみ、その声は巷に溢れ、畑を耕す男は鉏(すき)の手を止め、コメを衝く女は杵の音をさせなくなった。太陽や月は輝きを失い、天と地が崩れたようになってしまった。

 という具合です。『日本書紀』の記述の中で、聖徳太子だけが特別に「神のような存在」として礼賛されているのは、極めて異常な姿のようにも感じられます。その陰には、何か別の思惑が働いていたのではないかと勘繰りたくなるくらいです。

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 推古天皇(在位593~628年)の皇太子時代に、聖徳太子が行ったとされる(『日本書紀』の記述による)施策は、旧来の制度を否定し、新しい国家制度(律令国家体制)を構築するための基盤となったものだといわれます。推古12年(603)に制定された冠位十二階は、当時確立されていた氏姓制度を根底から覆すものでした。当時、豪族たちの集団である氏には土地や民の私有が認められ、朝廷から与えられた特権的地位は世襲が認められていました。冠位十二階制はこれを否定し、個人の才能や功績、忠誠度に応じて官位を授ける仕組みでした(蘇我氏や王族、地方豪族などは対象外という不完全なものではありましたが・・・)。翌年制定された十七条の憲法は、諸豪族に対する服務規程や道徳的訓戒のようなものでした。第一条では有名な「和を以て貴しとなし・・・」と、根本理念を説き、第二条「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」、第三条「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め」 と続きます。ここで特筆すべきは、「天皇の命令に必ず従え」という第三条よりも先に、第二条で「仏の教えを敬え」と書かれていることです。仏の教えをこの国の究極の規範とするという、国造りの基本理念が示されているといえます。

 さらに推古朝において、4度の遣隋使派遣が実施されました。推古8年(600)の第一次では、隋の高官のみならず朝鮮三国の使者たちまでもが、自分たちよりもはるかに文明化していることに衝撃を受けたといいます。このことが、のちの様々な改革のきっかけになったともいわれます。推古15年(607)の第二次遣隋使では、小野妹子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という国書を持参し、隋の煬帝(ようだい)を怒らせたとされます。ヤマト政権としては、中国皇帝からの冊封(さくほう:大和国の統治者として認められる代わりに中国皇帝と君臣関係になること)は求めず、独立した君主をいただくことにより、「東夷の小帝国」を目指したと考えられています。推古16年(608)の第三次遣隋使には、僧・旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)らの留学生や修行僧が参加しました。彼らは、隋・唐の先進知識を学ぶととともに、隋の滅亡と唐の成立を間近で見て帰国しました。この人々が、のちの「大化の改新」の理論的指導者となり、律令国家体制の構築に多大な貢献をしたとされます。

 さて、『日本書紀』によれば、このような改革は、すべて聖徳太子の主導で行われたことになっています。しかし、推古朝で大臣(朝廷の最高位の官職)として君臨していたのは、蘇我本宗家の蘇我馬子でした。蘇我氏は、一族の娘を天皇の后に送りこみ、その子を天皇に即位させることによって圧倒的な権力を握っていました。聖徳太子の父である用明天皇は馬子の甥、推古天皇は馬子の姪にあたります。しかも、馬子が大臣になったのは敏達天皇元年(572年)といわれ、在職経験も20年以上ありました。いかに聖徳太子が天才的な才能を発揮していたとしても、大叔父の馬子を無視して勝手に政策を実行することはできなかったのではないでしょうか。いやむしろ、これらの改革は馬子の発案によるもので、聖徳太子は皇太子として忠実にそれを実行していったと考えるほうが自然のように思えます。作家松本清張氏は、その著書『清張通史4 天皇と豪族』の中で、次のように述べています。

「厩戸皇子(聖徳太子のこと:筆者注)にとって馬子は祖母の弟であり、男である。皇子が皇太子となり『摂政』となったときは、すでに馬子は実務派の大物大臣として二十一年間も在職をつづけ、ときに五十歳をこえてぃたと思われる。この、がんじがらめの縁故。馬子のこのキャリア。この貫禄の相違。年齢の差――太子は馬子の前に手も足も出ず、萎縮してぃたであろう。」

 やはり、推古朝での様々な改革は、馬子が行ったものと考えるべきと思われます。とすれば、『日本書紀』が、馬子(蘇我本宗家)の手柄を聖徳太子に「横取り」させたんのはなぜなのでしょうか。ここにも、見えざる誰かの意図が感じられます。

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 『日本書紀』によれば、皇極天皇(在位642~645年)の御代になると、蘇我本宗家の「横暴ぶり」が目立つようになります。馬子の子・蝦夷(えみし)は、葛城の地に祖廟(祖先を祀る社)を造営したとき、臣下に八佾(はちいつ)の舞を舞わせました。この八佾の舞は、中国では皇帝のみが特権的に許可するもので、蝦夷がこれを舞わせたということは、自らを王家と同格と宣言したことになり、不敬にあたるというのです。また蝦夷とその子入鹿は、自らの寿墓(寿墓:生前に造る墓)を造営しましたが、その墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせ、国中の民だけではなく上宮王家(聖徳太子の子孫)に仕える人々をも徴用し使役させたといいます。これも王家をないがしろにする行為と批判しています。そして極めつけは、上宮王家襲撃事件です。皇極2年(643)11月、父・蝦夷の跡を継いだ入鹿は、巨勢徳陀(こせのとくだ)らを派遣して、斑鳩宮の山背大兄王(やましろの おおえのおう:聖徳太子の子)とその一族を襲わせました。山背大兄王とその一族はいったん生駒山に逃げましたが、斑鳩寺(法隆寺)に戻ったところを、入鹿が派遣した兵に囲まれ、一族そろって首をくくって自害して果ててしまいました。この事実を知った蝦夷は、「ああ、入鹿は、はなはだ愚かなことをしてくれた。お前の命も危ないのではないか」と嘆いたといいます。『日本書紀』によれば、古代日本の礎を造った聖人・聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族をことごとく殺してしまった蘇我入鹿は、王家滅ぼし、自らそれにとって代わろうとする、とんでもない大悪党ということになります。まさに、蘇我氏の「専横」ぶりが、これでもかこれでもかと書き連ねられていきます。

 しかし、これらの記事は事実であったかどうか疑わしい面もあります。特に上宮王家襲撃事件に関しては、『日本書紀』は入鹿の単独犯行だと断言していますが、他の文献などを見ると、のちに孝徳天皇として即位した軽皇子はじめ多くの有力豪族たちが入鹿とともに戦ったという証言もあります。この事件は、入鹿が単独で行った暴挙とみるよりも、中央政府内の主導権争いだったという見方もできます(詳細は、コラム1『飛鳥の地に繁栄を築いた蘇我氏は、本当に極悪人だったのか』を参照してください)。

 蘇我入鹿は、皇極4年(645)6月、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、中大兄皇子(のちの天智天皇)によって暗殺されました(乙巳の変:いっしのへん)。直後に蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅亡しました。その後、聖徳太子の「改革」を引き継いだのは、中大兄皇子とその協力者中臣鎌足(藤原氏の祖)でした。この改革は「大化の改新」と呼ばれ、古代日本の国のかたちを造り上げるという極めて革新的なものでした。彼らは、「日本の礎」を作り上げた「英雄」として、現在も語り継がれています・・・・・・実は、これが『日本書紀』の編者の狙いだったのです。

 『日本書紀』の編纂は、天武天皇(在位673~686年)の命により、天武政権の正統性を明らかにするために始められたといわれますが、完成したのは天武天皇の死後30年以上たった養老4年(720)でした。この編纂にあたっては、持統天皇(在位690~697)の時代に頭角を現し政治の表舞台に登場した藤原不比等(ふひと:中臣鎌足の子)が関与しているという説があります。とすれば・・・・・。蘇我本宗家の「専横ぶり」をことさらに強調し、天皇家を乗っ取ろうとした「大悪人」・蘇我入鹿が中臣鎌足らによって成敗されたという『日本書紀』の記述には、不比等の意志が働いていた可能性があります。蘇我馬子の手柄を「大聖人」聖徳太子の手柄にすり替え、「悪党集団」である蘇我本宗家を滅亡させた父・中臣鎌足を「英雄」にまつり上げることによって、藤原氏の権威を高めようとしたのかもしれません。

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 父・中臣鎌足を「英雄」にまつりあげるためには、蘇我本宗家は「改革」に消極的な「抵抗勢力」であったほうが都合がよいと不比等は考えたのではないでしょうか。それ故、馬子が行った制度改革は、じつは「神のような大聖人」聖徳太子が、その「人間離れをした能力」で実行していったと主張したのです。その太子の実行力には、さすがの馬子も従うしかなかった・・・・ということでしょうか。このことを本当らしく見せるために、「神ががった」太子のエピソードをあちこちにちりばめていたのではないでしょうか。これらの記事が不比等の創作だったとしたら・・・・、私たちが思い描いているような「聖徳太子」は実在していなかったということになります。もちろん、用明天皇の第二皇子は存在していたし、その名も「厩戸皇子」であったかもしれません。しかし、彼は「神のような大聖人」ではなく、ごく普通の皇子だったのです。

 それにしても、一族(藤原一族)の権威を高め、権力者の地位を守るために「大悪党」にされた蘇我本宗家一族の人々は気の毒でした。私自身も、つい最近まで蘇我本宗家の人々(特に入鹿)はなんて「悪い奴ら」だろうと思っていました。しかし、今は違います。『日本書紀』の記事が改ざんであることを証明することは難しいかもしれませんが、少なくともその可能性がある以上、蘇我本宗家の人々の魂が安らかにあることを願いたいと思います。1300年以上もの長きにわたって「極悪人」として日本人に蔑まれてきた蘇我本宗家の人々のことを思うと、権力者による歴史の「改竄」がいかに罪深いことかを改めて感じさせてくれます。

――なお、聖徳太子実在説、非実在説の間の論争は現在も活発で、結論は出ていません。

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この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 宇治谷孟訳『日本書紀』(講談社学術文庫)
  • 門脇禎二著『蘇我蝦夷・入鹿』(吉川弘文館)
  • 関裕二著『「入鹿と鎌足」謎と真説』(学研M文庫)
  • 松本清張著『清張通史4 天皇と豪族』(講談社文庫)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史2 古代怨霊編』第一章聖徳太子編(小学館文庫)
  • 関裕二著『古代史 9つの謎を掘り起こす』第六の謎聖徳太子の謎(PHP文庫)
  • 梅原猛著『隠された十字架』(新潮文庫)


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