ー甲斐健の旅日記ー

萩・浜崎/萩の町人地の面影を現在も色濃く残している町

 萩市街地のほとんどは、山口県内を流れる阿武川が、松本川(東側)と橋本川(西側)とに分かれて日本海に流れ出る際に形成された三角州の上にあります。その三角州の北東端にある町人地が浜崎地区です。この地域は港町として、江戸時代には北前船の荷揚げ港や魚の水揚げ港として栄えていました。現在も、南北にのびる浜崎本町筋には、伝統的な町屋や土蔵などが軒を並べています。平成13年(2001)には、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区:全国で60番目)に選定され、町並みの保存がはかられています。特に本町筋には電柱が一本もなく、江戸時代から明治にかけて漁業、水産加工業が盛んだった当時の面影を残しています。

 今回は、まず吉田松陰が黒船による密航未遂の罪で収監された野山獄跡を見て、さらに吉田家の菩提寺である泉福寺を訪ね、その後浜崎本町筋を散策することにします。出発点の野山獄跡へは萩循環まぁーるバス(東回り)に乗って、「野山獄跡入り口」で下車します。

このページの先頭に戻ります

 「野山獄跡入り口」のバス停がある交差点を南に少し歩くと、右手(西)に野山獄跡、左手(東)に岩倉獄跡があります。いずれも建物は残っておらず、石碑などが建てられているだけですが、幕末には吉田松陰のみならず高杉晋作や楫取素彦(かとりもとひこ)、そして多くの尊王攘夷派の志士が収監された場所です。また、俗論派(保守派)として有名な坪井九右衛門、椋梨藤太(むくなしとうた)らが処刑された場所でもあります。嘉永7年(1854)、ペリーが日本との条約締結を目指して再来航すると、吉田松陰は、師であった佐久間象山の薦めもあり海外密航を企てます。同郷の金子重之輔と共に、小舟に乗って旗艦のポーツマス号に近づき、密航の手助けをしてくれるよう懇願しました。しかし、これは拒否されたため、松陰らは下田奉行所に自首しました。その後、本国に送り返され、野山獄に収監されたのです(同年10月)。松陰は、翌年12月に野山獄を出て、松本村の自宅に蟄居となるのですが、この1年ちょっとの間でも、仲間の囚人たちに孟子の講義をしたり、また自らも俳諧や書を仲間から学ぶという囚人生活をしていました。。

 野山獄は士分の者を収容する獄(上牢)であったのに対し、岩倉獄は、身分の低いものや庶民を収容する獄(下牢)でした。松陰と共に捕まった金子重之輔は足軽であったため、この岩倉獄に収監されました。獄内は劣悪な環境だったといわれ、金子は獄中で病死してしまいました。岩倉獄跡には、重之輔絶命の碑(向かって右)と松陰が重之輔に与えた詩碑(向かって左)が建っています。

 ところで、野山獄と岩倉獄が出来た経緯は次のようなものでした。正保2年(1645)、大組藩士・岩倉孫兵衛(200石取り)が、道路を挟んだ向かいの野山六右衛門(大組藩士;200石取り)の屋敷に斬りこみ家族を殺傷してしまいました。岩倉が酒に酔った勢いでの狼藉だったとされます。岩倉は斬首の刑に処されましたが、けんか両成敗と裁定され、野山家もお取り潰しとなりました。この両家跡にできたのが、野山獄、岩倉獄です。

 「野山獄跡入り口」バス停の交差点から西へ1ブロック歩いて右に曲がると、浜崎本町筋に通じる道に入ります。この道を少し歩いた左手に、吉田家の菩提寺である泉福寺があります。泉福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は潮音山(ちょうおんざん)といいます。開基は玄修というお坊さんです。玄修は、広島の高田にある毛利家ゆかりの寺・高林坊の第四世・西願の三男で、毛利輝元が関ヶ原で敗れて萩に移封されたときに、輝元のお供をして萩に入ったといいます。なお、この寺の第十世・大敬(たいきょう)の甥に月性(げっしょう)という勤皇僧がいます。月性は久坂玄端(くさかげんずい)の兄玄機の友人で、玄端に吉田松陰のもとで学ぶよう勧めた一人だといわれます。泉福寺の創建は慶長18年(1613)で、初めは橋本町(萩市南部橋本川沿い)に建てられましたが、度重なる洪水の被害に見舞われたため、正保元年(1644)に現在地に移りました。道沿いにある門をくぐると、本堂が正面に見えます。本尊は阿弥陀如来で、創建当時のものだそうです。また本堂左手奥の位牌堂には、吉田松陰の位牌(レプリカ)が祀られています。本物は、毎年5月に開催される「浜崎伝建おたから博物館」の時に公開されるそうです。本堂を入って右手には、吉田家の家系図と、ゆかりの人々の写真が展示されています。松陰の妹の文(ふみ)の写真もありました。

 泉福寺を出て北に進み、左に住吉神社を見てさらに進むと、右手に白壁となまこ壁のコントラストが美しい旧山村家住宅があります。2棟の母屋、2棟の土蔵、離屋からなり、江戸時代後期の建築です。他の多くの旧住宅と同様に二階の天井が低い厨子二階(つしにかい)の造りになっています。当時は、町人が武士を見下ろす子事がないように、本格的な二階建ての建物が建てられることはなかったようです。従って、二階部分は倉庫や使用人の居住スペースなどに使われたそうです。また山村家の建築様式は、表屋造り(おもてやづくり)といい、道路に面した部分に店舗、その奥に居住用の建物を別々の棟として建て、両棟の間に玄関庭を設けるというものです。京都や大阪ではよく見かける様式ですが、この地方では珍しい様式だそうです。山村家では施設内を見学でき、浜崎地区の旧家に伝わる品々や資料が展示されています。

 旧山村家住宅の手前の道を東に入ると、旧萩藩御船倉(おふなぐら)があります。この建物は、旧藩主の御座船や軍船を格納した施設です。慶長13年(1608)の萩築城後まもなく建てられたといわれます。もともと4棟あったそうですが、その中の1棟が現存しています。当時は、松本川がこの近くを流れており、その川から自由に出入りが出来たといいます。建物の奥行きは27m、間口は8.8mで、両側と奥の壁は玄武岩で築き、屋根は入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、前面に木製の扉があります。御船倉は通常入り口が施錠されていますが、旧山村家住宅の説明の方に声をかけると、鍵を開けておまけに建物の説明までしてくれます(説明員がいらっしゃれば・・・)。

 旧山村家住宅の先にも、伝統的な旧家が多く立ち並んでいます。以下に代表的なものを挙げます。

池部家・・・建築は明治中期。現当主が三代目で蒲鉾製造を営んでいました。もともとは切妻造(きりつまづくり)平入りの建物でしたが、昭和5年ごろの道路拡張に伴い道路側2間が切り取られ、表構えが斜めになった現在の姿になったそうです。

斉藤家・・・安政2年(1856)上棟。斉藤家は、魚仲買を営んでいました。建物は切妻造で厨子二階建です。二階外壁は真壁造(しんかべづくり:柱を表面に露出させ、柱と柱の間に壁を納める方式)で、手すりを設けて連窓になっています。一階は格子戸となっています。

藤井家・・・西棟と東棟が並んで建っています。いずれも切妻造・厨子二階建ての建物で、西棟は1820年代に、東棟は1850年代に建築されました。一階に、はね上げの蔀戸(しとみど)が施されています。藤井家は海産物問屋で、かつてはこの蔀戸を開けて、そこに商品を並べて商売をしていました。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image