ー甲斐健の旅日記ー

萩・城下町/幕末に活躍した志士たち・ゆかりの地

 萩城の三の丸(堀内)を囲む外堀の東側が城下町です。道路は碁盤目状で、豪商や萩藩士が住んでいました。特に、中の総門(現在の萩博物館駐車場あたり)から東に延びる御成道(おなりみち)は、藩主が参勤交代の時に通った表通りでした。その御成道から南に向かって三本の小路がありました。それぞれ、北の角にあった豪商の名前が付けられています。西から、菊屋横町、伊勢屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれています。この界隈に、幕末に活躍した志士たちのゆかりの地が数多くあり、人気の観光スポットとなっています。今回は、萩循環まぁーるバス(西回り)「萩博物館前」バス停で下車し、御成道から菊屋横町、伊勢屋横丁、江戸屋横町の順に回ることにします。

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 「萩博物館前」バス停から御成道を東に進み、菊屋横町とのT字路の左手に「旧久保田家住宅」があります。久保田家は、初代が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を営んでいました。二代目の代になると酒造業に商売替えして、明治30年代まで営業していたそうです。住宅は、主屋、離れ、土蔵で構成されています。主屋は切妻造(きりつまづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)で、二階の天井が低い厨子二階(つしにかい)の造りになっています。当時は、町人が武士を見下ろす子事がないように、本格的な二階建てが建てられることはなかったようです。従って、二階部分は倉庫や使用人の居住スペースなどに使われたそうです。建物の中は、大黒柱を中心に、極太の鴨居が縦横に組んであり、大変堅固な造りになっています。当時のままの台所、隠し階段をカモフラージュするための障子戸、外からは見えにくく中から外がよく見えるように断面を台形状にした格子窓など、興味深く見学させてもらいました。

 旧久保田家住宅の向かいにあるのが「菊屋家住宅」です。菊屋家は、大内氏の時に代は武士でしたが、慶長9年(1604)毛利輝元が萩に入った時に、有力町人として山口から萩に移り住み、城下の町づくりに尽力しました。その功もあって、代々大年寄格に任命され、藩の御用達を勤めるようになりました。その屋敷は、大名を監察する幕府の巡見使(じゅんけんし)の本陣として使われることもしばしばだったといいます。菊屋家住宅は、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟からなります。主屋は切妻造・桟瓦葺(さんがわらぶき)で、現在の建物は17世紀中ごろの建築と考えられています。また、本蔵、金蔵等は18~19世紀頃に建てられたといいます。建物の中には、美術品、民具、古書類が多数展示されており、当時の御用商人の暮らしぶりを偲ぶことができます。なお、毛利家が減封されて萩に移り、中・下級武士の住居不足に困っていたとき、当時「阿古の浜」と呼ばれていた菊屋家の私有地に、藩士や足軽のための仮設住宅を建てて住まわせたことが評価され、その後この浜は「菊が浜」と呼ばれるようになり現在に至っているそうです。

 菊屋家住宅から菊屋横丁を南下します。白壁となまこ壁のコントラストが美しいこの横町は、「日本の道百選」の一つに選ばれています。少し歩くと、右手に第26代総理大臣だった田中義一の誕生地があります。文久3年(1863)、田中義一は藩主の「かごかき」だった田中家の三男として生まれました。明治9年(1876)に前原一誠らが起こした、萩の乱(明治政府に対する士族の反乱)に義一も13歳で参加しています。その後、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、大正7年(1918)に原内閣で陸軍大臣となり、陸軍大将に昇格しました。その後政界へ転身をはかり、大正14年(1925)に政友会総裁となり、昭和2年(1927)第26代内閣総理大臣に就任しました。しかし、総理任期中に、満州事変の原因の一つとされる、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件が起き、田中は昭和天皇の不興を買ったとして内閣総辞職に追い込まれました(昭和4年;1929年)。そして退任の3ヶ月後、狭心症の発作で帰らぬ人となりました。享年66歳でした。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えることになりました。

 菊屋横町をさらに南下すると、右手に「高杉晋作誕生地」があります。高杉晋作は、天保10年(1839)に長州藩大組士・高杉子忠太の長男として生まれました。禄高200石で、比較的裕福な家だったようです。藩校明倫館に通っていましたが、安政4年(1857)19歳の時に久坂玄端のすすめで松下村塾に入門し、吉田松陰と運命的な出会いを果たします。やがて、松陰の教えにより生きた学問に目覚めた晋作は、玄端、吉田敏麿、入江九一と共に「松門の四天王」と呼ばれるようになりました。文久2年(1862)、藩命により幕府使節随行員として清国(現上海)に渡りました。ここで晋作は、欧米の植民地となりつつあった清国の実情を見て、「日本も危ない!」という危機感を抱いたといいます。この渡航が、晋作の人生にとって大きな転機となったことは否定できないでしょう。翌文久3年(1863)5月、長州藩は攘夷を実践するために、馬関海峡(関門海峡)において外国船への砲撃を行いました。しかし翌月には、英仏の艦隊に砲撃され壊滅的被害を受けました(下関事件)。下関の防衛を任せられた晋作は、士分だけではなく、農民や町民でも志願すれば入隊できる奇兵隊を結成して、軍事力の強化を図りました。国内では、同年8月の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が京都から追い出されるという事件が起きました。晋作は、この情勢を見極めようと翌年1月脱藩して京都へ潜伏します。その後帰藩しましたが、脱藩の罪で一時期野山獄に投獄されています(4か月ほど)。

 幕府による長州藩(尊皇攘夷派)への締め付けはさらに厳しくなっていきます。文久4年(1864)7月、京都を追放されていた長州藩士たちが、会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)の排除を叫んで挙兵しました。京都市中において、大規模な市街戦が繰り広げられましたが、薩摩藩の応援を受けた会津・桑名連合軍の力が勝り、長州軍は惨敗しました。この戦いで敗れた久坂玄端は、責任をとって自害しました。この事件により、長州は「朝敵」とみなされ、幕府による長州征討の口実となりました。一方、同年8月には英、仏、米、蘭の四カ国連合艦隊が馬関海峡にやってきて下関砲台を砲撃・占拠する事件が起きました。長州藩が行っていた海峡封鎖に対する報復でした(四国艦隊下関砲撃事件)。この時晋作は、脱藩の罪を赦免されて、和議交渉を任されました(晋作26歳)。また、通訳を担当したのが伊藤俊輔(博文)でした。晋作は、連合国からの要求はほとんど受け入れましたが、ただ一点、彦島の租借だけは頑として拒否したといいます。「領土の期限付き租借」は日本の植民地化につながるという危機感が背景にあったといわれます。晋作は、日本の植民地化を水際で防いだ功労者だったのかもしれません。

 幕府の長州征討が迫る中、長州藩では幕府への恭順を主張する勢力が台頭します。俗論派と呼ばれる椋梨(むくなし)藤太らです。これに対して、一旦福岡に逃れた晋作は、同年12月に下関に戻り、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺(下関市)で決起しました。さらに晋作がかつて率いていた奇兵隊も加わり、俗論派を圧倒しました。そして、翌元治2年(1865)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩政の実権を握ったのです。しかしその後、晋作は肺結核を発症し、下関(現:東行庵)に隠居しました。そして、慶応3年(1867)4月,明治維新の実現をその目で見ることなく亡くなりました。享年29歳でした。

 旧宅の敷地は、幕末のころ(約50坪)に比べると半分程度に縮小されているそうです。建物内に入ることが出来、6畳床の間付の座敷、6畳の次の間、6畳と4畳半の居間および玄関に、晋作の写真や書などが展示されています。裏庭には、晋作の産湯に使われたという井戸が残っています。また、晋作が自らを「東行」と号した際に詠じた

  西へ行く人をしたひて東行く 心の底ぞ神や知るらむ

という歌を刻む石碑が建っています。「藩の重臣たち(西へ行く人)は、自分の考え(東行く)を全く理解してくれない。それでも自分は、信念に従って突き進んでいくだろう。その心は、神がわかってくれるだろう。」という高杉の孤独な心境を詠んだ歌です。

 菊屋横町の南端に小さな広場(晋作広場)があり、「高杉晋作立志像(銅像)」が建っています。平成22年(2010)に建立されました。銅像の高さは1.8mで、両刀を差した羽織袴の立ち姿です。明倫館や松下村塾に通っていた当時(20歳ごろ)の姿で、誕生地や萩城の方角を向いて立っています。

 次は菊屋横町の東の伊勢屋横町に入ります。当時呉服商・伊勢屋があった通りなのでこの名がついています。この通りには、英傑の旧宅で公開されている建物はありませんが、伊勢屋横町を南から入ってすぐ右手に、小田村伊之助(後の群馬県令・楫取素彦、松陰の妹・寿および文の夫)が住んでいたそうです。現在は、一般の人が住んでおられます。

 伊勢屋横町を抜けて東にある江戸屋横町に北から入ります。まずは木戸孝允旧宅です。木戸孝允(桂小五郎)は、西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」と呼ばれました。天保4年(1833)、萩藩医・和田政景の長男として生まれました。8歳の時に近隣の大組士の桂家に養子に出され、桂小五郎と名乗りました。しかしまもなく、養父母が亡くなったため実家に引き取られ、20歳までこの旧宅で過ごしていました。藩校明倫館に通い、吉田松陰の兵学の門下生となり、やがて藩の要職に就いていきます。幕府による長州藩への圧力が強まってきた慶応元年(1865)、藩命により木戸孝允と名を改めました。木戸の名を高めたのは、慶応二年(1866)、坂本竜馬の仲介により、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通と結んだ薩長同盟でしょう。この同盟が成ったことにより、時代は一気に明治維新へと流れていきました。維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に尽力しました。しかし、明治10年(1877)、西南の役の途中で病死してしまいました。享年45歳でした。旧宅は、木造二階建て桟瓦葺の建物です。木戸が生まれた部屋や庭園など、当時の姿を今に残している貴重な史跡です。また、幼少時代の手習いの書や写真などが展示されています。

 木戸邸から少し南に歩くと「青木周弼旧宅」があります。青木周弼(しゅうすけ)は、13代藩主毛利敬親(たかちか)の侍医を勤めた人で、蘭学医としては日本屈指だったといわれます。周弼は享和3年(1803)、周防大島郡の医師・青木玄棟の長男として生まれました。江戸や長崎で蘭学を学び、シーボルトにも師事したといいます。長崎で開業していましたが、その後萩藩医となり、嘉永元年(1848)、毛利敬親の信任を得て侍医となりました。種痘法に注目し、これを研究し藩内に普及させた功労者でもあります。高杉晋作が10歳の時に疱瘡(ほうそう)にかかった時、治療に当たったのは周弼だったといいます。また、藩の医学館創設に奔走し、館長として医学の発展に貢献しました。文久3(1863)年、61歳でこの世を去っています。旧宅は、安政6年(1859)ごろに建てられたものです。江戸屋横町に面した表門、中間(ちゅうげん)部屋、主屋と土蔵で構成されています。主屋は南向きの8畳の来客用座敷と、北向きの6畳の主人用の座敷とに分かれています。青木家には、蘭学を志す多くの門下生が全国から集まっていたといいます。中間部屋は、青木家の家来の住居です。3畳と4畳半の2部屋があり、台所がついています。なお、平成2年(1990)、土蔵の床下から一分銀1,200枚が発見されました。銀貨の包みに周弼の弟である研蔵の署名があったので、おそらく周弼が子孫のために残していったものだと考えられています。その一分銀は、旧宅内に展示されています。

 青木周弼旧宅から、さらに南に歩くと円政寺があります。円政寺は、もともと大内氏の祈願所として、建長6年(1254)に現在の山口市円政寺町に創建されました。その後、毛利輝元が慶長9年(1604)に萩築城を開始した頃に萩・塩屋町に移転され、毛利氏の祈願所となりました。明治3年(1870)、現在地にあった法光院と合併移転し、円政寺と称するようになったといいます。現在は、真言宗御室派の寺院です。境内には、円政寺本堂と金毘羅社が同居しており、明治初期の神仏分離令をすり抜けた格好で珍しい姿といえます。山号は月輪山(げつりんざん)といいます。山門から境内に入って正面に見えるのが円政寺本堂で。右手奥にあるのが金毘羅社拝殿です。本堂横には弘法大師修行像が立っています。金毘羅社拝殿の前には大きな石灯籠があります。また欄干には十二支が刻まれ、赤い大きな天狗の面がかかっています。菊屋横町に住んでいた高杉晋作が、幼いころに親に連れられてこの天狗面を見せられたといいます。幼い晋作に度胸をつけさせるためだったといわれます。また、境内には神馬として金毘羅社に奉納された等身大の木馬があります。作製年度は文政3年(1820)で、名工といわれた安永貞右衛門の作だそうです。晋作だけではなく、若き日の伊藤利助(博文)少年もこの寺の境内が遊び場だったようで、神馬の鼻をよく撫でていたといいます。幕末期、円政寺の住職と利助少年の母が親戚だったため、利助少年は寺に小僧として預けられ、住職から読み書きを習っていたと伝えられています。利助少年が使っていたという、荷物を運ぶための「しょいこ」が寺に保存されているそうです。江戸屋横町に住んでいた桂小五郎も、子供の頃にはこの寺の境内で遊んでいたかもしれません。もっとも桂は、晋作よりも6歳、俊輔よりは8歳年上ですから、三人が一緒に遊んでいたということはなかったかもしれませんが・・・。



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