ー甲斐健の旅日記ー

山口・亀山公園周辺/毛利敬親像・ザビエル記念聖堂・藩庁門を訪ね歩く

 山口駅から駅前の広い道を北西にまっすぐ進み、市役所の前でパークロードと呼ばれる国道203号に出てしばらく歩くと、左手に亀山公園が見えてきます。山口駅から徒歩15分ほどです。路線バスですと、山口駅からコミュニティバス(大内ルート)に乗り、「市役所前」で下車します。亀山公園を散策し、周辺にあるザビエル記念聖堂や藩庁門を訪ねます。

このページの先頭に戻ります

 亀山という名称は、山の形が亀の甲羅に似ていることからつけられたそうです。室町時代末期には、毛利氏によって築かれた長山城があったといいいます。慶長元年(1596)には、毛利輝元の命により、毛利秀元が長山城の修築を始めましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れたためこれを断念し、長山城は廃城になってしまいました。明治になって、この地は公園として整備され、亀山公園となりました(明治33年:1900年)。亀山山頂の「憩いの広場」には、13代長州藩主・毛利敬親(たかちか)の銅像があります。想像していたよりも大きく、立派な騎馬像です。敬親は、幕末期において村田清風を登用して藩政改革を実行させ、藩の財政再建を行いました。また、周布政之助、木戸孝允、高杉晋作などの正義派(革新派)を登用し、長州藩を明治維新実現の功労者とした責任者でもあります。一方では、幕府に恭順を示す俗論派(保守派)に一時期藩政を任せるなど、「優柔不断」と評価される面もあり、評価が分かれる人物でもあります(毛利敬親の詳細についてはこちら)。

 山頂広場周辺には、国木田独歩の詩碑や大内義長がキリスト教の布教を許し、教会建立を許可した裁許状を刻んだ碑があります。国木田独歩は、千葉県銚子市出身です。明治期の文学者で、ジャーナリストでもあります。自然主義文学の先駆者といわれます。現在(2016年4月現在)も続く雑誌『婦人画報』の創刊者でもあります。大内義長は、周防・長門両国の戦国大名です。下剋上で大内氏を乗っ取った陶晴賢(すえ はるかた)の後ろ楯で32代当主となりますが、事実上は晴賢の傀儡政権だったといいます。弘治元年(1555)に陶晴賢は、厳島の戦いで毛利軍に破れます。その2年後、毛利軍は山口に侵攻し、義長は敗走して自刃しました。享年26歳でした。これで大内氏は滅亡し、周防・長門は毛利氏の所領となりました。

 亀山公園の南端に、山口サビエル記念聖堂があります。フランシスコ・ザビエルは、室町時代後期に日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン(ナバラ王国)の宣教師です。来日当初は、布教活動がなかなか認められなかったのですが、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前(中国地方西部から北九州)の守護大名だった大内義隆が、日本で初めて布教を許可しました。記念聖堂は、昭和27年(1952)、ザビエルが山口で布教活動を始めてから400年を記念して建てられました(なお、ザビエルは「ザ」ですが、サビエル記念聖堂は「サ」です)。しかし平成3年(1991)、聖堂は火災により焼失してしまいました。現在の建物は、平成10年(1998)に再建されたものです。新しい聖堂には、髙さ53m(十字架と鐘を含めて)の二本の塔が建ち、白壁が美しい三角錐の建物です。礼拝堂内部も見学することが出来ます。堂内にはたくさんのステンドグラスが施され、それを通して様々な色合いの光が、礼拝堂内をやさしく包み込んでいます。15分おきに時を告げる鐘(リヨンの鐘)の音も、創建当時と同じように鳴り響いています。聖堂と道路を挟んだ向かい側の静かな森の茂みの中に、「大聖年の鐘(ザビエルの鐘)」が設置されています。この鐘は、1998年に「大聖年(だいせいねん:2000年)の平和の鐘」として世界で五つ鋳造されたものの一つです。五大陸が平和になりますようにと、各大陸に一鐘づつ贈られました。アジアでは、1981年2月に広島に来日された教皇ヨハネ=パウロ2世による平和メッセージを記念して日本に贈られることになり、キリスト教ゆかりの地山口に設置されることになったのです。この鐘は、だれでも自由に撞くことが出来ます。平和への願いを込めて、鐘に彫られている神の目の「聖なる扉」を見つめながら、振り子を手前に引いて1回だけ鳴らすのだそうです。

 亀山公園の北側、山口県庁の南に藩庁門があります。この門は、元冶元年(1864)、13代長州藩主・毛利敬親が、藩政の本拠地を萩から山口に移した際に建設した山口政事堂の表門として築造されました。切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)薬医門(やくいもん)です。主材は、ケヤキと松だそうです。明治4年(1871)の廃藩置県までは藩庁門として使用され、その後は山口県庁の正門となっていました。大正5年(1916)に県庁新庁舎が完成した後は、西口の門として利用され、現在に至っています。幕末の激動期、高杉晋作や桂小五郎など多くの志士たちがこの門をくぐって藩主のもとへかけつけ、新時代到来のための策を練っていたのかと思うと、感慨深いものがあります。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image