ー甲斐健の旅日記ー

山口・香山公園/瑠璃光寺、露山堂、毛利家墓所などを訪ね歩く

 香山公園(こうざんこうえん)は山口県庁の北に位置し、瑠璃光寺(るりこうじ)周辺一帯を整備して造られた公園です。公園の東側には、大内文化を代表するとされる五重塔があり、西側には、長州藩13代藩主毛利敬親(たかちか)が、茶事にことよせて藩士と討幕の策を練ったといわれる露山堂や毛利敬親とその夫人が眠る香山墓所(毛利家墓所)などがあります。香山公園へは、山口駅からコミュニティバス(大内ルート)に乗って「香山公園五重塔前」で下車するのが便利です(所要時間13分)。

このページの先頭に戻ります

 まずは瑠璃光寺を訪ねます。瑠璃光寺は曹洞宗の寺院で、山号は保寧山(ほねいざん)、本尊は薬師如来です。もともとこの地には、北九州から近畿にかけて6カ国の守護を務め大内氏の全盛時代を築いた、大内氏25代・義弘が、室町時代に建立した香積寺(こうしゃくじ)がありました。現在ある五重塔は、義弘が応永の乱で幕府軍に破れて戦死したのち、大内氏の後を継いだ弟の盛見(もりはる)が兄の菩提を弔うために建立したものです。一方、瑠璃光寺は、大内氏の譜代の重臣だった陶(すえ)氏の7代当主・弘房が亡くなった時、その夫人が夫の菩提を弔うために、文明3年(1471)に創建したのが始まりとされます。当初は安養寺と呼ばれ、山口市仁保(にほ)にありました。その後明応元年(1492)に、瑠璃光寺と名を改めています。関ヶ原の戦いの後、毛利氏が萩に転封となった際に、香積寺が萩に移されることになったため、瑠璃光寺がその跡地に移転し、現在に至っています。

 五重塔は、大内文化の最高傑作といわれ、嘉吉2年(1442)に建立されました。日本の三名塔の一つといわれます(他は、法隆寺の五重塔、醍醐寺の五重塔)。高さ31.2mで屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。夜間はライトアップされるそうです(23:00まで)。

 瑠璃光寺の山門をくぐると、正面に入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)本堂があります。その右手には鐘楼(しょうろう)があります。入母屋造・桟瓦葺で、二階部分に梵鐘が吊され、下層は袴腰(はかまごし:末広がりの構造)となっています。本堂の前には、仏足石(ぶっそくせき)や「知足の手水鉢(ちょうずばち)」が置かれています。手水鉢は、永楽銭の銭型をしており、中央の「口」の部分が、四角い水溜めになっています。石造りで、「我唯足知(われ ただ たるをしる)」と刻まれています。

 瑠璃光寺山門の南東に、「大内弘世騎馬像」があります。大内弘世は南北朝時代の武将で、周防、長門、石見を治めた守護大名です。大内氏24代当主です。弘世は正平15年/延文5年(1360)に本拠を大内館から山口へ移転し、京都をまねた都市計画を立てて街づくりを行い、後に花開いた大内文化の基礎を築いた人物です。

 香山公園西にある露山堂は、13代長州藩主・毛利敬親が山口政事堂の近くに設けた茶室を、この地に移築したものです。文久3年(1863)4月、毛利敬親は、藩庁を萩から山口に移し、現在県庁がある場所に政事堂を建てました。それと同時に、政事堂の近くの一露山のふもとに建てたのがこの茶室です。しかし、茶室とは名ばかりで、敬親はここに藩士を集めて、討幕や王政復古の大業について密議をしていたといいます。あたかも、萩城内にあった花江亭の役割をしていた建物だったのでしょう。明治になって老朽化が激しくなったため、敬親の側近だった品川弥二郎が、有志に諮って資金を集めて買い取り、明治24年(1891)、現在地に修復・移築しました。周囲の庭園も、この時造られたといいます。露山堂のすぐそばに、「誰が袖の手水鉢(たがそでの ちょうずばち)」があります。この手水鉢は、京の小堀家から岩国の吉川家に贈られ、その後毛利敬親に献上されたものです。側面から見ると、着物の振袖に似ていることからこの名がついたといわれます。露山堂が当地に移築されたときに造られたもので、レプリカだそうです。

 露山堂の北に、「勅撰銅碑」という碑が建っています。意外に大きいもので、髙さは地表から4.3mあります。この碑は、明治天皇が、明治維新実現を果たした毛利敬親の偉業を永久に伝えるためにと命じて建立されたものです。篆額(てんがく:篆書で書かれた題字)は、彰仁親王(あきひとしんのう:皇族、戊申戦争における官軍の指揮官・元陸軍大将)の書で、本文は、山口市の書家・野村素介が書いたものだそうです。日本に数基ある勅撰銅碑の中でも、最も美しいものと評価されています。

 この銅碑の近くの石畳は「うぐいす張りの石畳」と呼ばれています。この付近で手を叩いたり足を強く踏み鳴らすと、前方の石段や石垣と反響して、美しい音がかえってきます。人為的につくったものではなく、偶然にできたものだそうです。この石畳の北の石段を登ったところに、毛利家墓所があります。萩市にある、天授院跡(毛利輝元)、東光寺(12代までの萩藩・偶数代藩主)、大照院(11代までの萩藩・奇数代藩主)の墓所と共に13代以降の長州藩主の墓です。中央に13代毛利敬親夫妻、向かって左に14代毛利元徳夫妻、右に15代毛利元昭夫妻の墓が並んでいます。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image