ー甲斐健の旅日記ー

毛越寺/奥州藤原氏の栄華の象徴だった寺院

 毛越寺(もうつうじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院です。山号は「医王山」と称します。開山は、第三代天台座主(てんだいざす)をつとめた、慈覚大師(じかくだいし)円仁と伝えられます。本尊は薬師如来です。

 寺伝によれば、毛越寺の開山には次のような伝承があるといいます。嘉祥3年(850)、円仁が東北地方を巡りこの地にさしかかると、一面に霧がたちこめ一歩も動けなくなりました。ふと足元をみると、白鹿の毛が点々と並んで落ちていました。その毛をたどっていくと、その先に白鹿がうずくまっていました。円仁が近づくと、その白鹿は一人の白髪の老人に姿を変え、「この地は霊地であるから堂宇(どうう)を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げたといいます。円仁は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇(いちう)の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これが毛越寺の始まりとされます。この毛越寺の名前は、白鹿の毛を追いかけて山を越したという故事に由来するという説があります。

 その後、大火で焼失して荒廃していましたが、奥州藤原氏第二代基衡(もとひら)によって再興されました。鎌倉時代末期に執権の北条得宗家によって編纂された『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、北に位置する中尊寺をしのぐ規模だったといわれます。奥州藤原氏滅亡後も、鎌倉幕府に保護されていましたが、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、さらに天正元年(1573)の兵火によって伽藍(がらん)はことごとく焼失してしまいました。江戸時代の寛永13年(1636)に、伊達政宗の死去に伴い、当時の本尊であった釈迦三尊像が政宗の菩提寺の瑞鳳寺(ずいほうじ:仙台市)に移されました。その後しばらくは、寺の境内とその周辺は水田化されていたといいます。

 昭和29年(1954)から5年にわたって、発掘調査が行われました。それにより、伽藍の全容が明らかになり、『吾妻鏡』などの記録にほぼ合致するものだったことがわかりました。現在は、大泉が池を中心とする浄土庭園が往時の面影を残して整備され、南大門跡の南側に、伊達一関藩・一関城の大手門を移したとされる山門や、平安様式の新本堂、宝物館などが建立されています。

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 毛越寺は、平泉駅から駅前の道を西へ10分ほど歩いたところにあります。平泉市内を複数個所まわる場合は、巡回バス「るんるん」が便利です。一日乗車券(400円:2015年11月現在)で、中尊寺、高舘義経堂、無量光院跡、柳之御所跡などにアクセスできます。運行間隔は30分(4/18~11/3の土日祝日は15分)です。なお、平泉駅から毛越寺までの所要時間は3分です。

 大正10年(1921)年に伊達一関藩・一関城の大手門を移築したとされる山門をくぐり、毛越寺の境内に入ります。

 山門を入ってすぐ左手に宝物館があります。入り口では、慈覚大師円仁坐像が迎えてくれます。中には、毛越寺に伝わる平安期の仏像、書籍、工芸品、発掘の遺品などが陳列されています。聖観音像、阿弥陀如来坐像(二体)、薬師如来像(以上木像、平安後期作)、不動明王像(銅像、鎌倉時代作)などを間近で拝観することが出来ます。

 宝物館の向かい側、大泉が池の湖岸に「芭蕉句碑」があります。文治5年(1189)閏4月30日、奥州藤原氏四代泰衡に急襲され、妻子と共に自害して果てた源義経をしのび、この地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ、

    「夏草や 兵どもが 夢の跡」

という句です。二基あり、向かって左手の碑は芭蕉の真筆とされ、その甥の僧である碓花坊也寥(たいかぼうやりょう)が建立したと伝えられます。右手の碑は、平泉出身の俳人素鳥(そちょう)が文化3年(1806)に建てたものです。

 大泉が池の南をさらに西に進むと、正面に朱塗りの本堂が見えます。現在の本堂は、平成元年(1989)に建立された平安様式の建物です。毛越寺旧境内の外側、南大門跡の南に建てられています。本尊は薬師如来、脇侍として日光菩薩、月光菩薩が安置されています。また、四方には、本尊を守護する四天王が配置されています。

 本堂から、大泉が池を回遊するコースになります。ここでは、大泉が池を中心とする浄土庭園と、旧伽藍跡や現存する建築物とに分けて紹介していきます。

 毛越寺の庭園は、長い戦乱を経て奥州の支配者となった藤原氏が、戦乱で犠牲となった多くの人々(敵も味方も)の霊を救い、現世に仏の世界を具現化するために造営されたものの一つといわれ、浄土庭園と呼ばれています。その中心にある大泉が池は、東西約180m、南北約90mあり、作庭された往時の面影をそのまま残しているといいます。当時は、現在の新本堂の側にあった南大門から池の中島まで反り橋がかかり、中島の北から金堂(現在は金堂跡)まで斜橋がかかっていたといわれています。この反り橋の橋杭の一部は現存しており、宝物館に陳列されています。この橋の遺構は、日本最古のものだそうです。

 池の周囲を時計回りに回っていきます。まず南西の位置に築山があります。大小各種の石を置き、岩山を作り出しています。平安時代に書かれた『作庭記』に描かれている「枯山水の様」の実例といわれています。この時代の「枯山水」は、池も遣水もないところに、ただ石を立てるだけのものであったようです。

 池の対岸、北東の位置に、池に水を取り入れる水路の役割をしていた遣水(やりみず)の遺構があります。平安時代の遺構として現存する唯一のもので、大変珍しいそうです。玉石を底に敷き詰め、水を左右に分けて流れをつくる水切り石や、水面下で水を盛り上げる水越石などで、水の流れをコントロールして美しい流れを演出しています。毎年5月の第四日曜日には、ここで「曲水の宴(ごくすいのえん)」が行われます。平安衣装を身にまとった人々が集い、遣水に盃を浮かべ流れ来る間に和歌を詠み、終わって杯を干すというもので、中国から伝わった催事です。

 池の南東にある州浜(すはま)は、広々とした海岸の砂州(さす)を表現しており、砂洲と入江が柔らかい曲線を描き、美しい海岸線を表しています。この辺りは底が浅くなっており、池底に敷き詰められた玉石が、水位が上下するたびに現われ、その姿を変えていきます。

 州浜のすぐ西には、「出島石組と池中立石」があります。半島状の出島が突きだしており、水辺から石組が続き、その先には高さ2mほどの立石が立っています。荒磯を表現しているといわれ、浄土庭園の中でも象徴的な場所となっています。

 次に、毛越寺の旧境内にある建物と史跡について紹介します。新本堂のすぐ横、大泉が池のほとりに南大門跡があります。ここには、12個の礎石が残っており、建物の大きさは、東西約11.6メートル、南北約7.3メートルの二階建ての惣門(そうもん)で、左右に金剛力士像が安置されていたと伝えられます。

 大泉が池の西に開山堂があります。ここは、毛越寺の開山とされる慈覚大師円仁を祀るお堂です。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。慈覚大師像、両界大日如来像、藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の画像が安置されています。また、開山堂の手前には、白と紫の美しい花を咲かせるあやめ園があります。6月から7月にかけてが見ごろだそうです。

 大泉が池の北西から北東にかけて、旧伽藍の史跡がずらりと並んでいます。それらを順番に紹介します。

▸嘉祥寺跡・・・杉並木に囲まれた建物跡。その前身は、慈覚大師円仁にさかのぼるとされますが、奥州藤原氏二代基衡が着工し、三代秀衡が完成させたといわれます。正面約28m、側面約22.5mで、左右に廊があったとみられています。建物の規模は、金堂円隆寺と同等でした。本尊は丈六の薬師如来だったと伝えられています。

▸講堂跡・・・仏法を説いたり、その法を聞き議論する場。また、潅頂(かんじょう)という仏と縁を結ぶ儀式も行っていたとされます。本尊は、胎金両部大日如来と伝えられます。基壇に34個の礎石が残っており、正面19.1メートル、側面15.1メートルの建物と考えられています。火災で焼失後再建されましたが、天正元年(1573)の兵火によって全焼し、現在に至っています。

▸金堂円隆寺跡・・・基衡が建立した勅願寺で、毛越寺の中心を占めるお堂です。南大門から橋を渡っていくとその正面に位置していました。基壇に残る礎石から、正面約27.4m、側面約22.5mであったと推測されています。本尊は丈六の薬師如来で、京仏師雲慶作といわれています。さらにその周囲には薬師如来を守る十二神将像が祀られていたと伝えられます。この本尊は素晴らしい出来栄えだったようで、これを見た鳥羽上皇が「都から出してはならぬ」と命令したほどだったと伝えられています。その後、関白太政大臣藤原忠通のとりなしで、ようやく平泉に運ぶことが出来たといいます。しかしこの本尊も、嘉禄2年(1226)の火災で、建物と共に焼失してしまいました。

▸経楼跡・鐘楼跡・・・金堂には翼廊があり、建物の東西につばさの様に廊下が伸びていました。祖の翼楼は途中で南に直角に折れ、その先に経楼(西側)と鐘楼(東側)が配置されていました。経楼は経文を納めた建物、鐘楼は梵鐘が吊るされた建物です。

▸常行堂・法華堂跡・・・大泉が池の北東端に常行堂跡、法華経跡が並んであります。南側の常行堂は、15.4m方形の建物、北側の法華堂は11.8m方形の建物とみられています。常行道の礎石は残っていません(現常行堂の礎石に流用されたのか?)が、根石が見つかったため、推定可能となったようです。常行堂は、本尊の周りを巡り行う常行三昧(じょうぎょうざんまい)の場で、法華堂は、法華経を読み悟りをひらく法華三昧の修業の場です。なお、これらのお堂は慶長2年(1597)に、野火のために焼失したと伝えられています。

 法華堂の西に、常行堂が建っています。この建物は、享保17年(1732)に仙台藩主伊達吉村の武運長久を願って再建されました。宝形造り(ほうぎょうづくり)茅葺(かやぶき)の建物です。須弥壇(しゅみだん)中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩が祀られています。また、奥殿には秘仏として摩多羅神(またらじん)が安置されています。摩多羅神は修法と堂の守護神であり、地元では古くから作物の神様として信仰されているそうです。奥殿の扉はふだんは固く閉ざされ、33年に一度御開帳されます。祭礼の正月20日の「二十日夜祭」では、古式の修法と法楽としての「延年の舞」が夜半まで奉納されます。これは、国の重要無形民俗文化財に指定され、一山の男子により受け継がれているそうです。



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