ー甲斐健の旅日記ー

本能寺/織田信長の「天下布武」の野望を打ち砕いた歴史的舞台

 本能寺(ほんのうじ)は、京都市中京区にある法華宗本門流の大本山です。山号は卯木山といいます。天正10年(1582)、明智光秀が主君織田信長に対して謀反を起こし殺害したとされる、本能寺の変の歴史舞台となったことで、あまりにも有名です。

 本能寺は、応永22年(1415)、法華宗本門流の祖と言われた日隆(にちりゅう)によって創建されました。当時は本応寺という寺号で、南北を五条坊門(仏光寺通)と高辻通、東西を西洞院(にしのとういん)通りと油小路通りに囲まれた地にありました。日隆は、至徳2年(1385)、越中国(現・富山県射水市)で生まれました。応永3年(1396)、遠成寺(おんじょうじ)で出家し、その後妙本寺(現・妙顕寺:京都市上京区)4世日霽(にっせい)に師事し名を日隆としました。しかし、妙本寺5世となった月明と法華経の解釈で対立し、妙本寺を退出しました。日隆の主張は本迹勝劣(ほんじゃくしょうれつ)というもので、これが後に、法華宗本門派の基本的な考えとなったといいます。妙本寺を退出した日隆は、その後、本応寺を創建するのですが、妙本寺・月明の日隆に対する攻撃は容赦なく続き、ついには月明の命により、妙本寺の教徒によって本能寺は破却されてしまいました(応永25年:1418年)。日隆は一時京を離れていましたが、永享元年(1429)京へ戻り、豪商・小袖屋宗句の援助を受けて内野(現・西陣付近)に本応寺を再建しました。さらに永享5年(1433)、如意王丸という人物から寄進を受け、現在の中京区六角大宮町付近に移転し、寺号を本能寺と改めました。敷地面積は1町(1万平米)はあったといわれます。

 天文5年(1536)、本能寺にとって大変不幸な事件が起きます(天文法華の乱)。京で、特に商工業者たちを中心に信仰を集めて勢力を伸ばしていた法華宗に対して、比叡山延暦寺の僧兵が、六角近江衆の助けを借りて洛中に乱入し、京都法華宗21本山を焼き討ちにしたのです。このとき本能寺も焼失し、一時、堺の顕本寺(けんぽんじ)に避難したといいます。天文16~17年(1537~38)になると、日承上人(にちじょうしょうにん)が本能寺8世となり、本能寺を再建しました。寺地は、南北が六角小路(六角通)から四条坊門小路(蛸薬師通)、東西が油小路から西洞院通りまでと広大(東西150m、南北300m)なもので、大伽藍(がらん)が造営されたといいます。織田信長が、本能寺を上洛時の宿所としてよく使っていたのは、日承上人に帰依(きえ)していたからということもありますが、本能寺は種子島でも布教活動を盛んに行い信者がたくさんいたため、鉄砲や火薬(硝石)の交易が本能寺を通じて行いやすかったためともいわれます。そして、天下を揺るがす大事件が起こります。

 天正10年(1582)6月2日、信長がわずかの手勢のみで本能寺に宿泊していた時、最も信頼していたはずの「忠臣」明智光秀が謀反を起こし、本能寺を襲撃したのです。信長は「是非もなし」とつぶやき、寺に火をかけて自害して果てたといいます(その亡骸は発見されなかったとか、阿弥陀寺の住職が焼け残った遺骨を持ち帰って供養したとか諸説あります)。

 秀吉の天下が定まった天正20年(1592)、本能寺は現在の地に再建されました。当時は、現在の京都市役所の敷地を含む広大な地に大伽藍が造営されたといいます。その後は、天明の大火(天明8年:1788年)、禁門の変(元治元年:1864年)で焼失、再建を繰り返しています。現在ある本堂は、昭和3年(1928)に再建されたものです。なお、信長が明智光秀に討たれたた旧本能寺の跡地には、現在石碑が立っています。

 ところで、本能寺の「能」の字は正式には「䏻」という俗字になっています。これは、本能寺がたびたび火災に遭っているため、<ヒ(火)>が<去る>という願いが込められているのだそうです。実際、平成19年(2007)に行われたマンション建設に伴う遺構調査では、「䏻」という俗字がデザインされた丸瓦が、見つかっています。

このページの先頭に戻ります

 本能寺へは、京都駅からですと京都市バスに乗って(4、17,205系統など)河原町三条で下車するのが近いです。バスを降りたのち、河原町通りを北(市役所方面)に進むと左手にあります。河原町通りから入る河原町門は非常に狭い門で、うっかりすると見逃すかもしれません。河原町通から一ブロック西の寺町通の商店街に面して、本能寺山門があります(もう一つ御池通にも入り口があります)。

 本瓦葺(ほんがわらぶき)の山門をくぐって境内に入ると、正面に本堂が見えます。何度も焼失しては再興された本堂でしたが、現在ある建物は、昭和3年(1928)に建築家・天沼俊一氏の設計で、室町時代の姿を忠実に再現させて建造されました。入母屋造(いりもやづくり)・本瓦葺(ほんがわらぶき)総ヒノキ造りで、正面に3間の向拝(こうはい)が施されています。

 本堂の裏手には、信長公廟、本能寺の変戦没者合祀墓、日承上人墓石があります。信長公廟は、信長の三男信孝が本能寺の変から1ヵ月後に建立したと伝えられています。信長が所持していた太刀が納められているといわれます。本能寺の変戦没者合祀墓には115名の名が記されています。信長公廟のそばに、大きなイチョウの木があります。本能寺の変の後にこの地に移植されたものと伝えられます。天明8年(1788)の天明の大火で京都市中が猛火に包まれたとき、このイチョウの木から水が噴き出して木の下に身を寄せた人々が助かったという言い伝えから、「火伏せのイチョウ」として大切に保存されているそうです。

(追記)  信長が光秀に討たれた旧本能寺(本能寺跡)へは、京都駅からですと市バス26あるいは50系統に乗車し、「四条西洞院(しじょう にしのとういん)」で下車するのが近いです。バス停のある四条通から北へ数分歩くと蛸薬師通(たこやくしどおり:東西に走る狭い道)に出ます。本能寺跡の石碑は、この通り沿いと、蛸薬師通と油小路通りが交差する角にあります。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報

このページの先頭に戻ります

popup image